二俣川

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二俣川駅北口

二俣川(ふたまたがわ)は、神奈川県横浜市旭区にある町名。二俣川1丁目および二俣川2丁目がある。また、周辺の本村町・本宿町・南本宿町・さちが丘・今宿・中尾・中沢を含めた地域名として使われることもある。

相模鉄道二俣川駅が当地域の中心にあり、この駅からいずみ野線が分岐する。また、神奈川県運転免許試験場の最寄駅であることから、本試験場を「二俣川」と呼ぶことがある。

当地区と鶴ヶ峰駅周辺地区は、横浜市が策定した「ゆめはま2010プラン」において「二俣川・鶴ケ峰副都心」として、横浜市の副都心に指定されている[1]。また、旭区では二俣川のみ「丁目」の数字をアラビア数字で表す[注 1]

概要[編集]

二俣川駅周辺以外は住宅街である。神奈川県道40号横浜厚木線(厚木街道)と、鴨居上飯田線沿いは比較的平坦な谷間であるが、道の両側には坂が迫っている。旭区で一番栄えている地域であるが、区役所は鶴ケ峰にある。

二俣川駅の北側の中尾には、県内唯一の運転免許試験場があるため、神奈川県で運転免許を取得した人ならば、一度は行った事のある場所である。また試験場の向かいには神奈川県立がんセンターがあり、2013年11月2日には新病院がオープンした。

二俣川駅・駅前は交通の要衝となっており、相鉄2路線、大きな通りが2本通っている。厚木街道と鴨居上飯田線を結ぶ陸橋は、両端に信号があるが、待機スペースが短いため、陸橋前後で慢性的な渋滞が起こっている。

2010年現在、南部の鴨居上飯田線が拡幅・新規整備工事中である。また、相鉄線JR相互直通運転開始に合わせて二俣川駅南口エリアの再開発が行われる予定である(詳細は「二俣川駅#南口エリアの再開発」を参照)。

畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)[編集]

畠山重忠(はたけやましげただ)は、鎌倉時代武蔵国男衾郡(現:埼玉県深谷市)の武士で、源頼朝の忠臣であった人物。

1205年、重忠のことを疎ましく思っていた北条時政は、重忠を討つために「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と偽りの手紙を重忠に送り、鎌倉に呼び寄せる。重忠は家臣たちを連れて埼玉の居城から出発し、二俣川付近まで来たときに、北条の軍が牧ヶ原(現:万騎が原)に大挙しているとの報を受けるが、退かずに鶴ケ峰に布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍(1万騎以上)と激戦を繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう。

二俣川駅南口から南方方向に程なく行った所にある県営万騎が原団地の一角には、地元の有志により1892年(明治25年)に建立された「畠山重忠公遺烈碑」がある。また、1955年(昭和30年)6月22日には没後750年を記念して、鶴ケ峰と埼玉県川本村の有志が「畠山重忠公碑」を鶴ヶ峰に建立している。他にも二俣川古戦場周辺(鶴ヶ峰)には、「重忠首塚」「すずり石水」「六ッ塚」「駕籠塚」「首洗いの井戸」など重忠に纏わるものが多く残る(「鶴ヶ峰#史跡」も参照)。

地価[編集]

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、二俣川2丁目32番64の地点で22万4000円/m2となっている。旭区内で最も地価が高い。[2]

歴史[編集]

