源義忠

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源義忠
時代 平安時代後期
生誕 永保3年(1083年
死没 天仁2年2月5日1109年3月8日
別名 河内判官、源大夫判官、大夫判官、陸奥二郎
官位 正六位[1]帯刀[2]左衛門尉[3]
検非違使[4]
従五位[5]左衛門大尉[6]河内守[7]
左兵衛[8]、右兵衛権佐[9]
氏族 清和源氏河内源氏
父母 源義家藤原有綱の娘
兄弟 義宗義親義忠義国義時義隆
平正盛の娘
経国義高忠宗義清義雄

源 義忠(みなもと の よしただ)は平安時代後期の武将清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、同族に暗殺された。

生涯[編集]

河内守任官[編集]

河内源氏3代目棟梁・源義家の3男として香呂峰の館で誕生。異母兄に「悪対馬守」といわれた源義親、同母弟に「荒加賀入道」といわれた源義国がいる。河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後で、以降の棟梁は河内守にはなっていない。

義忠は祖父・頼義に似ていたと父に評された。若年より帯刀長・河内守検非違使などを歴任したが、その背景には父の力があったものと思われる。朝廷も義家を抑圧しつつも恐れ、懐柔策として義忠を河内守などの要職に就けたともいわれる[誰?]

近年まで、義忠は兄弟の義親・義国の2人が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり流罪に処されていた為、義家の死後に急遽家督を継いだとされてきた。しかし近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきている。義忠が上国の河内守[10]であるのに、今まで家督に最も近いのに謀反を起こしたとされていた義親は下国の対馬守[11]でしかなく、義国は後年、加賀介[12]になるが、それでも河内守に比較すると遥かに下位の官職である。このことからして、義家が早い時期から義忠を河内守として河内源氏の本拠地たる河内の長官になる運動をしていたと考えると、義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる[要出典]

なお、後世に編纂された『尊卑分脈』などの諸系図には義忠が河内守であったことや従五位下であったことが記されているが、同時代に書かれた公卿や貴族たちの日記ではそのことは確認できない。義忠の官位について確認できるのは、康和5年(1103年)12月26日に帯刀[13](帯刀先生[14])に在任していたこと、嘉承2年(1107年)10月22日の坊官除目において帯刀から左衛門尉に任じられた[15](位階は正六位上[16])こと、天仁2年(1109年)2月に殺害されたときに検非違使[17]であったことである。

家督継承[編集]

嘉承元年(1106年)に父が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得なかった。また、義忠の兄・義親が西国で叛乱を起こし新興勢力で義忠には舅にあたる伊勢平氏平正盛が討つという事態となり、河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。朝廷でも白河上皇院政を行い、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる。明らかに河内源氏は衰退期を迎えた。

義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり[18]、また妻の弟で正盛の嫡男の烏帽子親となって「忠」の一字を与え「平忠盛」と名乗らせるなど、親密な関係を築いた。そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。また、義家にくらべ武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする勢力も存在した。

暗殺[編集]

義忠の叔父の源義光は義忠の権勢が高まるのに不満を感じ[19]、自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人で長男、源義業の妻の兄である鹿島三郎に義忠を襲わせた。天仁2年(1109年)2月3日、義忠は三郎との斬りあいで重傷を負い、それが元で2日後に死去した。享年27。三郎は義光の兄弟である園城寺の僧侶・快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって殺害された(源義忠暗殺事件)。

義忠の暗殺は当初、従弟で叔父(義光の兄)源義綱の子・源義明とその家人・藤原季方の犯行とされたため、義忠の甥(弟という説もある)・源為義は義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。しかしその後になって義光の犯行であったことがわかった。

これにより河内源氏は義忠・義綱という2人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸に逃亡。都には為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。

死後[編集]

義家・義親・義忠・義綱と実力者を失い、河内源氏は源義光・源義国・源義時源義隆を残すだけになった。義国は事件を起し関東の地で蟄居の身であり、また関東で常陸から勢力を広げる叔父義光と合戦に及ぶなど、義光との仲は険悪であった(義忠と義国は連合して叔父義光に対抗していたとする説もある)。そのため、河内源氏の勢力は関東でも徐々に衰え始める。義時は義忠から河内国の石川庄を与えられていたがその勢力は小さかった。義隆は無位無官で少年でもあった。よって義忠の死後は為義が河内源氏の棟梁となった。

しかし、為義も少年であったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。河内源氏の復興は為義の子・源義朝に託されることになるがそれも叶わず、その子・源頼朝を待たなくてはならない。義忠の死後は平氏全盛となり河内源氏は雌伏を余儀なくされた。

子孫[編集]

年表[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 中右記
  2. ^ 『中右記』、『尊卑分脈』
  3. ^ 『中右記』
  4. ^ 殿暦』、『尊卑分脈』、長楽寺本『源家系図』、北酒出本『源氏系図』
  5. ^ 『尊卑分脈』
  6. ^ 『尊卑分脈』、長楽寺本『源家系図』、北酒出本『源氏系図』
  7. ^ 『尊卑分脈』、長楽寺本『源家系図』、北酒出本『源氏系図』
  8. ^ 『尊卑分脈』
  9. ^ 『尊卑分脈』
  10. ^ 河内国は「大国」、その守は従五位上相当で、義忠は家督相続以前にこの官位。
  11. ^ 対馬国は「下国」、その守は従六位下相当で、義親は義忠の河内守在任と同時期にこの官位で、義忠と同時期。
  12. ^ 加賀国は「上国」、その介は従六位上相当で、義国は後年にこの官位を極官としている
  13. ^ 中右記』康和五年十二月廿六日條
  14. ^ 殿暦』康和五年十二月廿六日條
  15. ^ 『中右記』嘉承二年十月廿二日條
  16. ^ 『中右記』嘉承二年十月廿二日條
  17. ^ 『殿暦』天仁二年二月六日條
  18. ^ 尊卑分脈』によると義忠の室は正盛の子平忠盛の娘とされるが、年齢が忠盛の方が義忠より年下であることと、義忠が27歳で暗殺されることから、近年は「平忠盛女」という記載は「平正盛女」と解釈するとの説がある。
  19. ^ 「甥判官義忠の嫡家相承、天下栄名を猜んだ」(『尊卑分脈』)、「叔父義光は鬱憤を含み」(『系図纂要』)、「叔父義光、(義忠)声価を忌む」(『続本朝通鑑』)
  20. ^ 『中右記』康和五年十二月廿六日條
  21. ^ 『中右記』嘉承二年十月廿二日條

関連項目[編集]