三好実休

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三好実休
三好実休.jpg
「三好実休画像」 妙国寺(堺市)蔵
時代 戦国時代
生誕 大永7年(1527年)?
死没 永禄5年3月5日1562年4月8日
改名 千満丸、彦次郎、之相、之虎、実休
別名 物外軒
戒名 實休居士
妙國院殿光徳實休大居士
墓所 妙泉寺妙国寺見性寺
官位 豊前守
氏族 三好氏
父母 父:三好元長
兄弟 長慶実休安宅冬康十河一存野口冬長
正室:久米義広の娘
継室:岡本牧西の娘・小少将
長治十河存保安宅神五郎

三好 実休(みよし じっきゅう)は、戦国時代武将三好氏の家臣。三好元長の次男。

名前[編集]

改名の履歴[編集]

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「之相」と花押[1]

実休は旧字体では實休で、これは生前に名乗った戒名であり、同時代の一次資料に見える俗名之相[2]、後に之虎[3][4]である。

天野忠幸の研究によれば、実休は当初は之相と名乗っていたが、天文21年(1552年)7月以前に之虎と改名し、更に永禄元年(1558年)6月から8月の間に実休の法号を用いるようになったとされている[5]

ただし、書籍によっては実休の俗名を義賢之康としている。

三好義賢[編集]

『三好記』『阿州足利平島傳来記』『平島殿先祖並細川家三好家覚書』『阿州古戰記』などではよしかた(義賢、義形)としている。

しかし、福島克彦らの調査によるとこの名は一次資料では確認されておらず、天野忠幸は十河存保の別名で自署も残っている「三好義堅」(十河義堅)が後世に混同されたものとしている[6]。また、天野は室町幕府将軍足利義輝と対立していた時期の三好氏が、足利氏の通字の「義」の字を名乗るとは考えづらいとも指摘する[7]

『古城諸将記』では三好豊前守義賢は長慶の子で足利義輝を殺したとし、『三好別記』でも三好義堅は長慶の次男で若江城で自害したとしており、実休の甥(十河存保からは従兄弟)の三好義継との混同がある。

三好之康[編集]

俗名を「之康」としている場合がある[8]が、これは「康」の字と「虎」の字が、共に崩すと類似することから誤謬を招いた結果とされる[6]

生涯[編集]

大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。生年には大永6年(1526年)説もある。兄に三好長慶、弟に安宅冬康十河一存野口冬長がいる。早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日1532年9月8日)であり[9]、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦[10]に三好勢の責任者として参加した[2]

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった[11]。細川晴元と対立する細川氏綱畠山政国遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予讃岐和泉など各地に転戦している。また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。この時、持隆派であった久米義広佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった[12]

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。しかし永禄5年(1562年)、紀伊国根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36[13]。また、寵愛小姓近習らも悉く討ち死にしたという。跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた[14]

人物[編集]

『昔阿波物語』は、実休を「猛将ではあるが文化とは程遠い人物」として描いている[15]。この文献によって、実休は主の細川持隆を殺した陰湿な武将としての印象が世に伝播した[15]。しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった[15]。堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達津田宗及の父)であり[15]、他には、今井宗久北向道陳千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている[16]

実休は自身が帰依した法華宗日珖に、堺北荘にあった別邸を妙国寺の開山のために寄進している[17]。敷地の広さは東西が300メートル、南北が500メートルである[17]。一方で、長慶ら三好一族は臨済宗大徳寺派大林宗套笑嶺宗訢に帰依して、堺南荘南宗寺を建立しており、これには経済的・文化的双方の側面が影響していると指摘される[6]。実休が出家したのはかつての主君・細川持隆を殺害した直後であり、出家及び日珖への帰依の背景には、持隆を殺したことへの懺悔の心が読み取れるといわれる[18]。ただし、前述の通り、戒名の「実休」を使い出したのは永禄元年からであり、これは持隆の死から5年後である。

実休は兄の長慶ほど和歌・連歌には傾倒しなかったが、その分茶道に強く傾倒した。山上宗二は『山上宗二記』において、「名物を五十種類も所持していた」「実休は武士でありながら数奇者だ」と評した[19][18][20]。宗二が数奇者と認め称賛した武士は、実休ただ一人であった[21]。また、実休所持の名物茶器の中でも、三日月の壺は宗二が『山上宗二記』において「天下無双の名物」[22]と称賛したほどのものであった。この壺は他の実休所有の多くの茶器と共に織田信長の手に渡り、本能寺の変で焼失した[19]

和歌においては、辞世の歌がよく知られている[17]安宅冬康の項目も参照)。なお、実休の死に際して武野紹鴎が惜しみ追悼の歌を詠ったという逸話があるが(武野紹鴎#逸話参照)、紹鴎は実休の戦死以前に死去しており事実ではない[23]

