関ヶ原の戦いの戦後処理

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関ヶ原の戦いの戦後処理(せきがはらのたたかいのせんごしょり)では、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いの後の、東軍徳川家康方に加担した武将の論功行賞と、西軍石田三成方へ加担した武将への戦後処理についてまとめた。

各武将の動向は主に『戦国人名辞典』・『日本史総覧』に典拠するものである。また、表は五十音順である。

東軍[編集]

加増[編集]

領地を加増された武将については、その大半が関ヶ原の戦い本戦に従軍した武将で占められている。ただし最も石高を加増されたのは家康の二男で結城氏の家督を継いだ結城秀康であり、上杉景勝の南下を抑制した功によって一挙に石高が670,000石(6倍以上)になっている。また加増率では織田長益(有楽斎)が蒲生頼郷の首級を挙げた功で開戦前に比べ16倍の加増率(32,000石)となった。

また、上杉氏の攻撃を防ぎ切り、関ヶ原本戦後から翌春まで上杉領に侵攻した最上義光も2倍以上の石高(570,000石)となった。豊臣氏恩顧の大名も軒並み大幅に加増され、加増により国主となった武将には前田利長加賀越中能登)、福島正則安芸備後)、小早川秀秋備前美作)、堀尾忠氏出雲隠岐)、加藤清正肥後)、黒田長政筑前)、細川忠興豊前)、浅野幸長紀伊)、田中吉政筑後)、山内一豊土佐)、中村忠一伯耆)、京極高次若狭)、京極高知丹後)がいる。

しかし、彼ら豊臣恩顧の武将は加増された代わりに中国地方や九州など西日本の遠隔地へ移封となり、畿内東海道などの要衝は徳川一門や準一門といえる家康の女婿、および譜代大名でことごとく固められた。先の結城秀康は北陸道を押さえる越前一国、家康四男・松平忠吉は東海道を押さえる尾張一国、家康の次女・督姫を娶った池田輝政は西国と畿内を結ぶ播磨一国、伊達氏上杉氏の監視目的として家康五男・武田信吉常陸水戸15万石、家康の三女を娶った蒲生秀行陸奥会津60万石をそれぞれ与え、国主・準国主として一門や準一門を配置。また井伊直政近江彦根に封じたのを始め、美濃信濃伊勢三河遠江駿河といった東海道・中山道筋や畿内には譜代大名を大幅に増加させて入封させ、江戸の防衛と豊臣氏および西国外様大名の監視を行わせた。こうした家康の政策は豊臣氏対策に大いに効果を上げ、江戸幕府が260年続く基礎となった。

