百錬抄

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百錬抄』(ひゃくれんしょう)は、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる。編著者は不詳。百練抄とも書く。書名はの詩人白居易の「百練鏡」に由来すると考えられ、当初は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。

17巻よりなるが完本ではなく、巻一から巻三までが欠けている。安和元年(968年)から正元元年12月(1260年1月)までは天皇紀の形をとる漢文編年体で記されている。

著者は不詳だが、勧修寺流吉田経房の『吉記』をはじめ同流の出身者の日記が多く引用されていることから、勧修寺流関係者説が有力と考えられている。時間的には後深草天皇が譲位する天元元年12月で完結するが、その後深草は本文中で「新院」と呼ばれていることから、原本が完成したのは次の亀山天皇の在位中だったことが分かる。その後、修正が加えられて遅くても金沢文庫本が作成される前には完成していたと推定されている。

巻三までの内容は不明、巻四の冷泉院から巻七途中の近衛院までは信西の『本朝世紀』の抄出だが、同書自体に散逸が多いため貴重である。その後は同じく巻七途中の二条院の部分までは現存しない平親範の日記が用いられていたと考えられ、以後は吉田経房とその子孫の資経経俊らの日記から引用されたとみられている。巻八の高倉院から巻十五後嵯峨院までは九条廃帝を除いて1代1巻で構成され、最後の2巻を後深草院にあてている。

京都中心の記録で、武家方の『吾妻鏡』とは対照的である。今日伝わるものとしては、塙保己一が紅葉山文庫本・学問所古本などをもって校訂を加え享和2年(1803年)に出版した刊本をはじめ、写本としては嘉元2年(1304年)に金沢貞顕吉田定房の本をもって校訂した金沢文庫本系のものがある。

参考文献[編集]

・平田俊春『私撰国史の批判的研究』(国書刊行会、1983)

・五味文彦「『百練抄』と『古今著聞集』」(『平家物語 史と説話』平凡社、1987)

・森万数子「『百練抄』の性格と編者について」(『法政史学』46、1994)

・近藤成一「『百錬抄』」(『国史大系書目解題』下巻、吉川弘文館、2001)

・松薗斉「『百錬抄』に見える中世人の歴史認識」(『日本歴史』861、2020)

関連項目[編集]