細川元有
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 長禄3年(1459年) |
死没 | 明応9年9月2日(1500年9月25日) |
改名 | 雪渓源猷(法名)、細川元有 |
別名 | 五郎(通称) |
墓所 | 京都市東山区の建仁寺 |
官位 | 刑部少輔 |
幕府 | 室町幕府 和泉国半国守護 |
主君 | 足利義尚 |
氏族 | 細川氏 |
父母 | 父:細川常有 |
兄弟 | 頼常、政有、元有 |
妻 |
正室:細川成之女 側室:越智氏女、三淵晴貞女? |
子 | 元常、松浦有盛?[1]、三淵晴員? |
細川 元有(ほそかわ もとあり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。和泉国半国守護。細川和泉上守護家7代当主。官職は刑部少輔[2]。
略歴[編集]
長禄3年(1459年)、細川常有(細川教春の弟)の四男[3]として誕生した。兄に頼常、政有(将軍・足利義政より「政」の字を賜う)がいる。
当初は兄・政有が家督を継承していたため、禅僧として建仁寺に入って雪渓源猷と号した。文明12年(1480年)に還俗し、その翌年に政有が死去したため、父の命令で家督を継ぐことになった。
文明12年(1480年)10月から明応9年(1500年)9月まで和泉国守護を務めた[2]。
明応4年(1495年)、同じ和泉国半国守護(下守護)であった細川政久と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、明応9年(1500年)8月、畠山尚順らによって居城の岸和田城を攻められた。同年9月2日、城は落城して元有は戦死した[4]。享年42。
死後は嫡男・元常が跡を継いだ。
系譜[編集]
脚注[編集]
- ^ 『永源師檀紀年録』
- ^ a b 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 885.
- ^ 細川政有が兄ではなく、常有の子であり、その子が元有だという説が有力
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 299.