南宗寺

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南宗寺
130202 Nanshuji Sakai Osaka pref Japan07n.jpg
仏殿(重要文化財)
所在地 大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2
位置 北緯34度34分8.47秒東経135度28分6.52秒座標: 北緯34度34分8.47秒 東経135度28分6.52秒
山号 龍興山
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 釈迦三尊
創建年 弘治3年(1557年
開基 三好長慶大林宗套(開山)
札所等 和泉西国三十三箇所客番
文化財 仏殿・山門・唐門(国の重要文化財)
庭園(国の名勝)
地図
南宗寺の位置(大阪府内)
南宗寺
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枯山水庭園 (国の名勝)

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山大林宗套、中興は沢庵宗彭本尊釈迦三尊である。茶人の武野紹鴎千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。

歴史[編集]

丙戌8月[1](1526年)に古岳宗亘堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套が南宗庵3代目となった。[2]

弘治3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

南宗寺が落成したのは、宗套の死後、笑嶺宗訢が2代目の住持を務めていた時代で、山号の龍興山を名付けたのも宗訢である。さらに、元亀4年(1573年)には足利義昭により十刹となった。[3]

天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から8の黄金像が略奪された。[2]さらに慶長20年(1615年、7月に元和と改元)の大坂夏の陣では堺の市街とともに焼失したが、その後、当時の住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に再興された。現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものである。太平洋戦争空襲で一部の建物を失ったが、境内は江戸時代禅宗寺院の雰囲気をとどめている。

大坂冬の陣において、徳川家康後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

札所[編集]

境内[編集]

  • 庭園 - 本坊方丈南側の枯山水で、元和5年(1613年)頃の築造と推定される。本庭は古田織部の作と伝えられ、昭和58年(1983年)に国の名勝に指定されている。
  • 仏殿 - 承応2年(1653年)建立の禅宗様仏殿。入母屋造、瓦葺き、一重裳階付き(1階建てだが屋根は2層になっている)。内部は石敷きの土間で、中央仏壇上に本尊釈迦三尊像を安置する。山門、唐門とともに1993年12月、国の重要文化財に指定されている。
  • 唐門 - 仏殿の右方にある小規模な門で、仏殿と同時期の建設と思われる。国の重要文化財。
  • 山門 - 甘露門とも称する。三間一戸、入母屋造、本瓦葺きの楼門。上層軒裏の扇垂木、柱に粽(ちまき)を設ける点などに禅宗様がみられる。正保4年(1647年)の建立。国の重要文化財。
  • 徳川家康 墓標[4] - 「大坂夏の陣茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝[5]がある(『南宗寺史』)。墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが現在の墓標は水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したもの。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とある。

建造物は他に総門、鐘楼、禅堂、坐雲亭、方丈、実相庵などがある。茶室実相庵は千利休好みと伝えられ、1963年に再建されたものである。

方丈と実相庵をつなぐかたちで、2007年、曹渓の庭が原田榮進日本ガルテン協会会長によって作庭された。

境内には他に、徳川家康のものと伝えられる墓[6]武野紹鴎の供養塔・千利休一門の供養塔・三好一族の墓所・津田宗及一門の供養塔・中井芳滝の墓などがある。

交通[編集]

参考文献[編集]

  • 現地案内版(2013年2月2日閲覧)

脚注[編集]

  1. ^ 『南宗菴改称偈文』 祥雲寺 (堺市)
  2. ^ a b 第2編 神社、寺院、教会誌 第2章 寺院誌 第四節 禅宗 1 南宗寺」『堺市史』7、堺市、1931年
  3. ^ 第1編 人物誌 第2章 全盛期(足利時代より豐臣時代迄)46 笑嶺宗訢」『堺市史』7、堺市、1931年
  4. ^ 日本経済新聞堺支局長 原明彦 (2012年9月1日). “大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説”. 日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西. 日本経済新聞. 2016年1月14日閲覧。
  5. ^ 史実では、大阪夏の陣の前に堺は焼き払われており、当寺の堺に当寺もなかったとされる。また後藤は家康にまみえる前に道明寺の戦いで討死している。
  6. ^ 徳川家康墓再建碑撰文 (堺観光ボランティア協会のページ)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]