そして徳川家康本人は自らを開戦前の255万石から一挙に400万石へと145万石加増し領地を拡大、主要都市や佐渡金山石見銀山などを直轄領とすることで豊臣氏を始めとする他の大名と隔絶した地位を占めることにより絶対的な権力を確立。1603年(慶長8年)の征夷大将軍任命への下地を形成し、これらの直轄領は天領として幕府財政の基盤になった。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
青山忠成 相模近江国 7,000 信濃上田城攻撃 上総下総国 15,000 徳川譜代
青山成重 下総香取郡 3,000 信濃上田城攻撃 上総下総国 5,000 徳川譜代
赤井忠家 播磨三木郡 1,000 本戦 大和十市郡 2,000
秋元長朝 上野碓氷 4,000 上杉守備隊 上野総社 10,000 徳川譜代。上杉景勝への降伏要請の使者を務める。
秋山直国 - - 本戦 大和十市郡 3,000
浅野長重 - - 江戸城留守居 下野真岡 20,000 長政三男。
浅野長政 - - 江戸城留守居 常陸真壁郡 50,000 隠居料
浅野幸長 甲斐府中 225,000 本戦 紀伊和歌山 376,000 長政長男。
蘆野政泰 下野芦野 800 対上杉守備隊 (同左) 2,700 那須資晴旧臣、那須七騎
阿部正次 武蔵鳩ヶ谷 5,000 本戦 武蔵・相模国内 10,000 徳川譜代
天野康景 武蔵国内 3,000 江戸城留守居 駿河興国寺 10,000 徳川譜代
有馬豊氏 遠江横須賀 30,000 本戦 丹波福知山 60,000 則頼二男
有馬則頼 播磨三木 10,000 本戦 摂津三田 20,000
井伊直政 上野高崎 120,000 本戦 近江彦根 180,000 徳川譜代
伊王野資信 下野伊王野 740 上杉景勝と交戦 (同左) 2,740 那須資晴旧臣、那須七騎
池田知正 摂津・近江国内 2,700 本戦 (同左) 5,000
池田輝政 三河吉田 150,000 本戦 播磨姫路 520,000
池田長政 三河新城 7,000 本戦 播磨赤穂 22,000 輝政弟。赤穂の石高は池田本家より分知。
池田長吉 近江国内 30,000 本戦 因幡鳥取 60,000 輝政弟。長束正家を捕縛。
石川康通 上総鳴渡 20,000 尾張清洲城守備 美濃大垣 50,000 徳川譜代
板倉勝重 武蔵新座 1,000 江戸城留守居 三河国内 6,600 徳川譜代
市橋長勝 美濃今尾 10,000 美濃福束城攻撃 (同左) 20,000
稲垣長茂 上野・下野国 3,000 対上杉守備隊 上野伊勢崎 10,000 徳川譜代
稲葉道通 伊勢岩手 25,000 九鬼嘉隆と交戦 伊勢田丸 45,700
上杉入庵 河内高安郡ほか 1,500 上杉守備隊 河内高安郡ほか 1,500 西軍・上杉景勝の義弟。1601年、自領とは別に次男の上杉長員に下総国印旛郡ほか1,490石を加増。高家上杉家の成立後、畠山姓に復す。
植村泰忠 上総国内 3,000 信濃上田城攻撃 (同左) 5,000 徳川譜代
宇喜多詮家 - - 本戦 石見津和野 30,000 西軍副将・宇喜多秀家の従兄弟。戦後、坂崎直盛に改名。
打越光隆 出羽打越 1,250 上杉景勝と交戦 常陸新宮 2,000 由利十二頭
遠藤慶隆 美濃小原 7,500 本戦 美濃郡上八幡 27,000
大久保忠佐 上総茂原 5,000 信濃上田城攻撃 駿河沼津 20,000 徳川譜代
大久保忠常 - - 信濃上田城攻撃 武蔵騎西 20,000 徳川譜代。父・忠隣は秀忠軍。
大島光義 美濃国内 8,000 本戦 美濃関 18,000
大須賀忠政 上総久留里 30,000 本戦 遠江横須賀 60,000 徳川譜代
大関資増 下野黒羽 13,000 対上杉守備隊 (同左) 20,000 那須資晴旧臣、那須七騎
大田原晴清 下野大田原 7,100 対上杉守備隊 (同左) 12,400 那須資晴旧臣、那須七騎
大田原増清 下野森田 - 対上杉守備隊 (同左) 1,500 晴清弟。徳川家旗本。
大野治長 - - 本戦 丹後国内? 15,000 浅野幸長隊に従軍。本戦では福島正則隊に参加。
小笠原秀政 下総古河 30,000 信濃上田城攻撃 信濃飯田 50,000 徳川譜代
岡本義保 下野塩谷 2,570 対上杉守備隊 (同左) 3,870
奥平家昌 - - 信濃上田城攻撃 下野宇都宮 100,000 徳川譜代、信昌嫡男
奥平貞治 - - 本戦 近江国内 200 本戦で戦死、実母に加増。
奥平信昌 上野小幡 30,000 本戦 美濃加納 100,000 徳川譜代。安国寺恵瓊を捕縛
織田長孝 美濃野村 500 本戦 (同左) 10,000 長益長男。戸田勝成内記親子の首級を挙げる。
織田長益 摂津国内 2,000 本戦 大和山辺郡 32,000 織田有楽斎のこと。蒲生頼郷の首級を挙げる。
落合重清 - - 本戦 越前国 5,000 結城秀康に仕官。
小里光明 相模国内 300 美濃岩村城攻撃 美濃小里 3,580 徳川譜代、
加藤清正 肥後熊本 250,000 肥後宇土城攻撃 (同左) 515,000
加藤嘉明 伊予松前 100,000 本戦 伊予松山 200,000
金森長近 飛騨高山 38,000 本戦 美濃上有知 60,700
兼松正吉 尾張丹羽郡 1,000 本戦 (同左) 2,600 松平忠吉に仕官。
亀井茲矩 因幡鹿野 13,000 本戦 (同左) 38,000 長束正家を捕縛。
蒲生秀行 下野宇都宮 180,000 対上杉守備隊 陸奥会津 600,000
京極高知 信濃飯田 100,000 本戦 丹後宮津 123,000 高次弟。
九鬼守隆 志摩鳥羽 50,000 九鬼嘉隆と交戦 (同左) 55,000 父・嘉隆は西軍。
黒田長政 豊前中津 181,000 本戦 筑前名島 523,000 父・如水は九州で西軍と交戦。
桑山元晴 大和御所 10,000 本戦 (同左) 12,000 重晴二男
小出秀家 和泉国 1,000 本戦 (同左) 2,000 父・秀政、兄・吉政は西軍
小堀正次 大和・和泉国内 5,000 本戦 備中国 15,000 小堀遠州のこと。
西郷忠員 下総生実 2,000 本戦 (同左) 5,000 徳川譜代
坂井成政 - - 本戦 近江蒲生郡 500
酒井重忠 武蔵川越 10,000 本戦 上野厩橋 33,000 徳川譜代
酒井忠利 武蔵国内 3,000 信濃上田城攻撃 駿河田中 10,000 徳川譜代
酒井忠世 武蔵国内 5,000 信濃上田城攻撃 上野那波 10,000 徳川譜代
佐久間勝之 近江国内 3,000 本戦 常陸国内 6,000
佐久間安政 近江国内 7,000 本戦 (同左) 15,000
佐々長成 摂津国内 500 本戦 丹波国内 1,000
佐々行政 - - 本戦 (不明) 6,000
里見忠重 - - 佐竹守備隊 上野板鼻 10,000 義康
里見義康 安房館山 91,000 対佐竹守備隊 (同左) 122,000
真田信之 上野沼田 27,000 信濃上田城攻撃 信濃上田 95,000 父・昌幸、弟・信繁(幸村)は西軍。
沢井雄重 - - 本戦 尾張国内 3,000 松平忠吉に仕官。
神保相茂 大和高市郡 6,000 本戦 (同左) 7,000
菅沼定仍 上野阿保 10,000 駿河府中興国寺城守備 伊勢長島 20,000 徳川譜代
杉原長氏 - - 本戦 但馬気多郡 1,000
鈴木重時 大和国内 1,000 本戦 (同左) 2,000
諏訪頼水 上野総社 12,000 信濃上田城攻撃 信濃高島 27,000 徳川譜代
千本資勝 下野大谷津 530 対上杉守備隊 (同左) 880 福原資孝三男
千本義定 下野芳賀郡 2,070 対上杉守備隊 (同左) 3,370 那須資晴旧臣、那須七騎
高木正次 尾張国内 5,000 信濃上田城攻撃 (同左) 7,000 徳川譜代
武田信吉 下総佐倉 40,000 江戸城留守居 常陸水戸 150,000 家康五男、甲斐武田氏の名跡を継ぐ。
伊達政宗 陸奥岩出山 585,000 上杉景勝と交戦 (同左) 605,000 「百万石の御墨付」は和賀忠親扇動の一件で反故。
田中吉政 三河岡崎 100,000 本戦 筑後柳河 320,000 石田三成を捕縛。家臣の塙安友も参戦。
千村良重 - - 信濃木曾谷平定 美濃久々利 4,400 木曾義利旧臣。
津軽為信 陸奥堀越 45,000 美濃大垣城攻撃 (同左) 47,000 長男・信建は西軍
柘植正俊 - 400 本戦 摂津国内 900
津田秀政 丹波桑田郡 800 本戦 美濃国内 3,000
津田正盛 - - 本戦 尾張国内 610 松平忠吉に仕官。
土屋忠直 相模国内 3,000 本戦 上総久留里 20,000 徳川譜代
坪内利定 武蔵・上総国内 3,400 本戦 美濃葉栗各務郡 6,500 徳川譜代
妻木頼忠 美濃妻木 (不明) 美濃岩村城攻撃 (同左) 7,500 森忠政旧臣 【知行地】土岐郡妻木村・大富村・下石村・土岐口村・高山村・久尻村・浅野村の一部・多治見村・笠原村
寺沢広高 肥前唐津 83,000 本戦 (同左) 123,000
土井利勝 相模国内 1,000 信濃上田城攻撃 相模国内 1,500 徳川譜代
藤堂高虎 伊予板島 80,000 本戦 伊予今治 200,000
遠山友政 - - 美濃苗木城攻撃 美濃苗木 10,000 徳川譜代
遠山利景 - - 美濃明知城攻撃 美濃明知 6,500 徳川譜代
戸川達安 - - 本戦 備中庭瀬 29,200 宇喜多秀家旧臣。
徳川家康 武蔵江戸 2,560,000 東軍総大将。本戦 日本各地 4,000,000 1603年征夷大将軍に任命。
徳川秀忠 - - 信濃上田城攻撃 - - 家康嗣子、東軍中山道隊総大将。
徳永寿昌 美濃高松 30,000 美濃駒野城攻撃 美濃高須 50,000
戸田一西 武蔵鯨井 5,000 信濃上田城攻撃 近江大津 30,000 徳川譜代
戸田尊次 伊豆下田 5,000 本戦 三河田原 10,000 徳川譜代
富田信高 伊勢安濃津 50,000 伊勢安濃津城守備 (同左) 70,000 1605年に伊予宇和島120,000石に加増転封。
鳥居忠政 下総矢作 40,000 江戸城留守居 陸奥磐城平 100,000 徳川譜代、山城伏見城の戦いで戦死した鳥居元忠の二男
鳥居成次 - - 本戦 甲斐谷村 18,000 徳川譜代。鳥居元忠三男。
内藤清成 相模国内 5,000 信濃上田城攻撃 常陸・上総・下総国内 21,000 徳川譜代
内藤信成 伊豆韮山 10,000 駿河興国寺・沼津城守備 駿河府中 40,000 徳川譜代
内藤政長 上総佐貫 10,000 信濃上田城攻撃 (同左) 30,000 徳川譜代、父・家長は山城伏見城の戦いで戦死。
中川忠勝 - - 本戦 美濃国内 3,000
中村忠一 駿河府中 145,000 本戦 伯耆米子 175,000 父・一氏は本戦直前に死去。
中村元勝 尾張国内 2,000 本戦 (同左) 3,000 松平忠吉に仕官。
那須資晴 下野那須 5,000 対上杉守備隊 (同左) 6,000 那須七騎筆頭
那須資景 下野那須 5,000 対上杉守備隊 (同左) 8,080 資晴長男
成田泰親 下野烏山 20,000 対上杉守備隊 (同左) 37,000
成瀬正成 下総栗原 4,000 本戦 甲斐国内 20,000 徳川譜代
仁賀保挙誠 出羽仁賀保 3,700 上杉景勝と交戦 常陸武田 5,000 元由利十二頭
西尾光教 美濃曽根 20,000 本戦 美濃揖斐 30,000
西尾吉次 武蔵国内 5,000 本戦 美濃国内 12,000 徳川譜代
丹羽氏次 尾張国内 5,000 本戦 三河伊保荘 10,000 徳川譜代
根津信政 上野豊岡 5,000 本戦 (同左) 10,000
能勢頼次 - - 本戦 摂津能勢郡 3,000
花房正成 - - 本戦 備中猿掛 5,000 宇喜多秀家旧臣
花房職之 - - 本戦 備中高松 8,000 宇喜多秀家旧臣
馬場昌次 - - 信濃木曾谷平定 美濃釜戸 1,600 木曾義利旧臣。
土方雄氏 - - 丹羽長重と交戦 伊勢菰野 12,000 雄久長男
土方雄久 - - 丹羽長重と交戦 加賀野々市 10,000
一柳直盛 尾張黒田 35,000 本戦 伊勢神戸 50,000
平岩親吉 上野厩橋 33,000 信濃上田城攻撃 甲斐府中 63,000 徳川譜代
平野長重 摂津国内 200 本戦 丹波桑田郡内 500
福島正則 尾張清洲 200,000 本戦 安芸広島 498,300 備後も領有。
福島正頼 伊勢長島 10,000 伊勢桑名城攻撃 大和松山 30,000 正則弟。
福原資保 下野福原 2,600 上杉守備隊 (同左) 4,500 那須資晴旧臣、那須七騎
藤田信吉 - - 上杉景勝の謀反を通報 下野西方 10,000 上杉氏旧臣。
古田重勝 伊勢松坂 35,000 伊勢安濃津城救援 (同左) 55,000
古田重然 美濃国内 3,000 本戦 (同左) 10,000 古田織部
船越景直 摂津・河内国 4,600 本戦 大和宇智郡 6,100
別所孫次郎 - - 本戦 大和国内 2,500 兄・吉治は西軍。
保科正光 下総多古 10,000 遠江浜松城守備 信濃高遠 25,000 徳川譜代
細川忠興 丹後宮津 180,000 本戦 豊前小倉 399,000 父・幽斎は丹後田辺城守備。
堀田一継 河内・伊勢国内 5,000 本戦 伊勢・河内・近江国内 8,880 本田一継とも
堀尾忠氏 遠江浜松 120,000 本戦 出雲松江 240,000 父・吉晴加賀井重望に負傷。隠岐も領有。
堀利重 - - 信濃上田城攻撃 (不明) 8,000 堀秀政の弟。兄多賀秀種は西軍。
本多忠朝 - - 本戦 上総大多喜 50,000 徳川譜代、忠勝二男。
本多成重 下総井野 3,000 本戦 (同左) 5,000 徳川譜代
本多康重 上野白井 20,000 信濃上田城攻撃 三河岡崎 50,000 徳川譜代
本多康俊 下総小笹 5,000 本戦 三河西尾 20,000 徳川譜代
前田利長 加賀金沢 835,000 丹羽長重と交戦 (同左) 1,192,700 越中能登も領有。
前田正勝 - - 江戸城留守居 丹波国内 1,000 玄以二男。弟・茂勝は西軍。
松倉重政 大和五条 8,000 本戦 (同左) 10,000
松平家清 武蔵八幡山 10,000 尾張清洲城守備 三河吉田 30,000 徳川譜代
松平家乗 上野那波 10,000 三河吉田城守備 美濃岩村 20,000 徳川譜代
松平一生 上野国内 5,500 下野板橋 10,000 徳川譜代、父・近正は山城伏見城の戦いで戦死。
松平定勝 下総小南 3,000 遠江掛川城守備 遠江掛川 30,000 徳川譜代
松平忠明 上野長根 7,000 本戦 三河作手 17,000 徳川譜代
松平忠吉 武蔵忍 100,000 本戦 尾張清洲 520,000 家康四男。
松平忠頼 武蔵松山 10,000 三河岡崎城守備 遠江浜松 50,000 徳川譜代
松平信一 下総布川 5,000 対佐竹守備隊 常陸土浦 35,000 徳川譜代
松平康重 武蔵騎西 20,000 遠江掛川城守備 常陸笠間 30,000 徳川譜代
松平康長 武蔵東方 10,000 美濃大垣城攻撃 上野白井 20,000 徳川譜代
水野忠清 - - 本戦 上野小幡 10,000 徳川譜代、加賀井重望により刺殺された水野忠重三男。
水野忠胤 - - 本戦 三河水野 10,000 徳川譜代、加賀井重望により刺殺された水野忠重二男。
水野分長 - - 本戦 尾張緒川 9,800 徳川譜代
三宅康貞 武蔵瓶尻 5,000 遠江横須賀城守備 三河挙母 10,000 徳川譜代
三好為三 - 600 本戦 河内国内 2,020
最上義光 出羽山形 240,000 上杉景勝と交戦 (同左) 570,000 翌春までに上杉領出羽庄内を攻略。二男最上家親は秀忠と上田攻めに参戦。
森可澄 - - 本戦 大和国内 1,000 可政二男
森可政 丹波国内? 1,860 本戦 摂津・丹波国内 2,360 徳川家旗本
柳生宗矩 - - 本戦 大和柳生 2,000 父・宗厳は大和で諜報活動。
安井秀勝 - - 本戦 尾張国内 400 松平忠吉に仕官。
矢島吉十郎 - - 本戦 尾張国内 547 松平忠吉に仕官。
山岡景友 - - 伊勢桑名城攻撃 近江国内 9,000
山口重政 上総国内 5,000 信濃上田城攻撃 常陸牛久 15,000 徳川譜代
山名豊国 - - 本戦 但馬村岡 6,700
山内一豊 遠江掛川 68,000 本戦 土佐浦戸 222,000
山村良勝 - - 信濃木曾谷平定 美濃国内 5,700 徳川譜代、木曾義利旧臣。
結城秀康 下総結城 101,000 対上杉守備隊 越前北ノ庄 670,000 家康二男。対上杉守備隊総大将。
由良国繁 下総国内 5,400 (同左) 7,000 徳川譜代
六郷政乗 出羽仙北 5,000 小野寺義道と交戦 常陸府中 10,000
分部光嘉 伊勢上野 10,000 伊勢安濃津城救援 (同左) 15,000
渡辺守綱 武蔵松山 3,000 本戦 (同左) 4,000 徳川譜代

