畠山稙長

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畠山稙長
時代 戦国時代前期
生誕 永正元年(1504年
死没 天文14年5月15日1545年6月23日
別名 次郎(通称)、稙家
戒名 大和寺殿覚源悟公
官位 右衛門佐尾張守
幕府 室町幕府河内紀伊越中守護
氏族 畠山氏
父母 父:畠山尚順(尚長)
兄弟 稙長長経政国晴熙、基信

畠山 稙長(はたけやま たねなが)は、戦国時代守護大名河内紀伊越中守護。足利氏支流畠山氏出身で河内畠山氏の一流である畠山尾州家(高屋畠山氏)の当主。

畠山尚順(のち尚長)の子で長経政国晴熙の兄とされる。通称は次郎。家の慣例により、第10代将軍足利義稙より偏諱を賜い稙長(別名:稙家(たねいえ))と名乗る。官位は右衛門佐尾張守。法名は大和寺殿覚源悟公。

生涯[編集]

父との確執[編集]

永正12年(1515年)に元服し、永正14年(1517年)に父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に河内高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に父の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。

父は室町幕府管領細川高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功した。永正14年(1517年)に尚順は紀伊に下向。これは管領は高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られることに不満があったためとされることもあるが。澄元派の反撃に備えて領国を固める積極的意志と評価する説もある。これに伴い稙長は幕府と関係する畿内での活動を継承している。

永正15年(1518年)に義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、強硬な統治方法に反発する国衆から永正17年(1520年)に紀伊を追放され、堺に逃れることになる。これにより稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。同年2月に父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、3月に落とされ逃亡したが、5月に高屋城を奪い返し義英を大和へ追放した。同年6月から10月に高国と協議の上で大和に介入、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保った。

一方、尚順と結んだ義英が翌大永元年(1521年)に高屋城を攻撃するも稙長がこれを撃退。尚順は義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。翌大永3年(1523年)に義稙も死去、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった[1]

堺公方との対立と追放、復権[編集]

大永2年においては、高屋城が焼失するなど、稙長の統治は安泰とはいえなかった。稙長の支持者であった高国が大永6年(1526年)の桂川原の戦い以降の内紛に悩まされる中、享禄元年(1528年)、稙長の高屋城が反高国派の柳本賢治によって陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。

享禄4年(1531年)には高国が大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯が細川晴元の家臣三好元長と結んで晴元と対立し、天文元年(1532年)に両者が晴元に加勢した一向一揆に攻められ自刃に追い込まれる(享禄・天文の乱)。ところが、晴元は12代将軍足利義晴と和睦し、義堯の元家臣で晴元に寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じると、稙長は義晴を奉じる姿勢を取りつつも、高国の弟で細川晴国が決起するとこれを支持し、天文3年(1534年)1月に石山本願寺との同盟し自身の弟である畠山基信を本願寺に入れた。

しかし、守護代である遊佐長教は晴元との融和を考え、同年8月には稙長弟の長経が義晴の御内書を得て長教に擁立されており、この間に稙長は紀伊に追放ないし出奔したものと思われる。ただし稙長に付き従った重臣の丹下盛賢は知行宛行権を持つ文書を発給し続けており、守護としての軍事動員権はその後も保持し続けている。 長経は天文4年(1535年)ないし5年頃には消息がわからなくなり(『足利季世記』などの軍記では長教に暗殺されたとされるが、裏付けはない)、弟の播磨守晴熙が擁立されている。 しかし晴熙は「惣領名代」とされており、正式に義晴や晴元から家督として承認されなかったようで、やがて天文7年(1538年)には畠山弥九郎という人物が擁立されている。弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として置いた。尾州家と総州家の実力者である長教と長政が一向一揆などの脅威に備えるため両畠山氏の和睦に動き、このような体制を構築したのであるが、実権は2人が握っていた。

この弥九郎という人物は母方の叔父が「細川典厩」とされており、また稙長の弟として系図などにも名前が見えないため、晴元の息の掛かった人事ではないかと思われる。この弥九郎の擁立に不満を示したのか、同年8月には稙長と丹下盛賢は河内上洛を計画、本願寺とこの時期に足利義晴に上洛を求められた尼子晴久と音信を交わしており、更に高国残党である細川氏綱も擁立していた。

天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、在氏を追放し、湯川衆・熊野衆・根来寺・高野山などを糾合した3万という軍勢で高屋城を回復、畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は稙長・長教・三好長慶三好政長によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。

在氏はその後幕府に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる[2]

晩年[編集]

長政の滅亡後、表向きは幕府に帰参したものの、水面下では晴元への対抗のため細川氏綱を支援し続けており、本願寺や尼子晴久とも連絡を取っていた。天文12年(1543年)にかつての氏綱が堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになるも、積極的に氏綱を支援しようとする稙長に対し老臣(遊佐長教か)が反対しており、大きな軍事行動を起こさないまま天文14年(1545年)に病没する。 高国没後もその残党を支援し晴元を追い落とそうとし続けた稙長の路線は、やがて長教が継承し悲願を達成することになる。

家督は弟政国が継いだとも、氏綱の援助で幕府の敵となった稙長の後継者を認めない晴元の介入で畠山四郎なる人物が継いだともいわれる。また、家督を能登畠山氏の畠山義総から養子を迎えるよう遺言したが、稙長の死の直後に義総も病死したことで宙に浮き、稙長の舎弟がこれに反対したことで一時家中が混乱し、稙長の葬儀も行えない状況であったともいう[3]

脚注[編集]

  1. ^ 朝倉、P190 - P200、弓倉、P42 - P46、福島、P71。
  2. ^ 朝倉、P203 - P206、P211 - P212、弓倉、P46 - P48、P309 - P316、福島、P75、P89、P92 - P94。
  3. ^ 弓倉、P48、P238 - P243、福島、P97 - P99。

参考文献[編集]

関連項目[編集]


先代:
畠山尚順
河内畠山氏 (尾州家)
畠山稙長
次代:
畠山長経
先代:
畠山弥九郎
河内畠山氏 (尾州家)
畠山稙長
次代:
畠山政国