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永正の錯乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元暗殺されたことを発端とする、管領細川氏細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。

背景には、京兆家を支えてきた内衆などの讃岐・畿内の勢力と政元の養子の一人である細川澄元を擁する阿波三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍の足利義稙の動きも絡んでいた。

複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子・細川高国が家督に就き、義稙が将軍に返り咲いた。だが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。

乱に至るまで

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細川政元の三人の養子

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明応2年(1493年)、室町幕府管領職に就いていた細川政元は、第10代将軍足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立し、当時少年だった足利義遐(後に義高、さらに義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変[1][2][3]

専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていた[4]。政元は修験道に凝って天狗の扮装をしたり、突然旅に出てしまうなど、たびたび奇行が目立つようになった。そのため、政元に実子はおらず、兄弟もいなかったため、細川京兆家には政元の後継者がなかった[5]

当初、政元は自身の後継者として、関白九条政基の次男である澄之を迎えた[6][7]。だが、政元は細川一門の反発を受け、阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の二人も迎えて養子にした[6][8][5]。だが、三人の養子を迎えたことで、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。

諸大名家が跡継ぎ争いを起こし、応仁の乱で弱体化を招く中、細川家では勝元の後継者に養子の勝之を推す動きは一部であったものの、勝元の実子である政元が嫡男として継承することでまとまっており、その結果政元の時代には細川家は幕府の中での地位をより強固にすることができた。しかし、その政元に血縁の近しい後継者がおらず、ここにきて他大名家よりも一代遅れで京兆家にも跡継ぎ争いが発生するに至ったのである[5]

永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰である三好之長が政元に軍事面で重用されるようになった[6][7]。だが、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内の有力国人層)と、阿波勢との対立が深まった[6][7]

丹波攻めと政元の動向

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永正3年(1506年)4月、政元は若狭武田元信丹後一色義有の争いに介入し、武田氏を支援して、丹後の攻略を目指した[9]。そして、政元は4月に澄之を、5月に澄元を将として、それぞれ丹後に派遣した[10]。この頃、政元は摂津守護職を澄元に、丹波守護職を澄之にそれぞれ譲っている[7]

9月には入ると、京兆家重臣の香西元長が謀反を起こすという風聞が流れた[11]。そのため、政元は奈良にいた三好之長を上洛させている[11]

永正4年(1507年)4月、政元が澄元や澄之、三好之長、赤沢朝経らを連れて、丹後の一色氏を再び攻めた[7][12]。香西元長も嵯峨から丹波路を抜けて、丹後へと向かった[12]

だが、政元の戦意は低く、行軍の途中で陸奥に下向するなどと言いだすようになった[12]。そして、25日に丹後府中への攻撃が始まると、政元は澄元や之長と共に帰京した[12]。他方、丹後守護の一色義有は今熊野城に、守護代の延永春信阿弥陀峰城にそれぞれ籠城し、赤沢朝経や武田勢と激しい戦いを繰り広げた[12]

他方、澄之と香西元長は別行動をとり、丹後の国人・石川直経が籠城する加悦城を攻めていた[12]。だが、澄之らは直経と講和し、陣を払って京都に引き上げた[13]。そのため、赤沢朝経と武田勢が丹後府中の前線に取り残される形となった[11][13]

経過

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政元の暗殺・澄之の家督継承

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永正4年(1507年)6月23日夜、細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、細川澄之を擁する内衆の香西元長・薬師寺長忠に唆された竹田孫七らに殺害された[14][13]

6月24日、元長や長忠らは、上京小川の細川澄元邸、三好之長の宿所である仏陀寺に攻め寄せた[14]。そして、澄元や之長らを近江に敗走させた[14]

他方、赤沢朝経は丹後府中で政元の死を伝え聞くと、すぐに一色方と和睦し、丹後から京都に撤退しようとした[13]。だが、加悦城の石川直経による追撃を受け、6月26日に丹波との国境に近い普高谷で自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)[13]

7月8日、澄之が丹波から上洛すると、義澄から御内書が下され、細川京兆家の家督を認められた[14][13]

澄之の滅亡・澄元の家督継承

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しかし、もう一人の養子・細川高国は、一族の摂津分郡守護の細川政賢淡路守護の細川尚春河内守護の畠山義英と語らい、政元の後継者を細川澄元とすることで合意をみた。なお、高国については、政元の存命中に養子縁組が解消されたことで実家の野州家を継承しており、政元の後継候補の養子は澄之と澄元の二人だけだったという説もある[15]

7月28日、薬師寺国長[注釈 1]が薬師寺長忠の居城茨木城を攻め落した。

7月29日、高国らは香西元長の居城・嵐山城を攻め落とした。

8月1日、高国や之長らは京都に攻め入り、澄之の宿所である遊初軒を一気に攻めた(遊初軒の戦い)。そのため、澄之は自害し、元長や長忠らも討たれ、澄之派は滅んだ[14]。この襲撃はかなり唐突なものだったようで、澄之の内衆らはことごとく討死している[13]

8月2日、澄元が将軍義澄に拝謁し、細川京兆家の家督を継いだ[14]

澄之派と澄元及び高国の一連の戦いは当初、細川京兆家の家督争いであると考えられていた。しかし、澄之の烏帽子親を務めた細川政賢や細川尚春など、細川一門の人間はみな澄元方として参戦していることから、家督争いというより、「細川氏とその家臣の対立」であったと考えられる[16]

澄元と高国の対立

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明応の政変で将軍職を追われていた前将軍の足利義稙は、明応8年(1499年)に西国一の大名である周防大内義興を頼り、以来その元にあった[17][18]。政元の暗殺後、幕府は義稙の動向を恐れて、永正4年(1507年閏6月に義興追討の綸旨を得て安芸石見の国人らに義興追討を命じた。

