長連龍

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長 連龍
Cho Tsuratatsu.jpg
太平記拾遺十五:長九郎左衛門連竜(落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年8月15日1546年9月9日
死没 元和5年2月3日1619年3月18日
改名 萬松(幼名)→好連(初名)→宗顒[1]法名)→連龍→如庵(戒名)
別名 仮名:九郎左衛門、孝恩寺[2]
戒名 東嶺良如庵主
墓所 東嶺寺石川県七尾市
幕府 室町幕府江戸幕府
主君 畠山氏→織田信長前田利家利長利常
加賀藩人持組頭
氏族 長氏
父母 父:長続連、母:不明
兄弟 綱連杉山則直連龍飯川義実連常連盛
正室神保氏張妹)
継室長綱連女)
好連連頼、豕子(浅賀作左衛門室)、前田利常側室)、竹(前田直知室)

長 連龍(ちょう つらたつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将織田家家臣。後に前田家の家臣。

畠山家の滅亡と同時に長家も一時的に滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たす。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せた[3]

生涯[編集]

能登畠山家の時代[編集]

天文15年(1546年)8月15日、能登畠山氏の家臣・長続連の三男[1][3]として生まれる。幼名は萬松。初名を好連。

臨済宗の門に入り能登国熊木定蓮寺となり、宗顒[1]を称して、孝恩寺住職になった。以後、僧形であっても孝恩寺を通称として戦場に出た。

永禄12年(1569年)11月、温井景隆三宅長盛の帰参に畠山義隆[4]八代俊盛の三千貫の土地をあてがわせたのを不満にもって、八代親子が3千名の兵で乱を起こした際、孝恩寺・温井・三宅・松波常重は4千名を持って、鶏塚の合戦を戦って八代親子を敗死させた[5]

天正5年(1577年)5月、上杉謙信の侵攻を受けた際、7月18日、平子和泉、轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門が穴水城救援に向かうと、孝恩寺は法衣をきて水軍を率いて迎撃し、乙ヶ崎合戦で大勝して首級70を取った[6]。閏7月、謙信が能登に軍を進めたために穴水城の包囲を解いた長続連は、自身が事実上の城主たる畠山氏の居城・七尾城に籠城して上杉軍に取り囲まれるが、23日、幼い畠山春王丸が病死して、守兵の士気が下がったので、長綱連は弟孝恩寺を密かに海路より織田信長のもとへ援軍要請に赴かせた。ところが26日にも義春の叔父二本松義有も病死して畠山氏は宗室は絶えた。長綱連は一揆勢を扇動して上杉の背後を付かせようとしたが失敗し、七尾城は9月にも陥落は避けがたい状況になった。謙信は、上条政繁・長尾与次郎・島津淡路を使者として遊佐続光を内応させた。遊佐は温井・三宅兄弟と謀って、9月15日、続連、綱連、則直、連常、連盛ら長一族14人を尽く謀殺した[7]。これによって(綱連の末子・菊末丸を除き)孝恩寺は一族の中で生き残ることになった。

織田家の時代[編集]

孝恩寺が織田軍と共に来援したときにはすでに一族の首は、石川郡倉部浜に晒されており、援軍は遅きに失した。すでに畠山家も滅亡しており、信長に仕えて報復の機会を待つことになった。

天正6年8月、自ら兵500を集めて穴水城を奪取。上杉家臣の当時七尾城主であった鯵坂長実や織田家に属した神保氏張らと結び、遊佐氏らに対抗する。仇である遊佐らと戦を繰り返し、神保氏張らと共に能登越中を転戦。遊佐・温井らによって七尾城の鯵坂が追放されると、柴田勝家に近づき、前田利家・佐久間盛政らとともに遊佐・温井らを攻め、逐電した遊佐を追撃し、討ち取ることに成功する。能登が前田利家に与えられると土肥親真らと共にその与力となった[8]

天正8年(1580年)1月10日、連龍に改名する。同年、信長から所領を安堵された[8]

天正10年(1582年)の柴田勢による魚津城攻めにも従軍。一族の長景連が上杉方に属したため、これを撃破している。

加賀前田家の時代[編集]

6月2日の本能寺の変後は利家の家臣となる。同年の石動山の戦いに参加し、その戦功により能登国内で3万1000石を与えられた[8]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参加して前田軍の殿軍を務め、この際に連龍の家臣30名余が討死している[8]。天正12年(1584年)の佐々成政による末森城攻めでは利家の救援軍に属して華々しい活躍をあげ[8]、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。ただし、末森城の合戦に連龍は実際には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されている[8]

その後も小田原征伐朝鮮出兵に参陣し、伏見城築城や宇治川の土木工事などにも参加し、いずれも功を挙げた[8]

慶長4年(1599年)に利家が死去すると後継者の利長に仕え、翌年の関ヶ原の戦いでは北陸で丹羽長重と戦い、浅井畷の戦いでは敗れながらも奮戦した[8]

慶長11年(1606年)に家督を長子の好連に譲り隠居したが、慶長16年(1611年)に好連が早世すると再び当主の座に復帰し、大坂の役にも従軍した[8]。これらの功績の数々から加増も受けて、長家は最終的に3万3000石の大身となる[8]

元和5年(1619年)2月3日、能登田鶴浜(現七尾市)にて死去。享年74(満72歳没)。家督は次男の連頼が継いだ。以降、子孫は加賀前田家家老として3万3,000石を領した。

人物像[編集]

利家は死去する直前に利長に遺書を与えているが、その中で連龍と高山右近は役に立つ人材であると評している[8]。また連龍は前田家の主君だった信長に仕えて所領安堵をうけていたため、他の前田家臣と違って知行の面では独立大名のような強い権限を保持しており、加賀藩の中では「八家」と称される最上級の重臣となった[8]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 石川県 1933, p.890
  2. ^ 石川県 1933, p.934
  3. ^ a b 川口素生『戦国軍師人名事典』P68では次男とされているが、杉山伯耆守直光の養子となった次兄がいる。
  4. ^ または畠山義慶の誤記とも言う。
  5. ^ 石川県 1933, p.910
  6. ^ 石川県 1933, p.23
  7. ^ 石川県 1933, pp.922-928
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 川口素生『戦国軍師人名事典』P69

参考文献[編集]