鈴木氏

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鈴木氏
家紋
三壁六甲
本姓 穂積朝臣嫡流
種別 総本家
 社家
武士
平民
主な根拠地 紀伊国藤白
和歌山県海南市
支流、分家 雑賀衆
三河鈴木氏武家)など分流多し
凡例 / Category:日本の氏族

鈴木氏(すずきし)は、日本の代表的姓氏のひとつ。祭礼の際に祭られる稲穂や神社の本坪鈴に由来した神官の姓氏とされる。


概要[編集]

鈴木を名字とする家の多くは穂積朝臣本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。

穂積姓鈴木氏は熊野本宮の出身で、蟻の熊野詣で知られる熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師を筆頭に、神官を受け継ぐ家系である。

鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗り、神官として東日本を中心とした全国へ広まった。信仰が深まった地域には、その地にある大木に鈴を下げ神社の建設が終わるまでの間、信者はその鈴が下がる木を信仰の対象とした。当時その木を鈴木と呼んだ。そして神社が完成したとき、本殿の切妻の下にその鈴を下げた。現在の神社で見られる本坪鈴はその名残とされ、それが下がる梁木を鈴木と呼ぶ地方もある。

また、海上交通に乗って東日本に移り住んだ鈴木氏の中には商人として活躍した者もおり、室町時代品川で活躍した鈴木道胤中野で活躍した鈴木九郎はともに熊野出身とされている。

藤白鈴木氏[編集]

紀伊国藤白(現在の和歌山県海南市)の鈴木氏は、12世紀頃に熊野から同じ紀伊国内の藤白に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神官を代々務めた家である。全国に散らばる穂積姓鈴木氏中でも本家筋とみなされている家で、後述する雑賀の鈴木氏も三河の鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。

平安時代の末に藤白鈴木氏から出た鈴木三郎重家亀井六郎重清の兄弟は、源義経郎党として仕え、陸奥国衣川で主君を守って戦死した。鈴木重家の子が伊予土居氏の祖となったという伝承があり、この説によると『清良記』の著者の土居清良は藤白鈴木氏の末裔ということになる。鈴木重家の6世孫で藤白鈴木氏当主・鈴木重実の長男であった鈴木重伴(繁伴)は鎌倉幕府倒幕の旗が挙がった際に幕府側について敗れ、伊豆国江梨に下向して江梨鈴木氏の祖となったため、弟の鈴木重恒が藤白鈴木氏当主となった。

藤白鈴木氏は、1942年(昭和17年)に第122代の当主が病気で急死し、子がいなかったため断絶した。

雑賀党鈴木氏[編集]

鈴木氏が用いた家紋「八咫烏紋」

雑賀衆の鈴木氏は、戦国時代に紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の平井(和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪。鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆の有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった。

江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという話がよく取り沙汰されるが、実際に鈴木氏が居住していた十ヶ郷は雑賀城のある雑賀荘からみて川の対岸であり、信ずるに足りない。

雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは、「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、16世紀の半ばには鉄砲で武装した、ある程度の規模の傭兵的集団として活動していたようである。

1570年(元亀元年)に織田信長大坂石山本願寺と開戦して石山戦争が起こると、鈴木孫一の率いる鈴木党は、他の雑賀衆の集団とともに本願寺の門主顕如の求めに応じて本願寺に入り、織田軍と戦った。鈴木孫一は浄光寺末の一道場の門徒代表に過ぎず、雑賀一向衆の指導者集団であった年寄衆よりも格下の存在であったが、石山本願寺に篭った雑賀衆の中では最有力の頭目のひとりで、孫一自身も本願寺の門徒でもあったので、本願寺にきわめて信頼された[1]