安堵[編集]

所領を安堵された武将は、大別すると徳川秀忠による信濃上田城の戦いに従軍した徳川氏譜代の大名や外様、および本戦やその前後において東軍に寝返った大名がほとんどを占める。前者は秀忠の失策が公になり、家康が大幅な加増を行うのをためらったとも考えられる。ただし程なくして従軍した大名の大半は、石高加増の恩恵にあずかっている。一方後者は小早川秀秋の寝返りに呼応したり、大垣城犬山城を守備していたが工作によって降り、その後東軍の将として働いた大名達である。敵対の罪を帳消しにするため懸命な奉公を行って、辛うじて本領の安堵に漕ぎ着けている。

また、親子や一族が対立した陣営についた場合は東軍側の戦功が重視された。例としては息子の生駒一正蜂須賀至鎮が東軍についたため、自らは出陣しなかったものの西軍側に兵を送った父親生駒親正蜂須賀家政は隠居するだけの処分にとどまり、本領は安堵されている。

なお、出羽の大名が転封となっているが、これは反覆観望の咎で常陸より減知転封となった佐竹義宣が出羽久保田へ移封されるため、替地として常陸へ移封されたものである。また、松浦鎮信大村喜前の2人は「中立」とされることが多いが、松浦・大村らは加藤清正らと共に小西行長の居城・宇土城を攻撃し、その功を賞され安堵が決まった経緯から、便宜上東軍として掲載する。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
安藤直次 武蔵国内 1,000 本戦 徳川譜代
生駒一正 讃岐高松 (171,800) 本戦 父・親正は西軍。
生駒利豊 尾張国内 2,000 本戦 東軍・福島正則の陣に属して戦う。戦後は幕臣格となり、のち松平忠吉(尾張徳川家)に仕官。
石川貞政 - 2,000 本戦
石川康勝 信濃奥仁科 15,000 信濃上田城攻撃 石川数正の二男。
石川康次 信濃国内 5,000 信濃上田城攻撃 石川数正三男。
石川康長 信濃松本 80,000 信濃上田城攻撃 石川数正長男。
伊東祐慶 日向飫肥 (57,000) 宮崎城攻撃 父・祐兵は西軍。
伊奈忠次 武蔵小室 13,000 本戦 徳川譜代
猪子一時 摂津・近江国内 2,700 本戦
大久保忠隣 相模小田原 65,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
大友義乗 常陸・武蔵国内 3,300 信濃上田城攻撃 父・義統は西軍。徳川家旗本。
大村喜前 肥前大村 21,000 肥後宇土城攻撃
小笠原信之 武蔵本庄 10,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
岡部長盛 下総山崎 12,000 対上杉守備隊 徳川譜代
岡本保真 下野塩谷 1,000 対上杉守備隊 義保弟。塩谷惣十郎とも。
織田信重 伊勢 10,000 本戦 父・信包は西軍
吉良義定 武蔵国内 3,000 本戦 三河幡豆郡吉良に移封。
桑山重晴 紀伊和歌山 10,000 紀伊新宮城攻撃 二男・元晴は東軍で本戦に参加。孫・一晴は西軍だったが重晴と共に新宮城攻撃に参加し所領安堵。
高力忠房 武蔵岩槻 20,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
近藤重勝 越後国内 10,000 上杉方一揆と交戦 堀家臣
酒井家次 下総臼井 30,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
榊原康政 上野館林 100,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
佐野信吉 下野佐野 39,000 対上杉守備隊
菅沼定利 上野吉井 20,000 対上杉守備隊 徳川譜代
仙石秀久 信濃小諸 57,000 信濃上田城攻撃 子・秀範は西軍。
滝川一時 下総国内 2,000 本戦
津田信成 山城御牧 13,000 本戦
筒井定次 伊賀上野 200,000 本戦
土岐定義 下総守屋 10,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
戸沢政盛 出羽角館 40,000 対上杉守備隊 常陸松岡に転封。
南部利直 陸奥盛岡 100,000 上杉景勝と交戦 伊達政宗の策謀による和賀忠親の一揆とも戦う。
蜂須賀至鎮 阿波徳島 (173,000) 本戦 父・家政は西軍。
平野長泰 大和田原本 5,000 本戦
北条氏勝 下総岩富 10,000 三河岡崎城守備 徳川譜代
北条氏盛 河内狭山 11,000 本戦
堀親良 越後蔵王堂 30,000 上杉方一揆と交戦 秀治
堀直政 越後三条 50,000 上杉方一揆と交戦
堀直寄 越後坂戸 20,000 上杉方一揆と交戦 直政二男
堀秀重 越後国内 10,400 上杉方一揆と交戦 秀治祖父
堀秀治 越後春日山 300,000 上杉方一揆と交戦
本多忠勝 上総大多喜 100,000 本戦 徳川譜代、伊勢桑名へ転封。嫡男・忠政は徳川秀忠に従軍。
本多俊政 大和高取 25,000 本戦
本多正信 相模玉縄 10,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代、嫡男・正純は本戦に参加。二男・正木左兵衛宇喜多秀家配下で西軍。
本堂茂親 出羽本堂 9,000 上杉方一揆と交戦 常陸志筑に移封
牧野康成 上野大胡 20,000 信濃上田城攻撃 徳川譜代
松浦鎮信 肥前平戸 62,000 肥後宇土城攻撃
松下重綱 遠江久野 16,000 美濃曽根に在陣
松平家信 上総五井 5,000 江戸城留守居 徳川譜代
松平忠輝 武蔵深谷 10,000 徳川家康六男
松平忠利 下総小見川 10,000 徳川譜代、父・家忠は山城伏見城の戦いで戦死。
松平康元 下総関宿 40,000 江戸城留守居 徳川譜代
水野勝成 三河刈谷 30,000 美濃大垣城攻撃 徳川譜代、加賀井重望により刺殺された忠重長男。
水野重央 武蔵国内 7,000 本戦
水谷勝俊 常陸下館 25,000 対佐竹守備隊
溝口秀勝 越後新発田 60,000 上杉方一揆と交戦
皆川広照 下野皆川 13,000 対上杉守備隊 徳川譜代
村上頼勝 越後村上 90,000 上杉方一揆と交戦
森忠政 信濃川中島 137,000 信濃上田城攻撃 小早川秀秋死後の1603年に美作津山186,000石に加増転封。

