畠山尚順

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畠山尚順 / 畠山尚長
時代 戦国時代前期
生誕 文明7年(1475年
死没 大永2年8月17日1522年9月7日
改名 尚慶→尚順→尚長、卜山
別名 次郎(通称)
戒名 勝仙院竜源徳陽
官位 尾張
幕府 室町幕府紀伊河内越中守護
主君 足利義尚義稙
氏族 畠山氏(政長流尾州家)
父母 父:畠山政長
稙長長経政国晴熙

畠山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより[1])は、戦国時代武将守護大名室町幕府紀伊河内越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。

畠山政長の子。稙長長経政国晴熙(はるひろ)の父。初名は尚慶(ひさよし/ひさのり)、後に尚順と名乗るが、更に父・政長の1字を取って尚長(ひさなが)と改名した。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。号は卜山。法号は勝仙院竜源徳陽。

明応の政変で没落して逼塞を余儀無くされたが、情勢の変化に乗じて家督の奪還を果たした。後に二転三転する畿内の情勢に見切りを付けて領国へ下向、実効支配を確立しようとしたが、失敗して家臣団に追放され再度没落、実権を取り戻せず死去した。

生涯[編集]

クーデター[編集]

父政長は応仁の乱畠山義就(総州家)と東西に分かれ壮絶な家督争いを展開したことで有名である。延徳2年12月(1491年)には義就が没し、尾州家の優勢は決定的となっていた。尚順は9代将軍足利義尚一字を貰い元服するなど、名門守護家の後継者として歴史に登場する。延徳4年(1492年)、10代将軍足利義材(義尹、義稙)に従っての近江への遠征(長享・延徳の乱)など実績を重ねてゆく。

明応2年(1493年)に父が義材を動かし宿敵である河内の畠山義豊(義就の子)討伐に向かうと尚順もこれに同行した。しかし、義材と父に反発する細川政元日野富子伊勢貞宗と結んでクーデターを起こし、新たな将軍として義材の従兄に当たる義遐(義澄)を擁立する(明応の政変)。逆に孤立無援となった父は河内正覚寺において重臣の多くと共に自決、義材は捕らえられ京都で幽閉され、尚順は辛くも紀伊へ逃げ延び尾州家の家督を継承したものの、畠山氏の家督は総州家の義豊に奪われてしまった。

父と共に自決した重臣の中には、河内守護代であった遊佐長直など、これまで父の統治を支えた多くの人材が含まれており、在国していた越中守護代の神保長誠は健在であったが、既に病身であり、政元の監禁から逃れた義材を迎えることに成功したものの(越中公方)、越中の尾州家の地盤をおさえるのがやっとの状態であった。

紀伊逃亡後は5月に襲撃した政元方の赤松政則の水軍を紀伊海賊の力を借りて撃破、9月に義豊の紀伊侵攻があったものの、これは全て退けており、父の時に主権を確立した紀伊において尾州家の軍事的優位は動かなかったものの、河内への反攻はしばらく後のことになる。明応4年(1495年)3月に義豊が紀伊南部の国人達と図り再度紀伊へ侵攻した時も撃退、同年10月と翌5年(1496年)10月の河内侵攻は失敗したが、紀伊の反対勢力の駆逐と与党の糾合に尽くし徐々に力を蓄えていった[2]

反撃[編集]

明応6年(1497年)9月、義豊の家臣団が起こした内紛を好機と捉え、河内を奪回するため尚順は挙兵し、10月には高屋城を奪い義豊を山城へ追い出し、同時期に大和で尚順派の国人筒井順賢十市遠治らが蜂起、義豊派の越智家栄家令父子と古市澄胤を追い落とし尚順は河内・大和を奪取した。更に2年後の明応8年(1499年1月30日河内十七箇所に逃れた義豊を攻撃、殺害した。

9月に河内から摂津に侵入して大和国人衆にも山城南部へ出陣させ、11月に越前朝倉貞景を頼っていた義尹(義材)が近江坂本に進撃するなど、三方向から政元を挟撃するチャンスであったが、12月20日に義豊の子の義英と結んだ政元と摂津天王寺で戦い大敗を喫したため紀伊へ退散、実権の回復は果たせなかった。義尹も11月22日に政元派の六角高頼に敗れ周防へ去り、大和も政元の配下赤沢朝経二上山城に入城して筒井氏側の国人を討伐、筒井派は没落して大和は政元の支配に入った。

翌明応9年(1500年)9月には根来寺粉河寺の衆徒と共に和泉岸和田城を攻撃し、離反した細川元有を殺害するも赤沢朝経に討伐され、やはり実権の回復は果たせなかった[3]

尚、亡き父・政長の1字を取って、諱を尚順から尚長に改めたのはこれより間もなく、文亀2年(1502年)頃のこととされている(次項より「尚長」の名で記述する)。

両畠山家の和睦・上洛[編集]

永正元年(1504年)になると、朝経と摂津守護代の薬師寺元一が反乱を起こすなど、政元政権における内部対立が表面化する。尚長はこの動きを利用し、総州家の義英を抱き込み、12月18日に和睦を結ぶことによって政元に対抗しようとするも、永正3年(1506年)に政元と和睦した朝経に誉田城と高屋城を攻略され義英と共に没落した。越中においては、神保長誠の没後不安定となっていた領国支配を分家である能登畠山家と越後守護代の長尾能景と結ぶことにより加賀一向一揆に対抗しようとするも、長誠の子である神保慶宗の離反が起きて能景は戦死(般若野の戦い)、ここでもその対策に追われる。

