長尾為景

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長尾為景
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文11年12月24日(1543年1月29日[注釈 1]
改名 六郎(幼名)→ 為景
別名 通称:弾正左衛門尉
戒名 大竜寺殿喜光道七
官位 従五位下信濃
幕府 室町幕府 越後守護代
主君 上杉房能定実
氏族 越後長尾氏
父母 父:長尾能景、母:法往院(高梨政高娘?)
兄弟 飯沼正清室、為景上杉定実継室、
高梨澄頼正室、為重[注釈 2]
山本寺定景正室[注釈 3]
正室:高梨政盛[要出典]?、天甫喜清[注釈 4]
継室:長尾房景娘・青岩院
晴景、娘(加地春綱正室)[2]仙桃院長尾政景正室)、娘(上条氏室)、景房景康[注釈 5]景虎(上杉謙信)

長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後国戦国大名。越後守護代越中国新河郡分郡守護代。上杉謙信の父。米沢藩初代藩主上杉景勝外孫に当たる。

経歴[編集]

永正3年(1506年)、般若野の戦いで父・長尾能景が戦死すると、中越地方の五十嵐氏・石田氏が反乱を起こすが、長尾氏の家督を継いだ為景によってまもなく平定された[3]

翌永正4年(1507年)春頃「為景謀反の気あり」と守護上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、8月にその機先を制して房能の居館を襲撃する[注釈 6][4]。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した[4]。この新守護擁立に反対する阿賀北地方の本庄時長色部昌長竹俣清綱は9月に為景に対して一斉に蜂起する[4]。この挙兵の知らせを蒲原郡代の山吉氏を通じて中条藤資から受けた為景は、蘆名氏伊達氏に協力を要請した[4]。10月、為景方は本庄氏の拠点、本庄城を攻略することに成功する[5]。永正5年(1508年)5月には色部氏の平林城が落城し、6月、岩谷城に籠城していた竹俣氏も降伏する[5]。残った反為景勢は会津に逃亡し、のちに蘆名氏や中条藤資の世話により為景と和睦した[5]。8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられた[6]

しかし永正6年(1509年)7月28日、房能の実兄である関東管領上杉顕定とその子・憲房が為景に対して報復の大軍を起こし越後に侵入する[7]。関東管領の軍勢は越後上田荘を拠点として、越後府中を落とし中越・上越地方を抑えた[7]。為景は劣勢となって定実と共に越中国に逃亡した[7]。為景は越中から伊達尚宗に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会をうかがった[8]。邑山寺において捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、4月20日に海上から越後蒲原津に進出した[9]。5月20日には為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利し、また信濃から援軍として高梨政盛[注釈 7]が駆けつける[9]。6月12日、顕定方だった上条氏が為景側に転向し、6月20日に為景は越後府中を取り戻した[10]。ついに長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させた[10]

いったん奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した為景は、自分の姉妹を定実に娶らせ、守護上杉家の外戚として越後の国政を牛耳ろうとした[要出典]

永正9年(1512年)5月、揚北衆鮎川氏が反逆するが、山吉・築地ら武将を使わして鎮圧した[11]大永元年(1521年)2月、長尾為景は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)、つまり一向宗を信仰することを禁止した[12]

下克上の代表格であるが、朝廷室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等の献金を行った。これにより叙爵信濃守となったほか、幕府より守護や御供衆の格式である白傘袋・毛氈鞍覆・塗輿を免許される。同じ事は、朝倉氏浦上氏といった他の守護代出身の戦国大名も行っており、京都の将軍と直結して家格を上昇させ、越後守護上杉氏とは異なる「長尾」という新たな家を作り上げることで、守護の権威からの自立を図ったものと言える。[13]

その後は越中や加賀国に転戦して、神保慶宗椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大したが、晩年は定実の実弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ、天文5年(1536年)には隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定を賞する綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。

以前は、隠居して間もない天文5年12月24日(1536年2月4日)に死去したとされていたが、近年はそれ以後の文書でも為景の生存が確認されていたことが見直され、『上杉家御年譜』の記述通り、没年を天文11年12月24日(1543年1月29日)とする説が有力視されている[要出典]。晩年について『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』では晴景に家督を譲った後も実権を握り続けたと説明している。

死因については、病死説、上条側による暗殺説などのほか、一向一揆との戦いで敗れて戦死したという説もあったが、戦死説は為景の父能景と混同したものであり、現在では否定されている[要出典]

為景は、まさに戦国時代の火蓋を切る『奸雄』の一人といえるであろう[要出典]越後国を我が物にするためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと百戦に及ぶと言われている[誰によって?][要出典]のちに上杉顕定の子・憲房は「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例のない奸雄である」と評している[要出典]。反面、揚北衆等の国人領主を統制できず、為景は彼らの上位に君臨する公権力として振舞う事は出来なかった。これらは子・晴景、謙信の課題として引き継がれる事になる。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 天文5年12月24日(1537年2月4日)とする説もあり。近年発見された「越後過去名簿」では天文10年12月24日(1542年1月20日)に供養されている記録がある(山本隆志「史料紹介 高野山清浄心院所蔵『越後過去名簿』(写本)」『新潟県立歴史博物館研究紀要』9号、2008年)。
  2. ^ 為重が記載されない系図も多い[要出典]
  3. ^ 為景の兄弟に上田長尾房長を置く系図もあるが、多くの系図と矛盾し、当時の戦況からしても信憑性が低い[要出典]
  4. ^ 「越後過去名簿」によれば天文12年5月7日(1543年6月19日)死去。なお「越後過去名簿」には永正11年5月3日(1514年6月5日)に春円慶芳を供養した記録があるが、前嶋敏はこれは為景夫人生母を上条家当主夫人が供養したものと解釈し、為景夫人生母、為景夫人、上条家当主夫人(前嶋は定実夫人に比定しているが、当時の上条家当主は上条定憲と思われる[要出典])にはなんらかの縁戚関係等が想定されるとしている[1]
  5. ^ 景房・景康を次男・三男として置く場合もあるが、実在はやや疑問視されている[要出典]
  6. ^ 為景は、房能が援軍を出さずに能景を見殺しにしたことを恨んでいたとも言われる[要出典]
  7. ^ 為景の外祖父?あるいは伯父か

出典[編集]

参考文献[編集]