改易[編集]

関ヶ原の戦いで唯一、西軍への寝返りや西軍から東軍への鞍替えなどをせずに改易処分を受けたのが木下勝俊である。勝俊は関ヶ原の戦いで東軍に属し、鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されていたが、西軍が攻め寄せる前に城を逃れた結果、戦後、その責を問われて改易されている。慶長13年(1608年)に所領安堵されていた父木下家定が亡くなると、叔母高台院の執り成しにより備中足守25,000石の大名として返り咲くが、勝俊が足守の継承を独占した事により不満を持った弟木下利房との間で諍いが起き、翌年再度改易。結局のところ勝俊は二度と大名には戻れず、京都に隠棲し歌人として名を残した。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
木下勝俊 若狭小浜 62,000 山城伏見城守備放棄 木下長嘯子。木下家定嫡男。二度目の改易後は京都に隠棲。

減封[編集]

東軍についた武将で減封処分を受けたのが以下のとおりである。秋田実季は東軍であったが、小野寺義道(西軍)に出した手紙や庄内への出陣の遅れを、戦後に最上義光から訴えられた。これによってか、慶長7年(1602年)に佐竹義宣と入れ替わる形で、父祖伝来の土地である秋田から常陸へと領替えを命じられた。表高の変動こそわずかであるが、実高19万石とも伝わる秋田の領地や秋田氏の重要な交易拠点である秋田湊などから引き離された事を考えると、秋田氏にとっては厳しいとも言える裁定であった。

伏見城の戦いで戦死した佐野綱正の息子佐野吉綱も減封処分を受けた。綱正は会津征伐の際、大坂城西の丸の留守居として守りにつき、西軍挙兵後に西の丸の明け渡しを条件に家康側室阿茶局お勝の方お万の方を連れ八幡にこれを移した。そして側室らを知人に預けて伏見城に入城して鳥居元忠らと共に討ち死にしたが、戦後に家康は側室の守護という使命を放棄して功名心から勝手な行動をとったとして綱正の行動を評価せず、綱正の子である吉綱の所領は減らされている。これは東軍に参加した徳川譜代唯一の減封例となった。また、日根野吉明は本戦を通じ一貫して東軍に付いており、特に当人に落ち度はなかったが下記の理由を元に戦後に所領を減らされた上で転封を命じられた。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
秋田実季 出羽秋田 52,000 小野寺義道と交戦 常陸宍戸 50,000 本戦後、最上義光が小野寺義道に宛てた実季の手紙を西軍内通の嫌疑ありとして本多正信に提出。
佐野吉綱 近江・上総国内 3,000 不詳 近江野洲 800 徳川家臣、父・綱正は山城伏見城の戦いで戦死。
日根野吉明 信濃高島 27,000 信濃上田城攻撃 下野壬生 10,900 祖父・弘就の西軍内通と吉明自身の幼少を理由に減封。
三好房一 河内国内 10,000 本戦 (同左) 2,300 家康本隊に従軍中に西軍挙兵により領地を押えられ失領。戦後に新領を充てられるが石高は大きく減った。

寝返り[編集]

西軍→東軍[編集]

加増[編集]

西軍から東軍へと寝返った武将の中で加増を受けたのは以下の通りである。

京極高次は所領の大津が大坂に近く、初めは西軍へと参加していたが東軍が岐阜城を陥落させると石田三成からの大垣城守備の命令を無視して大津城へと舞い戻り籠城した。交通の要衝たる大津の領主が東軍へと寝返ったという事は西軍としては看過出来ることではなく、立花宗茂など15,000人を大津城攻略に当たらせた。高次は9月15日に西軍に降伏し高野山に謹慎させられる事となったが、同日に関ヶ原本戦が起こり結局のところ大津城攻略に割かれた兵は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。これを評価した家康によって高次は戦後、謹慎を解かれ若狭小浜8万5000石を新たに与えられる事になったのである。

本戦での寝返り組で加増を受けたのが小早川秀秋である。秀秋は7月15日に海路で九州から大坂に到着したが、その時には既に大坂では西軍が挙兵しており、なし崩し的に西軍に参加する事になり伏見城の戦いなどに参加したが、家老の稲葉正成平岡頼勝を通じて東軍へと連絡を取っており、本戦では伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣し、開戦直後は傍観していたが家康の催促に応じて寝返り、大谷吉継の陣へと襲いかかった。これにより連鎖的に寝返りが発生した為、大谷隊などが壊滅し東軍の勝利に貢献をし、後に行われた佐和山城攻めでも先鋒として戦い戦後に加増を受けた。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
稲葉貞通 美濃郡上八幡 40,000 近江水口城攻撃 豊後臼杵 50,000 はじめ西軍も本戦前に織田秀信の岐阜城が陥落すると降伏。以後は東軍。
京極高次 近江大津 60,000 近江大津城守備 若狭小浜 85,000 はじめ西軍も東軍に転じ大津城に籠城。大津城の戦いに割かれた西軍部隊が本戦に参加できず。
小早川秀秋 筑前名島 357,000 本戦 備前岡山 510,000 木下家定五男。美作も領有。本戦で寝返り東軍勝利を決定づける。
竹中重利 豊後高田 10,000 丹後田辺城攻撃 豊後府内 20,000 家臣を田辺城攻撃に参加させていたが黒田如水の誘いで転身。

安堵[編集]

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
秋月種長 日向財部 30,000 美濃大垣城攻撃 大垣城内部で木村由信などを謀殺。
有馬晴信 肥前日野江 40,000 肥後宇土城攻撃 眼病を理由に宇土城攻めには参加せず嫡男・直純を参加させる。
稲葉通重 美濃清水 12,000 近江水口城攻撃 叔父・稲葉貞通同様に岐阜城陥落時に降伏し以後は東軍。
加藤貞泰 美濃黒野 40,000 美濃大垣城攻撃 犬山城将だったが井伊直政の誘いで降る。
相良長毎 肥後人吉 22,000 美濃大垣城攻撃 秋月種長らと共に大垣城内で木村由信らを謀殺。
関一政 美濃多良 30,000 美濃大垣城攻撃 加藤貞泰らと共に井伊直政の誘いに応じ降る。
高橋元種 日向あがた 50,000 美濃大垣城攻撃 秋月種長らと共に大垣城内で木村由信らを謀殺。
竹中重門 美濃菩提 6,000 本戦 加藤貞泰らと共に降る。小西行長を捕縛。
長谷川守知 美濃国内など 10,000 佐和山城諜報活動 内通者。父・宗仁は西軍で丹後田辺城攻撃に参加。本戦後の佐和山城の戦いで東軍の兵を誘引。
鍋島直茂 肥前佐賀 357,000 伊勢口守備 東軍に早くから内応、嫡男・勝茂の行軍を中止させ家康へ直ちに謝罪。柳河城攻撃を条件に所領安堵。
脇坂安治 淡路洲本 33,000 本戦 小早川秀秋らと共に本戦で寝返る。

改易[編集]

西軍から東軍に寝返った大名の中で改易処分を受けたのが赤座吉家小川祐忠である。

二人は小早川秀秋脇坂安治朽木元綱と共に関ヶ原本戦で寝返り、大谷吉継隊を壊滅させて東軍の勝利に貢献したが許されず所領を召し上げられている。

関ヶ原の戦いにおいては多くの武将が西軍から東軍へ寝返ったが、改易となったのはこの2名だけであり、その理由については様々な説がある。なお、小川祐忠については、息子が大名となったことを示す史料の存在が指摘され、実際には減封であったとする説がある[1]。また、赤座吉家についても本戦には参戦していない(従って、寝返りは不可能)とする説もある[2]

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
赤座吉家 越前今庄 12,000 本戦 小早川秀秋などと共に寝返るが、許されず改易。後に前田利長に仕官し、子孫は加賀藩士となる。
小川祐忠 伊予今治 70,000 本戦 小早川秀秋らと共に寝返り、平塚為広の首級を挙げるも許されず改易。理由は諸説あり。また、子の光氏が許されて豊後日田20,000石に封じられたが、無嗣改易になったとする説もある。

減封[編集]

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
朽木元綱 近江朽木谷 20,000 本戦 (同左) 9,600 小早川秀秋らと共に本戦で寝返るが戦後、所領を減らされる。伊勢安濃・近江高島の蔵入地代官職を罷免される。
毛利広盛 美濃八神 3,000 美濃竹ヶ鼻城守備 (同左) 2,000 福島正則の誘いで降る。

東軍→西軍[編集]

改易[編集]