  • 1205年元久2年) - 畠山対北条の「鶴ヶ峯の戦い」が起こる。
  • 1830年文政13年) - 新編武蔵風土記稿に、「本宿村の東南の方なり、この地のつゞきなる隣村を今宿と云、恐らくはこの本宿は昔の驛場などにて、今宿ももとは二又川の内なりしが、一旦かの驛場を移せしことあるにや」とある。
  • 1868年慶応4年、明治元年)
  • 1871年(明治4年)7月14日(旧暦) - 廃藩置県。引き続き神奈川県に所属。
  • 1872年(明治5年) - 大区小区制により、神奈川県第6大区2小区となる。
  • 1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法により、二俣川村が復活。行政区画としての都筑郡が編成される。
  • 1889年(明治22年)4月1日
    • 町村制の施行により、都筑郡今井村・二俣川村・三反田村・小高新田・市野沢村が合併し、「二俣川村」となる。
    • 同日、横浜区に市制が施行され、横浜市が成立する。
  • 1926年大正15年)5月12日 - 神中鉄道(現・相模鉄道)二俣川駅が開業する。
  • 1927年昭和2年)10月1日 - 横浜市の区制施行により保土ケ谷区が成立。
  • 1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市の市域拡張により二俣川村が保土ケ谷区に編入され、「横浜市保土ケ谷区二俣川町」となる。
  • 1964年(昭和39年) - 二俣川町・小高町の一部から「二俣川1丁目・2丁目」が新設される。
  • 1969年(昭和44年)4月1日 - 保土ケ谷区が再編成されて旭区が分区し、「旭区二俣川1丁目・2丁目」となる。
  • 1970年(昭和45年)9月25日 - 二俣川駅南口に駅ビル「二俣川グリーングリーン」が開業。
  • 1976年(昭和51年)4月8日 - 相鉄いずみ野線が開業する。
  • 1989年平成元年)5月28日 - 二俣川駅の鉄道設備改良工事により、二俣川が暗渠になる。
  • 1990年(平成2年) - 二俣川駅北口に共同ビル「相鉄ライフ」が完成する。
  • 1996年(平成8年)
    • 二俣川駅北口に再開発ビル「アルコット二俣川」が完成する。
    • 横浜厚木線拡幅工事が完了。
  • 1999年(平成11年) - 二俣川駅の改良工事が完了。
  • 2014年(平成26年)9月30日 - 二俣川駅南口の再開発事業により「二俣川グリーングリーン」が閉館。

地名の由来[編集]

  • 二俣川の由来については、帷子川と二俣川という二つの川の合流点であるからという説や、二俣川とその支流が分かれる分岐点であるからという説など、いくつか存在する。
  • かつては「二又川」「二又河」「二俣河」とも書かれていた。

周辺[編集]

二俣川[編集]

本村町(ほんむらちょう)[編集]

1961年に二俣川町から新設された。町名の由来は、旧二俣川村にあった最大規模の集落の中心であったことから。

本宿町(ほんじゅくちょう)[編集]

1962年に旧二俣川町から新設された。町名の由来は、かつて宿場があったからだと考えられている。東部は鶴ヶ峰駅が最寄。

南本宿町[編集]

さちが丘[編集]

1964年に二俣川町、小高町、万騎が原の一部から新設された。町名は住民投票により、「幸」が多いようにと選ばれた。

中尾[編集]

1963年に二俣川町・小高町の一部から新設された。1996年住居表示が実施され、中尾町から、中尾一丁目・中尾二丁目となる。町名の由来は、二本の川を持つ谷に南北を挟まれた尾根・丘陵などを「中尾」と呼んだことから。県有地の占める割合が多く、2010年度から県施設の大規模な地区内移転が行われる予定である。

中沢[編集]

1968年に旧二俣川町の一部から中沢町が新設された。1996年に住居表示が実施され、中沢一丁目〜三丁目となる。町名の由来は、帷子川から続く低地の中央にある沢の意だと考えられている。

今宿(いまじゅく)[編集]

今宿村が1889年都岡村に編入され、都岡村大字今宿となり、1939年に横浜市に編入され、今宿町となった。1997年に住居表示が実施され、今宿町の一部を今宿一丁目・二丁目としてできた。町名の由来は、本宿より後にできた「集落」の意であって、宿場という意味ではない。

万騎が原(まきがはら)[編集]

1963年に二俣川町・小高町の一部からより新設された。町名の「万騎」は、元々「牧」であり(平安時代)、のあった地域だと考えられている。その後、この付近で畠山重忠北条氏の一万騎兵に敗れたことから、現在の漢字が当てられるようになった[3]。西部は南万騎が原駅が最寄。

周辺道路[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 横浜市の場合、「丁目」の数字をアラビア数字で表すときは「字丁目」を表す。「○○町1〜3丁目」とあれば、1〜3丁目を合わせた全てが一つの町であり、「1丁目」は字である。また漢数字で表す場合は丁目毎に一つの町を表す。「○○町一〜三丁目」とあれば、一丁目から三丁目までの三か町であり、「一丁目」で一つの町である。
    この法則が適用されるのは、1964年4月1日以降に町界町名地番整理事業や住居表示整備事業を実施して設置した町であり、それ以前に設置した町は例外となる。二俣川が唯一この例外に当たり、「1〜2丁目」と表記されるものの、それぞれ別個の町である。

出典[編集]

  1. ^ 二俣川・鶴ケ峰駅周辺地区」 都市整備局、横浜市、2001年10月1日。
  2. ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
  3. ^ はま旅Vol.111「南万騎が原」(はまれぽ.com 2013年5月17日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度27分57秒 東経139度31分48秒 / 北緯35.46583度 東経139.53000度 / 35.46583; 139.53000