1577年(天正5年)に本拠地の雑賀が織田軍の侵攻を受けると、紀ノ川北岸にあった鈴木氏の所領は真っ先に攻撃を受けて占領され、紀ノ川南岸での戦いも劣勢であったために、鈴木氏は他の有力者たちとともに織田氏への服属を誓って降伏した。翌年には織田氏への服属を反故にすると、再び本願寺に荷担した。1580年(天正8年)、顕如が最終的に抗戦を断念に、石山本願寺を退去して雑賀の鷺森に移ると、鈴木氏もこれに従い、織田氏に服属する。これ以降、力を失った本願寺に代わって織田氏に服属しようとする鈴木氏と、それに反対する反織田派との間で争いが起こり、鈴木孫一は1582年(天正10年)に土橋氏の当主を殺害、雑賀衆の主導権を握った。同年に本能寺の変が起こって信長が死んだため、後ろ盾を失った孫一は雑賀を逃亡の後、豊臣秀吉を頼る。小牧・長久手の戦いから文禄・慶長の役にいたる秀吉の一連の戦役に参加した豊臣家の鉄砲頭の中に、孫一を含め数人の鈴木姓の名が見える。この間、1585年(天正13年)に秀吉は紀伊征伐を行って雑賀衆を滅ぼした。先述した鈴木佐太夫はこのとき藤堂高虎によって殺されたということになっている。

孫一が歴史から名を消した後、豊臣家の鉄砲頭として孫一の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝の活躍が見られるようになる。重朝は1600年慶長5年)に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の攻略戦石田三成方として参戦。城将の鳥居元忠を討ち取る戦功を挙げた。関ヶ原で西軍が敗れたために所領を没収されて牢人したものの、1606年(慶長11年)になって元忠の主君である徳川家康に召抱えられている。重朝はのちに家康の末子頼房に附属されて水戸藩に移り、子の重次のとき後継ぎとして主君頼房の子を養子に迎えて重義と名乗らせ、鈴木家は水戸藩の重臣として続いた。のちに水戸藩鈴木家は名字を雑賀と改め、代々の当主は孫市を通称としたという。

系図[編集]

雑賀衆鈴木氏の系譜は諸説あるが、以下には一例をあげる。

鈴木重意
┣━━━┳━━━┓
重兼  重秀    重朝重次重義

三河鈴木氏[編集]

三河国の鈴木氏は、藤白鈴木氏の支流を称する。家祖・鈴木重善は鈴木重家の親族で、鎌倉時代から南北朝時代の頃に三河国矢並(愛知県豊田市矢並町)に土着したと伝えられる。室町時代に矢並を本拠として加茂郡一帯に勢力を広げて、三河西北部における有力国人として台頭し、戦国時代には、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)、則定(豊田市則定町)などの諸家に分かれていた。これら鈴木氏の諸家は、今川氏松平氏織田氏などの周辺勢力に囲まれて離反帰服を繰り返しながら、半独立の勢力を保ちつづけた。

1558年(永禄元年)には寺部の鈴木氏が今川氏から離反したため、今川氏に服属する松平元康(のちの徳川家康)が初陣として寺部を攻めている。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いのあとも各々の鈴木氏は今川氏に服していたが、足助鈴木氏は1564年(永禄7年)に今川氏から自立した家康により足助城を攻められて服属し、寺部鈴木氏は1566年(永禄9年)に織田氏の部将佐久間信盛に攻められて滅ぼされた。酒呑鈴木氏などの諸家はその後も徳川氏に従い、江戸時代に至って江戸幕府旗本となる。家康に従った鈴木重時重好父子は、酒呑系の鈴木氏である。

仮名草子作者としても有名な江戸初期の禅僧鈴木正三と、島原の乱後の天草の復興に大きな功績を残した代官鈴木重成の兄弟はいずれも旗本で、則定鈴木氏の出身である。

なお、文治4年(1188年)鈴木善阿弥(鈴木七郎重善)開基といわれる鈴木山光恩寺豊田市竹元町南嶋4)があり、開基以来今日に至る鈴木姓の檀家がいる。

脚注[編集]

  1. ^ 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」(大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 P306

関連項目[編集]

外部リンク[編集]