波多野元清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
波多野元清
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 享禄3年(1530年
別名 孫四郎、孫右衛門(通称[1]、稙通
幕府 室町幕府
氏族 丹波波多野氏
父母 父:波多野清秀
兄弟 元清香西元盛柳本賢治
秀忠
テンプレートを表示

波多野 元清(はたの もときよ)は、戦国時代武将室町幕府10代将軍足利義稙から偏諱を受け、稙通(たねみち)と名乗り、室町幕府評定衆にも列せられたとされるが、稙通という名や評定衆就任の事実は一次史料では見られない。

生涯[編集]

波多野清秀の子として誕生した。

初め仙甫寿登の弟子となり名を寿浩、号を養賢と名乗ったが、15歳の時に波多野氏を継ぐことになり還俗したという[2][注釈 1]

父・清秀が永正元年(1504年)6月24日[4]に没した後、9月の薬師寺元一の乱の討伐に参加する[5]細川政元暗殺後の細川澄元細川高国の争いでは、高国方に転じている[6]

永正5年(1508年)6月には多紀郡酒井氏を酒井合戦で破り[7][8]、7月には中沢(長沢)元綱を福徳貴寺で戦死させ[9]、波多野氏を丹波有数の勢力へと発展させた。また、細川高国から信頼を得て、長弟の香西元盛は永正4年(1507年)に死去した香西元長の名跡を、同じく次弟の柳本賢治は永正17年(1520年)に死去した柳本長治の名跡を継いでいる[10][注釈 2]

大永6年(1526年)、香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた細川高国に殺害されると、柳本賢治と共に細川晴元に呼応して蜂起し、攻め寄せてきた高国方の軍を破る。翌大永7年(1527年)には病を患っていたようで[12]、当初は賢治と子の秀忠のみが上洛しており[13]桂川原の戦いにも不参加だった可能性がある。

享禄3年(1530年)に病没した[14][2]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 馬部隆弘は早世などで家督を継げなかった長兄がいたと想定する[3]
  2. ^ 賢治を兄、元盛を弟とする文献もあるが、当時の日記における記述[11]や実際に2人が両家に入嗣した時期、更には香西氏と柳本氏の家格の差から元盛が兄、賢治が弟とするのが正しい[2]

出典[編集]

  1. ^ 馬部 2018, pp. 87-88.
  2. ^ a b c 馬部 2018, p. 117.
  3. ^ 馬部 2018, p. 118.
  4. ^ 幻雲文集』。
  5. ^ 不問物語』。
  6. ^ 『不問物語』。
  7. ^ 永正5年推定、6月26日付細川高国感状(「波々伯部家文書」)。
  8. ^ 丹南町史編纂委員会 1994, p. 585.
  9. ^ 丹南町史編纂委員会 1994, p. 567-568, 611.
  10. ^ 馬部 2018, pp. 117-119.
  11. ^ 『二水記』大永6年11月5日条。『細川両家記』大永6年7月13日条。
  12. ^ 『二水記』大永7年2月13日条。
  13. ^ 『二水記』大永7年2月16日条。
  14. ^ 『厳助往年記』享禄3年6月2日条。『二水記』享禄3年6月8日条。

参考文献[編集]

  • 馬部隆弘 「細川高国の近習と内衆の再編」 『戦国期細川権力の研究』 吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6 /初出: 『史敏』 13号、2015年。 
  • 丹南町史編纂委員会編 『丹南町史 上巻』 丹南町、1994年。 
  • 渡邊大門 「波多野氏の丹波国支配をめぐって―天文・永禄年間を中心に―」 『鷹陵史学』 37号、2011年。 

関連項目[編集]