永正4年(1507年)6月に政元が暗殺、朝経も丹後で戦死すると(永正の錯乱)、9月に政元の養子細川澄元の配下赤沢長経(朝経の養子)が行った大和遠征に抵抗したが、12月には義英と絶縁して澄元と和睦、澄元の同族細川高国細川尚春及び赤沢長経の援軍と大和国人衆の合流を得て翌永正5年(1508年)1月に義英が籠もる嶽山城を落とした。直後に澄元と対立して義尹と結んだ高国と共に澄元及び義英と敵対、4月に義尹が周防守護大内義興に奉じられ上洛すると高国と共にで出迎え支持を表明した。そして7月に大和から河内へ攻めた長経・古市澄胤など澄元方の有力者を破った。なお、8月11日には尚長が京都の宿所としていた東福寺海蔵院へ将軍に復帰した義尹の御成が実施された[4]。義尹が将軍復帰後初となる御成先を尚長としたのは、彼が明応の政変以来一貫とした義尹の支持者であったことを評価したものであるが、それは同時に尚長が義尹の将軍復帰の最大の功労者であることを内外に表明する意味を持つことになる。だが、一方で自分が将軍復帰の最大の功労者と考えてきた大内義興の反感を買い、義興は宴会の途中で退席をしてしまい、細川高国もこれに同調した[5]ため、尚長と義興・高国の関係が悪化した[6]。永正8年(1511年)の船岡山合戦では澄元ら義澄派に勝利、義澄派についた義英と戦いこれを大いに破った。

かくして将軍に返り咲いた義尹の下で実権を回復した尚長であるが、管領は高国、山城の守護職は義興が任命され、政長時代の権力を完全に回復するまでは至らなかった。永正12年(1515年)には家督を嫡男の稙長に譲り隠居、分国である越中と紀伊の統治に専念した。この出来事については、上述の高国らとの対立軸で語られることもあるが、細川澄元の巻き返しに対抗するためという指摘もある[7]。堺から上洛を狙う澄元軍への対策として和泉・紀伊・河内の国境付近の防備を強化する必要があり、既に永正10年頃から尚順は大和出身の林堂山樹を起用しての領国整備を行っており[8]、義興を通じて義尹の許可を得た上で下向している[9][10]。分国の安定を図り直接下向する必要性があったが、一方で義英への対抗上高国との結びつきも継続させる意図から、稙長を在京させて自分は領国支配に乗り出したとされる。[11]

晩年[編集]

越中においては、能登守護である同族の畠山義総や越後守護代長尾為景と結び、謀反を起こした神保慶宗を滅ぼすことに成功したが、紀伊においては、熊野衆と結び領国統治の強化を目論むが失敗、永正17年(1520年)に家臣の離反にあって紀伊から追放され、堺に逃亡した。追放の原因は林堂山樹が湯川衆に敗れ戦死するなど支配強化の失敗にあったが、同年に将軍義稙が再度挙兵して高国を追放した澄元の家督を承認、すぐに高国が復帰して澄元を追い落としたという出来事があり、一貫して義稙を支持し続けた尚長は義稙に同調し、一方で稙長が領内安定のため湯川衆の和睦や大和国衆の和睦、高国との結びつきを重視しており、この結果袂を分かつことになったとも言える。

大永元年(1521年)に義稙が上記の事情から高国と対立し追放されると、義稙を擁して義英と結び再挙を図ったが、義英は新たに将軍足利義晴を擁立した高国と結ぶ稙長に阻止されている。なお尚長はこの時細川澄元の後室との婚姻の準備のため出陣しておらず、稙長とは直接戦火を交えていた。復権を果たせないまま大永2年(1522年)、淡路で死去した。享年48。同年と翌年に義英・義稙も亡くなり、稙長は高国政権に就いたが義英の子義堯が尚長派の一部を取り込み抵抗を続けたため尾州家と総州家の対立は継続された[12]

偏諱を与えた人物[編集]

尚慶時代

(*「慶」の読みについては「のり」、「よし」の2通りが伝わっており、確定していない。というのも、畠山氏一門で畠山満慶が前者、満慶の曾孫・畠山慶致が後者で読まれているためである。※また、慶致については、ほぼ同時期に生きた人物であり、尚慶から偏諱を受けた可能性もある。)

尚順時代
尚長時代

脚注[編集]

  1. ^ a b 「尚順」の読みについては、「順」の字を受けた遊佐順盛の読みから、前者が有力である。遊佐順盛については日本人名大辞典_遊佐順盛を参照。
  2. ^ 大阪府、P292 - P297、朝倉、P158 - P160、弓倉、P38 - P39、P188 - P191、福島、P51 - P55。
  3. ^ 大阪府、P298 - P300、朝倉、P160 - P169、弓倉、P39、福島、P58 - P59。
  4. ^ 『後法成寺関白記』永正5年8月12日条
  5. ^ 『後法成寺関白記』永正5年8月13日条
  6. ^ 浜口誠至 『在京大名細川京兆家の政治史的研究』 思文閣出版、2014年、ISBN 978-4-7842-1732-8 P88-90
  7. ^ 小谷利明「畠山稙長の動向」(矢田俊文『戦国期の権力と文書』 2004年)
  8. ^ 小谷利明「宇智郡衆と畠山政長・尚順」(『奈良歴史研究』 59号)
  9. ^ 小谷利明「戦国期畠山・三好関係文書と出雲熊野大社-島根県松江市熊野大社文書の検討」(『八尾市立歴史民俗資料館 研究紀要』 18号)
  10. ^ この時の義興添状では下国について「謹んでご覚悟されることが肝要です」と述べられている
  11. ^ 大阪府、P303 - P308、朝倉、P169 - P190、弓倉、P40 - P41、福島、P60 - P61、P66 - P68。
  12. ^ 朝倉、P199 - P200、弓倉、P42 - P46、P207 - P213、福島、P71。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代:
畠山政長
河内畠山氏 (尾州家)
畠山尚順
次代:
畠山稙長