草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず

家族[編集]

殺害した旧主君・細川持隆の妻(小少将・佐野山陰著の『阿波志』や『三好記』は岡本牧西の娘と伝える[24]。)を強奪したという話が『昔阿波物語』、『三好記』などに描かれている[25]。しかし、小少将にまつわる話の多くは江戸時代以降に成立した軍記物を出典とするところが多く、信憑性を欠く[21]

子は三好長治、十河存保、安宅家を継承した安宅神五郎の三人がいる[26]。永禄11年(1568年)に催された実休の七回忌について、日珖の日記『己行記』に言及があるが、その記述から、三好長治と十河存保は異母兄弟であることが判明している[26]

家臣[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 東寺百合文書ホ函/93/:三好之相書状”. 京都府立京都学・歴彩館. 2017年5月20日閲覧。
  2. ^ a b 天文8年10月に白峯寺に出された禁制は「彦次郎之相」の名で出されている。
    細川持隆白峰廟崇敬の制札を發す 持隆臣、三好之相制札」『崇徳院と讃岐』 岡田唯吉、鎌田共済会、1938年全国書誌番号:46060120
  3. ^ 安宅冬康が顕本寺に宛てた『顕本寺文書』「安宅冬康判物」など。
    和泉國堺津顯本寺所藏文書」『阿波国徴古雑抄』 小杉榲邨、日本歴史地理学会、1913年全国書誌番号:43017505
  4. ^ 天野(2014)・141頁
  5. ^ 天野忠幸「三好一族の人名比定について」(初出:天野『戦国期三好政権の研究(初版))』(清文堂、2010年)/改訂所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1
  6. ^ a b c 天野(2014)・142頁
  7. ^ 天野(2014)・142頁。長慶嫡男・三好興が名前に「義」の字を入れるのは義輝との和睦後。
  8. ^ 妙國寺」『和泉名所図会』2、秋里籬島、高橋平助[ほか4名]、1796年など。
  9. ^ 『見性寺文書』「三好千熊丸・千満丸寄進状」、藍住町藍住町の文化財20 (PDF) 」 、『広報あいずみ』第839号、徳島県藍住町企画政策課、2013年12月25日、 18頁、2017年5月26日閲覧。
  10. ^ 『南海通記』8巻 「細川晴元討豫州記」によると、両細川の乱以降、河野氏は大内義興に服属し阿波細川家と対立していたが、義興の死後、大内義隆が妹を細川持隆に嫁がせて和睦したため、梯子を外された格好になった。そこで細川晴元が河野征伐の号令をかけ、持隆や実休がこれに従い伊予に侵攻したが、河野氏は大友義鑑と同盟し援軍を募ったため、兵乱が九州に飛び火して泥沼化することを危惧した持隆は兵を引いた。
  11. ^ 高橋敏子. “東京大学史料編纂所報第51号(2015年)大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十七”. 2017年6月4日閲覧。
  12. ^ 長江・131頁
  13. ^ 享年37とも(『妙国寺過去帳』『妙泉寺墓碑銘』)『三好長慶』〈人物叢書〉207頁。
  14. ^ 大月ひさ「英雄の片影」、今谷・240頁
  15. ^ a b c d 誰も書かなかった戦国武将96人の真実・170頁
  16. ^ 千宗室「堺と茶道」
  17. ^ a b c 長江・251頁
  18. ^ a b 誰も書かなかった戦国武将96人の真実・171頁
  19. ^ a b 村井・112頁
  20. ^ 千宗室「堺と茶道」
  21. ^ a b 天野(2014)・144頁
  22. ^ 大壷の次第 三日月」『宗二之記』 山上宗二。
  23. ^ 長江・253頁
  24. ^ 若松・48頁
  25. ^ 天野(2014)・144頁、若松・48頁
  26. ^ a b 天野(2014)・145頁
  27. ^ 天野忠幸「戦国畿内研究の再構成と『細川両家記』 (PDF) 」 、『都市文化研究 Studies in Urban Cultures』第12巻、大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター、2010年、 165頁、2017年6月11日閲覧。“その結果,人名比定ができた事例として,三好遠江守(長家)・加地丹波守(為利)・市原(胤吉)・森飛騨守(長秀)・三好伊賀守(連盛)・三好備中守(盛政)・畑地権介(久勝)などがいる。”
  28. ^ a b キ函/251/ 三好康長等連署折紙案”. 2017年6月11日閲覧。
  29. ^ a b イ函/141/ 三好康長等連署書状案”. 2017年6月11日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]