東軍から西軍への寝返りを行った武将は以下の通りである。こちらは情状酌量された武将はおらず、いずれも改易処分となっている。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
遠藤胤直 美濃犬地 6,500 遠藤慶隆と交戦 遠藤慶隆は舅。慶隆と同心して東軍に参じていたが突如として東軍から西軍に寝返り慶隆を攻撃したが敗北。戦後に改易。
織田秀雄 越前大野 50,000 北国口守備 信雄嫡男。はじめ東軍も前田利長が自領に引き返すと西軍に城を明け渡し戦後に改易。1602年徳川家康に仕官、3,000俵を与えられる。
小野寺義道 出羽横手 30,000 秋田実季らと交戦 当初は東軍に与したが、のちに上杉景勝に味方した。1601年に改易され、子の左京、弟の康道とともに石見国津和野に流罪。1645年に同地で80歳で死去。家臣の黒沢道家も浪人となる。子孫は亀井氏に仕官し、津和野藩士となる。
前田利政 能登七尾 215,000 在国し出陣拒否 当初は大聖寺城・小松城攻撃に出陣するが、その後拒否し改易。領地は兄・利長に編入。子孫は加賀藩重臣となる。
宮部長房 因幡鳥取 50,000 岡崎城に幽閉 はじめ東軍も西軍に転身しようとしたのが発覚し、捕らえられ改易。南部利直預りに。子孫は盛岡藩家老。
山川朝信 下野山川 20,000 対上杉守備隊 1601年8月に上杉に内通していたことが発覚し改易。後に結城秀康に仕官。

中立・不明[編集]

加増[編集]

戦中の立場が曖昧、あるいは不明でありながら加増を受けた武将に、関東公方足利氏後裔の喜連川頼氏が挙げられる。喜連川頼氏は本戦中もどちらに属すこともなかったが、戦後、徳川家康に対して戦勝を祝う使者を派遣した事により加増を受けている。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
喜連川頼氏 下野喜連川 3,500 在国し観望 (同左) 4,500 戦中どちらにも属さず。戦後、徳川家康に対して戦勝を祝う使者を派遣。

安堵[編集]

戦中の立場が曖昧、あるいは不明ながら所領を安堵された武将は以下の通りである。

木下家定は秀吉正室の高台院の兄であり、豊臣家とは縁の深い人物であった。家定は、当初、大坂城居留守を務めていたが、伏見城の戦いの前頃に大坂を離れ、の高台院の屋敷の警護に兵力を集めたまま動くことはなく、戦後、家康から高台院警護を賞され所領安堵を受けた。これは東軍西軍どちらが勝っても家名を残すための行動と思われる。

そして家康の弾劾状に名を連ねた前田玄以については、合戦時に厳正中立を貫いたことや田辺城開城における嗣子・前田茂勝の働きなどが評価されたのか、本領安堵されている。正確な理由は不明であるが西軍に加担した五奉行の中で唯一身上を全うしている。織田信長豊臣秀吉に仕えた玄以は家康の力量を評価しており、『徳川実紀』にも玄以の家康評が残されている。


武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
木下家定 播磨姫路 25,000 高台院警護 息子の内、勝俊小早川秀秋は東軍。利房延俊利定は西軍。備中足守に移封。
五島玄雅 肥前福江 15,000 在国し観望 1603年、家康に謁し15,000石の所領を認める朱印状を下賜される。
前田玄以 丹波亀山 50,000 大坂城留守居 嗣子・茂勝は丹後田辺城に派遣された後陽成天皇勅使一行に供奉。開城交渉に当たる。
松前慶広 蝦夷松前 (無高) 在国し観望

西軍[編集]

刑死・自刃・戦死[編集]

関ヶ原の敗戦で命を落とした武将は以下の通りである。刑死したのは首謀者の石田三成と総大将・毛利氏の戦争責任をも負う形となった安国寺恵瓊キリスト教の教義により自刃が許されない小西行長であるが、原長頼も同日・同じ場所で斬首されている。理由は不明であるが異説もある。自刃を命じられた武将としては五奉行の一人・長束正家や三成の女婿である福原長堯丹後田辺城攻略軍総大将を務めた小野木重勝などがいる。刑死・自刃した大名家は概ね家名断絶となった。例えば、室町幕府四職を務めた名家・赤松氏は本宗家の赤松則英と、分家筋の斎村政広(赤松広英)がそれぞれ自刃を命じられ、赤松氏は宝永年間まで御家断絶の憂き目に遭った。これらの武将は何れも京都・三条大橋に首を晒されている。大身の武将は三成・行長程度で、後は概ね1万石から2万石程度の小大名が多く自刃を命じられており、京極高次が籠った大津城の戦いに参加した西軍の小大名が目に付く。

落城に伴う自刃や戦死では8月4日前田利長前田利政兄弟の大軍によって大聖寺城を攻め落とされた山口正弘修弘父子が西軍初の武将級戦死者であり、8月22日福島正則池田輝政など東軍先鋒部隊によって居城の竹ヶ鼻城を攻め落とされた杉浦重勝がこれに続いた。本戦では大谷吉継平塚為広戸田勝成と共に小早川秀秋ら裏切り組と激戦の末に戦死、「島津の退き口」と言われる島津義弘の退却戦において島津豊久ら島津軍のほとんどが戦死している。その後佐和山城の石田一族や伊勢亀山城岡本良勝父子などが落城後に自刃した。大垣城では守将であった垣見一直木村由信などが相良長毎秋月種長ら九州の諸大名による寝返りにより、城内で謀殺されている。

ここに挙げられた大名家は全て改易・所領没収となり、その後の復活もなく一部は旗本や諸藩の藩士となった家もあるが、大抵は歴史の表舞台から姿を消した。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 合戦後の動向 備考
赤松則英 阿波住吉 10,000 近江佐和山城守備 10月1日、京都戒光寺で自刃。 赤松氏宗家は断絶。傍系石野氏より宝永年間に赤松範恭が家名を再興する。
安国寺恵瓊 伊予国内 60,000 本戦 10月1日、京都六条河原にて斬首。 安芸武田氏断絶。
生熊長勝 近江国内 30,000 尾張犬山城守備 常陸松岡城に幽閉され自刃。 子孫は水戸徳川家に仕官し、水戸藩士となる。
生駒修理亮 - - 大坂備後橋守備 石川頼明隠匿の罪で自刃。 生駒親正の弟。実名不詳。
石川頼明 播磨・丹波国内 12,000 近江大津城攻撃 10月7日、自刃。
石田正澄 近江・河内国内 25,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。 石田三成の兄。
石田正継 近江国内 30,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。 石田三成の父。
石田三成 近江佐和山 194,000 本戦 西軍主将。10月1日六条河原にて斬首。 嫡男・重家出家、二男・重成津軽氏に仕官し、子孫は弘前藩重臣。
宇多頼忠 大和・河内国内 13,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。
大谷吉継 越前敦賀 50,000 本戦 小早川秀秋軍と戦い、戦死。 嫡男・吉治大坂の陣で豊臣方に与し戦死。三男・泰重の子孫が福井藩士となる。
岡本良勝 伊勢亀山 22,000 伊勢亀山城守備 9月16日、開城時に自刃。 嫡男・重義も近江水口で自刃。
小野木重勝 丹波福知山 31,000 丹後田辺城攻撃 10月18日、丹波亀山浄土寺で自刃。 井伊直政の進言で助命されかけたが、細川忠興の強請により自刃。
加賀井 美濃加賀井 10,000 美濃大垣城守備 水野勝成に処刑される。 父・重望は本戦前に三河池鯉鮒の饗宴で水野忠重(勝成の父)を殺害し堀尾吉晴を負傷させた後斬殺される。実名不詳。
垣見一直 豊後富来 20,000 美濃大垣城守備 9月18日秋月種長らの裏切りで殺害。
垣屋恒総 因幡浦住 10,000 近江大津城攻撃 高野山で自刃。 孫・吉綱紀州徳川家に仕官し、子孫は紀州藩士となる。
河尻秀長 美濃苗木 10,000 本戦 本戦で戦死。 弟・鎮行徳川氏に仕官し、子孫は旗本となる。
木下重堅 因幡若桜 20,000 近江大津城攻撃 10月13日、摂津一心院で自刃。
木村由信 美濃北方 10,000 美濃大垣城守備 9月18日、秋月種長らの裏切りで殺害。 嫡男・豊統も同時に殺害される。
九鬼嘉隆 伊勢国内 5,000 嫡男・守隆と交戦 10月12日、答志島で自刃。 家康の赦免を守隆が届ける直前で自刃。
熊谷直盛 豊後安岐 15,000 美濃大垣城守備 9月18日、秋月種長らの裏切りで殺害。
小西行長 肥後宇土 200,000 本戦 10月1日、京都六条河原にて斬首。 嫡男・兵庫頭は毛利輝元により斬首。
斎村政広 但馬竹田 22,000 丹後田辺城攻撃 10月28日、自刃。 降伏後鳥取城攻撃を家康より命じられるが、城下焼き払いの咎で切腹させられる。
島津豊久 日向高城 28,000 本戦 退却中、牧田烏頭坂で戦死。 子孫は薩摩藩重臣。所領は一門の以久が継承する。
杉浦重勝 美濃竹ヶ鼻 8,000 美濃竹ヶ鼻城守備 8月22日、落城時に自刃。
戸田勝成 越前安居 10,000 本戦 織田長孝軍と戦い、戦死。 嫡男・内記も関ヶ原本戦で討ち死に。
長束直吉 近江国内 10,000 本戦 10月3日、開城後自刃。 長束正家の弟。子孫は浅野氏に仕官し、広島藩士となる。
長束正家 近江水口 50,000 本戦 10月3日、開城後自刃。 嫡男・半左衛門は細川忠興に仕官し、子孫は熊本藩士となる。
原長頼 美濃太田 30,000 美濃太田城守備 10月1日、京都六条河原にて斬首。 10月13日に自刃したという説もある。
平塚為広 美濃垂井 10,000 本戦 小川祐忠軍と戦い、戦死。 子孫は紀州徳川家に仕官し、紀伊藩士を経て8代将軍徳川吉宗の時に旗本となる。
福原長堯 豊後荷揚 30,000 美濃大垣城守備 9月28日、蟄居先の伊勢朝熊山で自刃。
松浦久信 伊勢井生 11,000 近江大津城攻撃 大津城攻撃中に戦死。
山口修弘 加賀江沼郡 13,000 加賀大聖寺城守備 8月4日、落城時戦死。 山口正弘の嫡男。
山口正弘 加賀大聖寺 50,000 加賀大聖寺城守備 8月4日、落城時戦死。 二男・弘定は大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
和賀忠親 - - 陸奥花巻城攻撃 陸奥国分寺で自刃。 伊達政宗の援助により挙兵し旧領回復を狙うも失敗。戦後、江戸召喚の途上で自刃。