永正5年(1508年)正月頃、義興は義稙を擁して、上洛の軍を起こし、山口を出発した[19]。そして、京都の状況を窺いつつ、入京の時期を見定めていていた[20]

他方、義稙や義興が接近しているにもかかわらず、細川氏はなおも混乱状態にあった。惣領の澄元は自身に反発する細川一門に圧力をかけるため、3月17日に高国を伊賀へ追い払った[21][22][23]

だが、4月に高国が軍勢を率いて伊賀から京都に迫ると、同月9日に澄元は之長と共に京都から甲賀に逃げた[21][22][24]。高国が上洛すると、細川一門や重臣による評議が開かれ、新たな惣領に選出された[21]。ここに、細川氏も畠山氏足利将軍家に続いて、高国流と澄元流に分裂するに至った(両細川の乱[22][25]

義稙と大内勢が京都に迫ると、高国は義澄を奉じて京都を守らなくてはならなかったが、惣領として一門を掌握できておらず、また高国の惣領就任に反発する者もいた[26]。そのため、高国はこの状況で戦うことは不可能と考え、義稙に降伏することを決断した[26]。これは細川一門が義澄を見捨てることを意味していたため、4月16日に義澄は近臣らと共に京都を脱出し、近江の六角高頼の配下である九里氏の居城・水茎岡山城に入った[25][26][27]

4月末、義稙・義興が和泉に到着すると、高国はこれを出迎え、降伏を受け入れられた[28]

6月、前将軍の義稙が堺から京都に入り、7月には再び将軍となった[29]。そして、高国は細川氏の家督を象徴する右京大夫となり、大内義興は左京大夫管領代山城守護となった[30][31][32]

この1年の間に、細川京兆家の家督は政元から澄之、澄元、高国とめまぐるしく入れ替わった。なお、近年の研究では、管領職の政治的な権限が喪失されていたために、細川京兆家の家督を継いでも管領に就任することはなくなり、政元が明応3年(1494年)に辞任した後はずっと空席の状態であったと考えられている[注釈 2]

考察

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この永正の錯乱は、細川政元が三人の養子を迎えたことにより、その補佐役らの権力争いに繋がって発生したものである。

政元は澄之を元々嗣子として迎えたにもかかわらず、細川一族と全く関係無い九条家出身の細川澄之を後継にしたことに一族の反対論が根強かったことで、自らも次第に後悔するようになった。そして、政元は庶家の細川澄元を阿波から嗣子として迎え、澄之を後継者の地位から外した[34]

だが、このために、澄之の補佐役だった香西元長の権力が失墜した。また、京兆家家臣としては新参者の三好之長が澄元の補佐役として、政元にその軍事の才を見込まれて重用されるようになると、その権力が細川家中で増大した[35]

澄元に従って阿波から来た之長が讃岐の政治にも介入しだしたため、讃岐出身である元長は憎しみを抱いた。また、政元の問題多き性向も将来への不安となり、澄之を擁立して自らが権力を握るために暗殺事件を起こしたとみられる[35]

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時は万徳丸。 父の薬師寺元一は弟であった長忠に滅ぼされている。
  2. ^ 政元・高国は将軍の元服などの重要な儀式の際に管領が任じられているが、いずれも儀式が終わると直ちに辞任している。細川京兆家の家督と管領職を同時に継承したとするのは、江戸時代に書かれた軍記物に由来し、当時の一次史料による裏付けは全く無いものである)[33]

出典

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  1. ^ 山田 2016, p. 74.
  2. ^ 木下 2025, p. 313.
  3. ^ 福島 2009, p. 54.
  4. ^ 天野 2014, p. 6.
  5. ^ a b c 長江 1968, p. 14.
  6. ^ a b c d 山田 2016, p. 133.
  7. ^ a b c d e 天野 2021, p. 16.
  8. ^ 浜口 2017, p. 307.
  9. ^ 福島 2009, p. 62.
  10. ^ 福島 2009, p. 63.
  11. ^ a b c 小谷 2022, p. 197.
  12. ^ a b c d e f 福島 2009, p. 64.
  13. ^ a b c d e f g 福島 2009, p. 65.
  14. ^ a b c d e f 天野 2014, p. 7.
  15. ^ 馬部 2018, pp. 71–74, 「細川高国の家督継承と奉行人」.
  16. ^ 石井進編『中世の法と政治』吉川弘文館、1992年。
  17. ^ 山田 2016, p. 120.
  18. ^ 長江 1968, p. 19.
  19. ^ 山田 2016, pp. 134–135.
  20. ^ 山田 2016, p. 134.
  21. ^ a b c 山田 2016, p. 137.
  22. ^ a b c 天野 2021, p. 19.
  23. ^ 天野 2016, p. 9.
  24. ^ 天野 2014, p. 10.
  25. ^ a b 長江 1968, p. 20.
  26. ^ a b c 山田 2016, p. 139.
  27. ^ 浜口 2017, p. 309.
  28. ^ 山田 2016, p. 140.
  29. ^ 山田 2016, p. 142.
  30. ^ 長江 1968, p. 21.
  31. ^ 山田 2016, p. 146.
  32. ^ 「大内義興」『改訂新版 世界大百科事典 』
  33. ^ 浜口誠至 著「戦国期管領の政治的位置」、戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』岩田書院、2017年、179-189頁。ISBN 978-4-86602-013-6 
  34. ^ 小谷 2022, p. 195.
  35. ^ a b 長江 1968, p. 16.

参考文献

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関連項目

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