畠山政尚

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畠山政尚
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年(1534年
死没 天正16年7月15日1588年9月5日
改名 政義、政尚[1]
別名 政能
戒名 一風雲松融岩院[1]
官位 播磨守[1]
氏族 畠山氏(尾州家)
父母 畠山政国
兄弟 高政政尚秋高[1]
貞政
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畠山 政尚(はたけやま まさひさ[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め政義と名乗ったとされるが[1][2]、当時の書状には政能とある[3][注釈 1]

生涯[編集]

天文3年(1534年)、畠山政国の次男として誕生[2]永禄年間から天正初めにかけ、紀伊岩室城和歌山県有田市有田川町[6])の城主だったとされる[7]。永禄6年(1563年)には畑村(現在の有田市宮原町[8])の金剛寺に寄進を行っており、政尚がこの地を領していたことがわかる[9]

元亀4年(1573年[10]畠山氏の当主となっていた弟・秋高が死去した後、政尚の子の貞政がその跡を継いだという[1]。秋高没後の畠山氏は有田郡における有力領主の地位を維持していたが、天正13年(1585年)の羽柴秀吉による紀州攻めに抵抗し、貞政は所領を失うこととなった[11]

天正16年(1588年)7月15日、政尚は55歳で死去した[2][12]円満寺(有田市[13])に葬られたとされるが、政尚の墓碑は現存しない[12][注釈 2]

子孫[編集]

貞政の子(政尚の孫)の政信は、江戸時代に入り300石の旗本となった[1]。その子の基玄江戸幕府5代将軍徳川綱吉側用人になり、加増を重ねて5,000石を領するに至った[1]。基玄は高家旗本となり、以後子孫は高家として続いた[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ について『寛政重修諸家譜』には「政尚」[1]、「両畠山系図」には「政頼」とあり[2]、『有田市誌』では主に「政能」と書かれる[4]。なお「政頼」は政尚の弟の秋高が名乗った諱である[5]
  2. ^ 円満寺は天文年中(1532 - 1555年)に政尚の父・政国が仏殿の再興や寺領の寄進を行っており、政国・政尚以降畠山氏の所となった[13]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 寛政重修諸家譜』巻第九十八(『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年、561–563頁)。
  2. ^ a b c d 塙保己一 編「両畠山系図」『続群書類従 巻115-116』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553646/24 
  3. ^ 永禄6年9月21日付則岡貞久・久喜春秀執達状 (有田市誌編集委員会 1974, p. 336)。
  4. ^ 有田市誌編集委員会 1974, pp. 376–377, 399, 1413–1414.
  5. ^ 弓倉 2006, p. 51.
  6. ^ 和歌山城郭調査研究会 編『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ12〉、2019年、36頁。ISBN 978-4-86403-311-4 
  7. ^ 有田市誌編集委員会 1974, p. 376.
  8. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年、1005頁。ISBN 4-04-001300-X 
  9. ^ 有田市誌編集委員会 1974, pp. 335–336.
  10. ^ 弓倉 2006, pp. 346, 371.
  11. ^ 弓倉 2006, p. 125.
  12. ^ a b 有田市誌編集委員会 1974, p. 377.
  13. ^ a b 有田市誌編集委員会 1974, pp. 305–307.

参考文献[編集]

関連項目[編集]