流罪・追放・蟄居[編集]

この項目に名を連ねる武将には、関ヶ原における中心人物が含まれている。五大老である宇喜多秀家は西軍の副将として奮戦したが敗北、薩摩へ逃れた。1606年(慶長11年)に発覚し駿府へ連行されたが、正室豪姫の兄である前田利長と薩摩に匿った島津忠恒(家久)の助命嘆願により、当初斬首を考えていた家康も死一等を減じて八丈島流罪とした。五奉行である増田長盛は弾劾状に署名した一人であるが、家康に内通していた。しかし許されず内通の功で死一等を減じられ高力清長が領する武蔵岩槻城へ蟄居となる。徳川秀忠を散々に翻弄した真田昌幸は家康との因縁も深く、家康・秀忠共に死罪とする考えであった。しかし嫡男である真田信之と、その舅である本多忠勝による必死の助命嘆願もあって、高野山へ流罪となった。

このほか小山評定で真田昌幸と共に西軍へ退転した田丸直昌や、石垣原の戦い黒田如水に大敗した大友義統なども追放、あるいは他家預かりとなっている。預かり先の大名では南部利直が最も多く、石川貞通岸田忠氏松浦宗清宮部長熙の四名を受け取っている。これら大名の子孫の多くは、預かり先となった大名家に仕官し藩士となって家名を残している。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 合戦後の動向 備考
石川貞通 山城・丹波国内 12,000 大坂天王寺守備 南部利直預かり。 子孫は南部氏に仕官し、盛岡藩士となる。
宇喜多秀家 備前岡山 574,000 本戦 西軍副将1606年八丈島に流刑。 子孫は八丈島に住し、明治維新後東京へ戻る。
氏家行継 近江国内 15,000 伊勢桑名城守備 細川忠興預かり。 子孫は細川氏に仕官し、熊本藩士となる。
大友義統 (領地なし) - 黒田如水と交戦 秋田実季預かり。 嫡男・義乗は東軍。子孫は徳川氏に仕官し、江戸幕府高家となる。
織田秀信 美濃岐阜 123,000 美濃岐阜城守備 8月23日開城後、高野山に蟄居。 1605年高野山で没、織田氏嫡流断絶。
川口宗勝 尾張・伊勢国内 10,000 山城伏見城攻撃 高野山に蟄居後、伊達政宗預かり。 1606年、徳川秀忠に仕官。子孫は旗本となる。
岸田忠氏 大和岸田 10,000 本戦 南部利直預かり。 子孫は南部氏に仕官し、盛岡藩士となる。
真田信繁 (不明) 19,000 信濃上田城守備 高野山に蟄居。 大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
真田昌幸 信濃上田 38,000 信濃上田城守備 高野山に蟄居。 領地は嫡男・信之が領有。二男・信繁(幸村)は大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
多賀秀種 大和宇多 20,000 近江大津城攻撃 越後へ追放。 堀秀政の弟。後に前田利常に仕官し、子孫は加賀藩士となる。
田丸直昌 美濃岩村 40,000 本戦 越後へ追放。 1602年赦免され、蒲生秀行に寄食。子孫は江戸幕府旗本となる。
中江直澄 伊勢国内 10,000 伊勢安濃津城攻撃 伊達政宗預かり。 1603年赦免。
増田長盛 大和郡山 200,000 大坂城留守居 高力清長預かり。 大津城攻撃に陣代を派遣。嫡男・盛次が大坂夏の陣で豊臣方に与し、その咎で1615年自刃。
松浦宗清 伊勢井生 10,000 山城伏見城攻撃 南部利直預かり。
毛利勝信 豊前小倉 60,000 本戦 山内一豊預かり。 嫡男・勝永は大坂の陣で豊臣方に与し、落城時豊臣秀頼を介錯して自刃。

改易[編集]

刑死・流罪など特別な処罰を受けずに、改易となった大名は以下の通りである。

改易された後の大名・武将の動向であるが、長宗我部盛親筆頭として大坂の陣において豊臣方に加担した者、織田信貞など江戸幕府に仕官した者、諸大名の家臣になった者の三者に大きく色分けされる。しかし中には石川貞清のように武士を捨てて野に下る者など変り種もおり、様々である。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
青木一矩 越前北ノ庄 210,000 北国口守備 前田利長に降伏後本領安堵を願い出るが改易。孫の久矩俊矩の子)が大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
青木俊矩 越前金剛院 20,000 北国口守備 父・一矩ともども改易。前田利長預かり。
青山宗勝 越前丸岡 46,000 北国口守備 子孫は丹羽氏に仕官し、二本松藩士となる。
蘆名義広 常陸江戸崎 45,000 在国し観望 佐竹義宣の弟。子孫は久保田藩重臣となる。
池田秀氏 伊予大洲 20,000 美濃駒野城守備 藤堂高虎に5000石で仕官。子孫は徳川氏に仕官し、旗本となる。
石川貞清 尾張犬山 12,000 尾張犬山城守備 京都に隠棲。子孫は京都の商人となる。
磯部豊直 因幡智頭 3,000 在国し観望
伊藤盛正 美濃大垣 34,000 本戦 子孫は前田氏に仕官し、加賀藩士となる。
上田重安 越前国内 10,000 北国口守備 後に浅野長晟に仕官し、子孫は広島藩重臣となる。
氏家行広 伊勢桑名 22,000 伊勢桑名城守備 荻野道喜と称し大坂の陣で豊臣方に与し、落城時に自刃。
太田一吉 豊後臼杵 65,000 豊後臼杵城守備 甥の政成を東軍、子の一成を西軍に属させ自身は病と称して臼杵城に篭るが西軍方と見做され黒田如水らに攻撃され、戦後改易。
奥山正之 越前国内 12,000 北国口守備 剃髪後宗巴と号し、公家・文人と交流する。
織田信貞 近江国内 1,000 本戦 後に徳川家康に仕官し、子孫は尾張藩士・江戸幕府高家となる。
織田信高 近江国内 2,000 本戦 子孫は徳川氏に仕官し、江戸幕府高家となる。
糟屋武則 播磨加古川 12,000 本戦 後に徳川家康に仕官し、子孫は旗本となる。
菅達長 伊予国内 15,000 伊勢湾警備 後に藤堂高虎に仕官し、子孫は津藩士となる。
木下一元 (不明) 20,000 大坂城留守居
木下俊定 丹波国内 10,000 近江大津城攻撃 家定の子。小早川秀秋の兄(弟とも)。秀秋に寄食。
木下延重 播磨国内 20,000 山城伏見城攻撃
木下頼継 越前国内 25,000 本戦 大谷吉継の二男。敗戦後病死。
木村秀望 豊後国内 10,000 近江瀬田橋守備 大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
小早川秀包 筑後久留米 130,000 近江大津城攻撃 子孫は長州藩士となる。
駒井重勝 豊後・伊勢国内 26,300 山城伏見城攻撃 浪人の後、前田利長に仕え加賀藩士になる。
佐藤方政 美濃上有知 20,000 美濃岐阜城守備 大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。儒者である佐藤一斎は子孫。
杉若氏宗 紀伊田辺 19,000 近江大津城攻撃
鈴木重朝 紀伊平井 10,000 山城伏見城攻撃 鳥居元忠を討ち取る。後に水戸徳川家に仕官し、子孫は水戸藩士となる。通称雑賀孫市
仙石秀範 - 3,000 父・秀久は東軍。廃嫡され後に大坂の陣で豊臣方に与し、落城後逃亡して行方不明となる。
高木守之 美濃高須 10,000 美濃高須城守備 堀尾吉晴に寄食。
高田治忠 丹波国内 10,000 丹後田辺城攻撃
多賀谷重経 常陸下妻 60,000 在国し観望 子孫は越前松平家に仕官し、前橋藩士となる。二男・宣家岩城貞隆養子となり、出羽亀田藩主。
滝川忠征 美濃国内 2,000 山城伏見城攻撃 後に徳川家康、続いて尾張徳川家に仕官し家老として6,000石を知行。子孫は尾張藩重臣となる。
武光忠棟 美濃長松 5,000 美濃長松城守備
長宗我部盛親 土佐浦戸 222,000 本戦 浪人の後、大坂の陣で豊臣方に与し敗戦後斬首。父・元親の弟親泰の子孫が堀田氏に仕官し、佐倉藩士となる。
筑紫広門 筑後山下 18,000 近江大津城攻撃 嫡男・茂成が江戸幕府に召しだされ、子孫は旗本となる。
寺田光吉 大和国内 15,000 山城伏見城攻撃
寺西是成 伊勢国内 10,000 北国口守備 後に丹羽長重に仕官し、子孫は二本松藩士となる。
寺西直次 伊勢・近江国内 10,000 伊勢桑名城守備 後に前田利長に仕官し、子孫は富山藩・加賀藩・大聖寺藩士となる。
南条元忠 伯耆羽衣石 60,000 近江大津城攻撃 後に豊臣秀頼に仕官するが、大坂冬の陣で徳川方内通嫌疑を受け誅殺。兄・元清加藤清正に仕官。
丹羽長正 越前東郷 50,000 北国口守備 後に豊臣秀頼、続いて兄・丹羽長重に仕官し、子孫は二本松藩重臣となる。
野村直隆 近江国友 20,000 山城伏見城攻撃
箸尾高春 大和広瀬 20,000 大和高取城攻撃 大坂の陣で豊臣方に与し、戦後は大和に隠遁。
服部正栄 越前国内 10,000 大坂安堂寺町守備 大坂の陣で豊臣方に与し、戦後前田利常預かりとなる。
早川長政 豊後府内 20,000 丹後田辺城攻撃 大坂の陣で豊臣方に与し、落城後逃亡して行方不明となる。
樋口雅兼 近江国内 12,000 山城伏見城攻撃 大坂の陣で豊臣方に与し、戦後堀尾忠晴預かりとなる。
日根野弘就 尾張・三河国内 16,000 在国し観望 孫・吉明は東軍。後に西軍内通の嫌疑により減封。1602年没時に日根野家の領有は許されず実質的に改易。
堀内氏善 紀伊新宮 27,000 伊勢口守備 嫡男・氏久は大坂の陣で豊臣方に与するが、千姫救護の功で家康に取り立てられ、子孫は旗本となる。
間島氏勝 - - 黒田如水に寄食。
丸毛兼利 美濃福束 20,000 徳永寿昌と交戦 後に前田利長に仕官し、子孫は加賀藩士となる。
溝江長晴 越前国内 10,700 北国口守備 後に井伊直孝に仕官し、子孫は彦根藩士となる。
宮城豊盛 豊後日田 5,000 大坂平野町橋守備 後に徳川家康に仕官し、子孫は旗本となる。孫の代に清富藩を創設するが無嗣断絶となる。
毛利秀秋 信濃国内 10,000 山城伏見城攻撃 大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。
矢部定政 (不明) 10,000 近江大津城攻撃 兄の系統が江戸幕府に仕官し、子孫は旗本となる。
山崎定勝 伊勢竹原 10,000 伊勢安濃津城攻撃
山中長俊 伊勢・摂津国内 10,000 大坂城留守居
横浜茂勝 大和国内 17,000 近江大津城攻撃


