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源義康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 義康 / 足利 義康
時代 平安時代後期
生誕 天治2年(1125年)頃
死没 保元2年5月29日1157年7月7日
改名 義保、義泰、義康、道達(どうたつ)
別名 足利義康、足利陸奥判官、足利蔵人判官
墓所 栃木県足利市家富町の鑁阿寺
官位 足利荘下司職、北面武士左衛門尉検非違使従五位下蔵人陸奥守
主君 鳥羽上皇
氏族 河内源氏義国流 足利氏
父母 父:源義国、母:源有房
兄弟 義重義康季邦
正室:藤原季範養女藤原範忠娘)
義清義長義兼
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源 義康(みなもと の よしやす / 足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将足利氏の祖[1][2]。足利氏本宗家(下野源氏)の初代であり、下野国足利荘を本拠としたため足利義康と称する。足利陸奥判官、足利蔵人判官[2]室町幕府初代将軍・足利尊氏は七世の孫[3]

生涯

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天治2年(1125年)頃、源義国の次男として京で誕生[4][3]。父・義国から下野国足利荘および、その南隣にある簗田御厨の権益を相続し[5]、足利を名字とした。

父の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。

康治元年(1142年)10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、下司となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕えた。義康の妻は、鳥羽上皇の后・美福門院女房として仕えた[6]。義康は、検非違使に任官し、陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。

保元元年(1156年)、死期が迫った鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した五人の武士の中に義康の名もあった。同年起こった保元の乱では、後白河天皇側に付き、平清盛、義朝に次ぐ100余騎を率いて天皇方の主力となった[7]。乱後、論功行賞により検非違使のまま蔵人になり、昇殿を許された[7]。さらに、従五位下となり、兄・義重より先に貴族に列した(『兵範記』)[7]

保元2年(1157年)5月、死去[8]。30歳を少し過ぎた程度の年齢だったとみられる[7]

系譜

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○出典:『尊卑分脈[9]

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。
  2. ^ a b 尊卑分脈 1904, p. 74.
  3. ^ a b 西尾市史編纂委員会 1974, p. 71.
  4. ^ 田中 2021, p. 28.
  5. ^ 田中 2021, p. 23.
  6. ^ 田中 2021, p. 22.
  7. ^ a b c d 田中 2021, p. 29.
  8. ^ 田中 2021, pp. 23, 29.
  9. ^ 尊卑分脈 1904, pp. 74, 42, 63.

参考文献

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  • 田中大喜『足利氏と新田氏』吉川弘文館〈対決の東国史3〉、2021年12月20日。ISBN 978-4-642-06869-7 
  • 西尾市史編纂委員会 編『西尾市史』 二《古代中世近世 上》、愛知県西尾市、1974年12月20日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9569656 (要登録)
  • 尊卑分脈』 第三輯第十二囘、吉川弘文館、1904年6月25日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991591 オープンアクセス

外部リンク

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