畠山義続

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畠山 義続
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正18年3月12日1590年4月16日
戒名 興源院殿霊岩徳祐大居士
官位 左衛門佐
幕府 室町幕府能登守護
氏族 畠山氏能登畠山家
父母 父:畠山義総、母:不明
兄弟 義繁義続、女(六角義賢正室)、女(六角義賢継室)
松岡寺蓮慶の娘
義綱、女(興雲院殿)、義春、男(長泉院殿)
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畠山 義続(はたけやま よしつぐ)は、能登戦国大名。能登畠山氏の第8代当主。

生涯[編集]

第7代当主・畠山義総の次男として生まれる。長兄で嗣子である義繁(よししげ)がいたが早世したため、後継者となる。天文14年(1545年)に父・義総が死去すると、家督を継いで第8代当主となる。しかし、義続の頃には家臣団による権力争いが頻発した。

天文16年(1547年)、加賀に追放されていた叔父の畠山駿河が一向一揆の助力を得て、能登に攻め込んでくる(押水の合戦)。

天文19年(1550年)、重臣の遊佐続光温井総貞の権力争いのため、七尾城が一部焼失するなど、義続は家臣団をうまく統率することができなかった。

この結果、大名権力が失墜し、重臣達は大名権力を傀儡化する畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織を作り、実権を握った。天文20年(1551年)に義続はこれら一連の騒乱の責任を取る形で、家督を嫡男の畠山義綱に譲って隠居し、以後は義綱の後見人を務めた。

その後は大名権力の回復を目指し、弘治元年(1555年)に義続は畠山七人衆の実権を握る温井総貞を他の重臣と協力して誅殺した。こうして、一時は大名権力を取り戻したのだが、その後にさらなる権力強化を図ってかえって重臣の反発を招き、永禄9年(1566年)に重臣によって孫の畠山義慶が擁立されると、義続は義綱と共に国外追放とされてしまった(永禄九年の政変[1]

その後、六角氏と縁戚関係があったために六角氏の領国である近江坂本に逃げ延び、永禄11年(1568年)に義綱と共に能登復帰を目指して挙兵したが失敗した。

天正18年(1590年)3月12日、死去した[1]

偏諱を与えた家臣[編集]

肖像画の像主問題[編集]

高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」という壮年武将像を描いた肖像画がある。その肖像の中にある人物は、両鬢が薄く入道頭で角度によれば剃髪した人物にも映る。また、丸顔で恰幅がよく体格は老齢に近いにもかかわらず、健康的である。

この肖像の像主は甲斐国武田信玄を描いたものとされているが、近年では藤本正行により像主問題に疑義も提唱されている。像主問題に関しては守屋正彦など信玄像主説を支持する見解もあるが[2]、藤本正行は武田菱の家紋が描かれておらず、また39歳を数えて出家して以降、信玄は肖像を残さなかった等の点を指摘し、畠山氏の家紋も記され等伯と能登にゆかりがあることからも畠山義続を描いた可能性を提唱している[3]。ただし、義続自身も天文20年に若くして剃髪しており、像主に髷があることは、義続ではないということをも同時に意味する。また、同じ長谷川等伯が永禄11年に描いた「法華経本尊絵曼荼羅」に、まさに義続その人であろう剃髪姿の「徳祐」が描かれており、成慶院蔵の人物像とは全く似ていない。

脚注[編集]

  1. ^ a b 東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、1972年。 
  2. ^ 守屋正彦「長谷川等伯筆成慶院本武田信玄像について」『近世武家肖像画の研究』勉誠出版、2002年。 
  3. ^ 藤本正行『武田信玄像の謎』吉川弘文館、2006年。