減封[編集]

改易は免れたが減封となった大名は、西軍の総大将を務めた毛利輝元と一族の毛利秀元吉川広家、及び上杉景勝佐竹義宣がいる。

上杉景勝は関ヶ原の遠因となった上杉征伐の張本人で、徳川家康の難詰に対抗するため東北地方で伊達政宗最上義光ら奥羽諸大名と激戦を繰り広げた。西軍敗北後重臣の本庄繁長千坂景親が徳川方と交渉し謝罪活動に奔走。東軍の対上杉守備部隊総大将であった結城秀康の助けを得て景勝の減刑を画策した。家康は当初上杉氏改易・景勝流罪を検討していたが、秀康・正信の周旋もあり米沢30万石への減封で済ませた。

その景勝と水面下で連携し、東軍挟撃の密約を結んでいた佐竹義宣であったが、家中は必ずしも一枚岩ではなかった。父である佐竹義重や弟の蘆名義広、重臣筆頭の佐竹義久は東軍への加担を主張し、特に父義重が急先鋒であった。佐竹氏を一代で後北条氏伊達氏に伍する大大名に育て上げた父の言を無視できない義宣は親友である石田三成との友誼の板ばさみになり、中山道を進む徳川秀忠軍に家臣を派遣するなど観望を決め込んだ。それを家康に咎められて出羽久保田(秋田市)に減封の上転封となり、平安時代後期以来の本拠を手放す結果となった。ただし、徳川領に近接する大勢力の存在を家康は危険視しており、たとえ義宣が東軍に与していたとしても転封は免れなかったという説もある。

一方、毛利輝元は祖父・毛利元就以来の伝統である家臣団との詮議も行わず、安国寺恵瓊の進言で大坂へ登城した。毛利秀元や吉川広家の反対も退け、西軍総大将に就任した。そのため、広家は毛利氏家老の福原広俊とともに東軍に内応し、本戦では南宮山に陣し、毛利軍を動かさなかった。家康は本領安堵をほのめかせて輝元を大坂城から退去させたが、輝元が西軍総大将として積極的に活動していたことを知り、輝元を改易とし、広家に周防長門を与えることとした。だが、広家は毛利氏存続を家康に必死に嘆願し、結果として両国は輝元の嫡男・毛利秀就に与えられた。輝元は失意の余り出家、毛利家中は徳川への不信感を募らせ、幕末へと至る。

なお、豊臣秀頼は東西両軍の旗幟は鮮明にしなかった。だが戦後の論功行賞により諸大名に預けていた豊臣氏直轄領である蔵入地が、大名の改易に伴い一緒に没収され、新領主の領地とされたことで一挙に激減。222万石あった領地は摂津河内和泉三国65万石余に事実上減封された。従って便宜上ここに掲載する。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
上杉景勝 陸奥会津 1,200,000 伊達・最上軍と交戦 出羽米沢 300,000 直江兼続旧領。陸奥国信夫郡(福島)および伊達郡も領有。
吉川広家 出雲富田 142,000 本戦で東軍に内応 周防岩国 30,000 当初は周防と長門を加増予定。広家の嘆願で毛利氏へ知行。岩国は幕末まで毛利本家より支藩扱いを許されず(理由に諸説あり)。のちに60,000石に高直し。
佐竹義宣 常陸水戸 545,800 在国し観望 出羽久保田 205,800 石高は二代藩主・佐竹義隆の代に確定する。
豊臣秀頼 摂津大坂 2,220,000 (大坂城) 摂津大坂 657,400 便宜上掲載。
藤掛永勝 丹波上林 15,000 丹後田辺城攻撃 (同左) 6,000 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。
毛利輝元 安芸広島 1,205,000 西軍総大将・大坂城留守居 長門萩 298,000 周防も領有。1610年検地で369,000石に高直し(慶長十年御前帳)、新たに支藩分知後も表高は不変。
毛利秀元 周防山口 200,000 本戦 長門府中 50,000 石高は何れも毛利本家より分知。

本領安堵[編集]

関ヶ原で西軍に付きながら、幸運にも所領を安堵された大名は以下の通りであるが、特に目立つのが丹後田辺城の戦いに従軍した大名であり、全体のほとんどを占める。田辺城細川忠興の父である細川幽斎が籠城しており、小野木重勝を大将として丹波但馬豊後の大名が攻撃した。だが攻撃軍には谷衛友ら幽斎の歌道の弟子が多く、一部の大名は積極的に攻撃しなかった。これを城内より観察した幽斎が戦後家康に伝え、取り成された大名は本領を安堵されている。ただし小野木は細川忠興の怒りを買い本戦終了後に福知山城を攻められ自害に追い込まれ、総大将の責めを負い自刃。一旦許された斎村政広鳥取城攻略での落度により自刃した。斎村は東軍に寝返った武将では唯一の死亡者である。

このほか関ヶ原本戦で果敢な退却戦を見せた島津義弘は武備恭順の姿勢で交渉に当たり、根負けした家康から本領安堵を勝ち取った。鍋島直茂はそもそも東軍に付く予定が、嫡男である鍋島勝茂愛知川で西軍の関所に阻まれ西軍に付いたため、家康と頻繁に音信をとって内通し勝茂の進軍を中止させた。本戦後は勝茂を直ちに家康に謝罪させ、筑後平定を条件に本領安堵を許された。生駒親正蜂須賀家政小出吉政はそれぞれ嫡男や二男を東軍に派遣しており、息子達の功績で所領安堵されている。宗義智については、李氏朝鮮との国交回復をにらむ家康の深慮によって詰問に留めている。

また、豊臣秀頼の親衛隊である大坂城七手組の武将も立場上、大坂城に残った者や実際に出馬した人物を含めて全員が西軍に加担したと言える状況であったが、秀頼の側近ということもあってか処分された人物は居なかった。

