妙国寺

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1.戦災前の本堂
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妙国寺
Myokokuji (Sakai, Osaka) hondo.jpg
本堂
所在地 大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4
位置 北緯34度34分52.2秒
東経135度28分53.3秒
座標: 北緯34度34分52.2秒 東経135度28分53.3秒
山号 広普山
宗派 日蓮宗
寺格 本山(由緒寺院)
創建年 永禄11年(1568年
開基 日珖(開山)、三好之康
地図
妙国寺の位置(大阪府内)
妙国寺
法人番号 2120105001012
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妙国寺(みょうこくじ)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広普山(こうふさん)。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。開基は三好之康(三好実休)。開山は日珖妙國寺とも書く。

歴史[編集]

正親町天皇の永禄11年(1568年に、当時四国の阿波讃岐より兵を起こして、畿内を支配していた三好氏家臣・三好之康(実休)の帰依を受け、日珖の父である堺の豪商であった油屋伊達常言、兄の常祐が協力して大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を、開山である日珖に寄進し、此処に常塔伽藍を建立寄進して、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定めた。寺名は日祝の号である「妙國院」による。

現住は51世岡部日聡貫首(大阪市海宝寺より晋山)。堺法縁縁頭寺。

元亀2年(1571年)に本堂竣工。天正11年(1583年)までに広大な寺地に14の坊、南北の学問所などを備えた伽藍が円成する。 元和元年(1615年)の大坂夏の陣、大阪落城に際し豊臣の将大野道犬は、徳川家康妙國寺にありと聞き、乱入諸堂に火を放ち全山灰陣燼と化す。その後、寛永5年(1628年)に本堂再建、続いて祖師堂、三重塔【明暦2年(1656年)に建立だが、堺市史では万治元年(1658年)に建立】[1]、寛文2年(1662年)に表門[2]、寛文5年(1665年)に書院[2]、元禄9年(1696年)に宝蔵[2]、正徳元年(1711年)に客殿と鐘楼[2]、方丈、勅使門、経蔵、徳正殿、その他支院等旧観を再現した。しかし、第2次大戦の末、昭和20年7月10日に堺大空襲による戦火で再び大半を焼失した。昭和48年、本堂を再建し現在に至る。

境内[編集]

本堂
昭和48年(1973年)に再興されたもの。
龍神堂
伝三重塔柱跡
三重塔は、元和年間に兵火で焼失したものを1658年(万治元年)に再興したもので高さ9丈(27.3m)と堺の町のランドマークとして目を惹く建物だったが、1945年に空襲で焼失した。
庭園
平庭林泉回遊式枯山水庭園。市指定名勝。

霊木・大蘇鉄の伝説[編集]

夜泣きのソテツ(月岡芳年作)
大蘇鉄
山門

境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云い、次のような伝説が残っている。

織田信長は、その権力を以って、天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。しかしもとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えない。

出来事[編集]

妙国寺にある土佐藩士供養塔
天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝える。
慶応4年2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すにいたり国際問題となり、本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名は切腹を命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃した。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく切腹は中止となり、9名は土佐へ流刑となった。

旧末寺[編集]

日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。

所在地[編集]

大阪府堺市堺区材木町東4丁1番4号

交通アクセス[編集]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 『大阪の史跡を訪ねて2 中世篇』(ナンバー出版)

関連資料[編集]

  • 「摂河泉文化資料 9」摂河泉文化資料編集委員会、1978 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]