細川義春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
細川之勝 / 細川義春
時代 室町時代後期
生誕 応仁2年(1468年
死没 明応3年12月21日1495年1月17日 [1]
改名 之勝(初名)→義春
別名 彦九郎(通称)
官位 兵部少輔・讃岐守
幕府 室町幕府 阿波守護
主君 足利義材
氏族 細川氏
阿波守護家備中守護家→阿波守護家)
父母 父:細川成之
兄弟 政之義春
之持澄元、娘(細川政賢室)

細川 義春(ほそかわ よしはる)は、室町時代中期の武将阿波細川家の出身。初め備中守護・細川勝久の養子となった際に1字(「勝」の字)を受けて之勝(ゆきかつ)と名乗っていたが、実家に戻ってからは10代将軍足利義材(のちの義稙)より偏諱(「義」の字)を賜って義春(「春」は初代当主・詮春の1字に由来)に改名している[2]

生涯[編集]

寛正2年(1461年)、阿波守護・細川成之の次男として生まれる。当初は同族である備中守護・細川勝久の養子となっていたが、長享2年(1488年)に父の跡を継いでいた兄の政之が早世したため、急遽阿波国に戻って家督を相続し、同国の守護となった。だが、細川氏の嫡流である京兆家当主の管領細川政元と対立し、兄と同じように父に先立って明応3年(1494年)12月21日に阿波国にて死去。享年27[3]

阿波守護は長男の之持が継ぎ、次男の六郎(後の澄元)は細川政元の養子となった。なお、義春が当初継ぐ予定であった備中守護家は細川一族・野州家細川政春が継ぎ、その子高国も澄元と同様に政元の養子になっている。後に両者は京兆家の家督を巡って骨肉の同族争いを繰り広げることとなる(詳細は永正の錯乱を参照)。

人物[編集]

義春は文明11年(1479年)に軍勢を率いて伊予に侵攻し、守護の河野氏と戦ったが敗退しているなど、兄の政之に比べ武功には恵まれなかったようである。

明応3年(1494年)、山城守護を望んで、守護に任ぜられた伊勢貞陸と争い、また山城在地の国人衆(山城国一揆)を味方につけて貞陸を追い落とそうとした。だが、京兆家の政元はこれを認めず、激怒した義春は同年11月28日に突如京都を出て阿波に帰国した(ただし、それから1か月足らずで病没しているため、健康悪化による可能性もある)。また、三好之長ら阿波在地の国人衆を登用して、京兆家から阿波国に派遣されていた内衆(京兆家直属の被官)と対抗しようとした。このことが、細川政権内部に深刻な亀裂(京兆家対阿波細川家)を生み、後に政元と澄元との養子縁組を行って両細川家の関係改善を図る動きが発生したとする見方がある[4]

脚注[編集]

  1. ^ 太陽暦ユリウス暦)換算では翌年に含まれる。
  2. ^ 『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)6月20日条。「義材」の1文字目で足利将軍家通字でもある「義」の字を与えたことは破格の待遇を意味し、また気に入っていたのか、義春を幾度となくその屋敷に御成している。
  3. ^ 死亡年月日・享年は「細川系図」による。なお、この6日前に義春の死亡説が流れたことが『後法興院記』に記されている。
  4. ^ 古野貢『中世後期細川氏の権力構造』(吉川弘文館、2008年)P224-226

参考文献[編集]

  • 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版(原著は2000年私家版)) ISBN 978-4-86403-087-8