武将名 領地 石高(石) 合戦での動向 備考
青木一重 摂津豊島 10,000 大坂城留守居 石高は豊臣領に含まれる。七手組。元徳川家臣。
生駒親正 讃岐高松 171,800 丹後田辺城攻撃 自身は病気と偽り出陣せず。家臣・大塚采女を田辺城攻撃に派遣。嫡男・一正を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。高松で蟄居する。
伊東祐兵 日向飫肥 57,000 近江大津城攻撃 大坂で病床に伏せており、身動きが取れずやむなく西軍へ参加を表明し、家臣を大津城攻撃に派遣するも嫡男・祐慶を日向で東軍として活動させ所領安堵。
伊東長実 備中岡田 10,300 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。大津城攻撃検使役。本戦に参加していたという説もある。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。
織田信包 丹波柏原 36,000 丹後田辺城攻撃 老犬斎。子・信重は東軍。
片桐貞隆 播磨国内 10,000 近江大津城攻撃 兄・且元は徳川家と豊臣家の仲介に尽力。大和小泉に移封。
川勝秀氏 丹波国内 3,500 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。丹波何鹿郡から丹波氷上郡船井郡に転封。
桑山一晴 紀伊和歌山 20,000 近江大津城攻撃 叔父・元晴は東軍。10月に自領に戻り祖父・重晴と共に西軍の堀内氏善新宮城を攻略した功により赦される。
小出吉政 但馬出石 60,000 丹後田辺城攻撃 弟・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。
小出秀政 和泉岸和田 30,000 近江大津城攻撃 家臣を大津城攻撃に派遣。二男・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。
郡宗保 美濃国内 3,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。大津城攻撃の軍監役
島津義弘 薩摩鹿児島 609,000 本戦 井伊直政の周旋により、島津義久の継嗣忠恒(義弘の実子)に対し安堵。
杉原長房 但馬豊岡 20,000 丹後田辺城攻撃 縁戚である北政所浅野長政からの嘆願による。
宗義智 対馬厳原 10,000 近江大津城攻撃 家臣・柳川調信を大津城攻撃に派遣。家康から詰問されたが所領安堵。
建部光重 摂津尼崎 700 伊勢安濃津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。豊臣領尼崎3万石の代官。西軍の軍事行動に積極的に加わるも池田輝政の取り成しで本領、尼崎代官職共々安堵。
谷衛友 丹波山家 16,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。歌道の師匠である細川幽斎の取り成しで本領安堵。
津軽信建 陸奥堀越 (45,000) 大坂城留守居 父・為信は東軍。石田重成(三成二男)を助け、領内に匿う。
中川秀成 豊後竹田 70,000 丹後田辺城攻撃 家臣・中川平右衛門を田辺城攻撃に派遣。本戦の後、西軍に属した臼杵城太田一吉を攻め立て所領安堵。
長谷川宗仁 美濃国内など (10,000) 丹後田辺城攻撃 家督は既に当時子・守知が相続。親子ともども西軍も守知は東軍に内通し所領安堵。
蜂須賀家政 阿波徳島 173,000 北国口守備 自身は病気と偽り出陣せず。家臣、高木法斎を北国口に派遣。嫡男・至鎮を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。
速水守久 (不明) 15,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組筆頭。大津城攻撃検使役。
別所吉治 但馬八木 15,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。弟・孫次郎は東軍。
堀田盛重 (不明) 10,000 丹後田辺城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。伏見城攻撃の軍監を務めた後、田辺城攻囲に加わる。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。
前田茂勝 丹波亀山 (50,000) 丹後田辺城攻撃 父・玄以は中立を通す。丹後田辺城に派遣された後陽成天皇勅使一行に供奉。開城交渉に当たる。
毛利高政 豊後国内 20,000 丹後田辺城攻撃 藤堂高虎の取り成しで安堵。のち豊後佐伯に転封。

大名復帰[編集]

関ヶ原の敗戦で一旦は改易されたものの、後に1万石以上の大名として復帰した武将が存在する。西軍に加担した大名・武将は約170名を数えるが、大名に復帰できたのは以下の11名である。その理由は様々だが、立花宗茂のように武勇を惜しまれ、かつ豊臣方への接近を防止する目的や、新庄直頼のように家康の囲碁相手で個人的に親密だったなどが理由として挙げられている。合戦後の1603年、江戸幕府が開かれた年に滝川雄利・立花宗茂・丹羽長重がそれぞれ大名として新領地を与えられ、その後1622年元和7年)まで行われた。概して開戦前と比べ石高は少ない傾向だが、織田信雄木下利房のように開戦前より石高が増加した者、新庄直頼のように維持できた者もいる。特に織田信雄は石高が開戦前に比べて倍以上になった上に大和の国主格待遇も与えられているが、これは関ヶ原の合戦後に織田信長の嫡孫である織田秀信が西軍に味方し、改易の末に子を残さず死亡してしまった事で嫡流が断絶してしまった織田家への配慮があったと思われる。また、立花宗茂は旧領であった筑後柳河に、開戦前とほぼ同じ石高で21年ぶりに復活するという快挙を遂げている。これは当時二代将軍であった徳川秀忠の信任によるところが大きい。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
岩城貞隆 陸奥磐城平 120,000 在国し観望 信濃川中島 10,000 1616年新封。嫡男・吉隆の代に出羽亀田2万石へ加増。
織田信雄 大和国内 18,000 大坂で傍観 大和宇陀・上野小幡 50,000 1615年新封。合戦前よりも石高が増加。大和国の国主格待遇も付与。
木下利房 若狭高浜 20,000 北国口守備 備中足守 25,000 大坂の陣の功により父家定の旧領を1615年に新封として賜る。合戦前よりも石高が増加。
来島長親 伊代来島 14,000 在国し観望 豊後 14,000 福島正則本多正信の取り成しで1601年新封。開戦前の石高を維持。
新庄直頼 摂津高槻 30,000 伊賀上野城占拠 常陸麻生 30,000 1604年新封。開戦前の石高を維持。
相馬義胤 陸奥中村 60,000 在国し観望 陸奥中村 60,000 本多正信伊達政宗の取り成しで、嫡男・利胤に1604年再封。
高橋直次 筑後内山 18,000 山城伏見城攻撃 筑後三池 10,000 1614年に5,000石で新封。1622年嫡男・種次の代に5,000石加増され大名に復帰。
滝川雄利 伊勢神戸 22,000 伊勢神戸城守備 常陸片野 20,000 1603年新封。
立花宗茂 筑後柳河 132,000 近江大津城攻撃 陸奥棚倉 10,000 1603年新封。1621年旧領である柳河10万9,000石に加増転封される。
丹羽長重 加賀小松 125,000 前田利長と交戦 常陸古渡 10,000 1603年新封。1627年陸奥白河10万700石に加増の後、嫡男・光重の代に陸奥二本松へ転封。
蒔田広定 伊勢雲出 10,000 伊勢口守備 備中・河内国内など 10,000 浅野幸長の取り成しにより1603年新封。

加増[編集]

西軍加担諸大名の中で改易されずに石高を加増されたのが片桐且元木下延俊山崎家盛である。片桐且元は中立として扱われることも多いが、実際は大津城攻撃に兵を出しており西軍にはっきりと参加していたものの戦後に倍以上の石高に加増されている。これには戦後、徳川家と豊臣家の仲介に尽力した事などが理由として挙がるが仔細は不明である。木下延俊も中立として扱われることが多いが、丹後田辺城の戦いに家臣を派遣しており、当初は西軍として行動していたが、本戦後は丹波福知山城攻撃に参加し、そこそこの戦功をあげたのと、細川忠興と非常に親密な間柄であったこともあり、加増されている。山崎家盛は石田三成の強制で西軍に参加したと伝えられ、本領安堵の大名を多く輩出した丹後田辺城の戦いにも従軍しているが、開戦前に姻戚関係にある池田輝政の継室であり徳川家康の次女・督姫を、西軍による妻女人質の動きから逃すために尽力したともいわれ、戦後に池田輝政が謝罪に奔走して事無きを得、東軍に寝返っていないにも係わらず1600年に領地を加増されている。

武将名 旧領 石高(石) 合戦での動向 新領 石高(石) 備考
片桐且元 播磨国内 12,000 家臣を大津城攻撃に派兵 大和竜田 28,000 弟・貞隆も近江大津城攻撃に参加。戦後、徳川家と豊臣家の仲介に尽力した。
木下延俊 播磨国内 20,000 丹後田辺城攻撃 豊後日出 30,000 家定三男。播磨姫路城守備。家臣を田辺城攻撃に派遣。
山崎家盛 摂津三田 22,000 丹後田辺城攻撃 因幡若桜 30,000 池田輝政の取り成しによる。

脚注[編集]

  1. ^ 中野等「東京大学史料編纂所所蔵[徳大寺文書]・豊後國内御知行方目録』」『先哲史料館研究紀要』第3号(1998年)
  2. ^ 白峰旬『関ヶ原合戦の真実―脚色された天下分け目の戦い―』(宮帯出版社、2014年)82-83頁。

参考資料[編集]

  • 『戦国人名辞典』新人物往来社、1990年。 
  • 『日本史総覧』新人物往来社、1987年。 
  • 『別冊歴史読本 戦況図録関ヶ原大決戦』新人物往来社、2000年。