本能寺
| 本能寺 | |
|---|---|
本堂 |
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| 所在地 | 京都府京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町532 |
| 位置 | 北緯35度0分37.0秒 東経135度46分5.8秒 / 北緯35.010278度 東経135.768278度座標: 北緯35度0分37.0秒 東経135度46分5.8秒 / 北緯35.010278度 東経135.768278度 |
| 山号 | なし |
| 宗派 | 法華宗本門流 |
| 寺格 | 大本山 |
| 本尊 | 三宝尊 |
| 創建年 | 1415年(応永22年) |
| 開山 | 日隆 |
| 開基 | 小袖屋宗句 |
| 札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
| 文化財 | 伝藤原行成筆書巻(国宝)ほか |
| 公式HP | 大本山本能寺公式ホームページ |
| 地図 |
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本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。
目次
歴史[編集]
本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである[1]。
寺地は北を五条坊門小路[2]、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった[3][4]。
日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った[5][1]。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた[1]。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路[6]以北、櫛笥小路[7]以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた[4]。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した[5]。
日承上人・本能寺の変[編集]
天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路[8]にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した[5]。
日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。
本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した[5]。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている[9]。
現在の場所への移転とその後[編集]
天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)[1]。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた[1]。
天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した[1]。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。
旧地の発掘調査[編集]
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、平成4年(1992年)廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)、カフェ「信長茶寮」となっている。平成19年(2007年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっている[10]。
逸話[編集]
右の写真のとおり、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている[11]。なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体である[12]。
文化財[編集]
- 伝藤原行成筆書巻 - 平安時代後期、11世紀の古筆の遺品で、「本能寺切」(ほんのうじぎれ)と称して珍重される。料紙4枚を継いだ巻紙に小野篁、菅原道真、紀長谷雄(きのはせお)の3名の文章(漢文)を和様書法で書いた調度手本である。
- 花園天皇宸翰御賀札
- 銅鏡
- 登録有形文化財(国登録)
- 本堂
- 表門
- 信長公御廟所拝殿
境内[編集]
- 大宝殿
- 僧堂
交通アクセス[編集]
- 京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩すぐ
- 京都市営バス(3・4・5・10・11・15・17・32・37・51・59・205系統)、京都バス(16・17・21・23・41・43・55・61・62・63・64・65系統)、京阪バス(19・84B・86B・87B・88B系統)「河原町三条」下車すぐ
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 『日本名刹大事典』、p.809
- ^ 現・仏光寺通。
- ^ 現・京都市下京区。
- ^ a b 「本能寺の変遷」『リーフレット京都』211、2006
- ^ a b c d 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、p.738 - 739
- ^ 現・蛸薬師通。
- ^ 現・神泉苑通。
- ^ 現・蛸薬師通。
- ^ 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年、76, 385頁。ISBN 4639016328。
- ^ 「平安京左京四条二坊十五町跡・本能寺城跡」『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告』2007-11、2008; 「本能寺の変を調査する」『リーフレット京都』231、2008
- ^ しかし右側に2つの「ヒ」がある「能」の字を正字とするのは康煕字典以後のことである
- ^ 『解説 字体辞典』江守賢治、三省堂 1986年
参考文献[編集]
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号、朝日新聞社、1998
- 圭室文雄『日本名刹大事典』、雄山閣、1992
- 河内将芳「中世本能寺の寺地と立地について-成立から本能寺の変まで-」『立命館文学』609、2008年
- 「平安京左京四条二坊十五町跡・本能寺城跡」『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告』2007-11、2008(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト)
- 「本能寺の変を調査する」『リーフレット京都』231、2008(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト)
- 「本能寺の変遷」『リーフレット京都』211、2006(参照:京都市埋蔵文化財研究所サイト)
- 河内将芳『日蓮宗と戦国京都』、淡交社、2013