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湯川直春

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湯川 直春
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正14年(1586年
官位 中務大輔[1]
氏族 湯河氏(湯川氏)
父母 父:湯川直光
兄弟 直春信春景春[2][3]
勝春玉置直和
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湯川 直春(ゆかわ なおはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将紀伊国亀山城[注釈 1]主。名は湯河 直春とも書く[1][注釈 2]

生涯

湯河氏(湯川氏)の当主・直光の子として誕生[1]。湯河氏は紀伊国日高郡小松原(御坊市湯川町小松原[6])を本拠とし、日高平野一帯を支配していた[7]

永禄5年(1562年)5月20日、紀伊国守護畠山高政の麾下で、父・直光は三好長慶と戦い、敗死(教興寺の戦い[8]。このため、直春が跡を継いだ[1]。同年7月、家督継承にあたって雑賀衆起請文を交わしており[9]、同盟関係の継続を確認している[10]

元亀元年(1570年)、摂津国の野田・福島で織田信長三好三人衆が戦った際、直春は玉置氏とともに織田方に加勢した(野田城・福島城の戦い[11]天正元年(1573年)12月に、信長と対立した将軍足利義昭が紀伊国由良興国寺に下向してきた際、義昭は直春に協力を要請している[12][13]。天正4年(1576年)の木津川口の戦いでは本願寺方が信長に勝利しているが、直春は本願寺関係者に勝利を祝う書状を送っており、本願寺に味方していた[14][15]

天正12(1584年)3月、羽柴秀吉徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが始まると、直春は雑賀衆や根来衆らとともに徳川方として兵を挙げた[16]

天正13年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐を開始[17]。直春は抗戦を決定したが、有田郡白樫氏神保氏、日高郡の玉置氏は秀吉に帰順した[18]。直春は娘婿でもある玉置直和の居城・手取城日高川町和佐)に兵を差し向けたが、仙石秀久中村一氏ら羽柴軍が迫ってきたため、亀山城に火をかけ、本拠の小松原を撤退[19]熊野山中に入り[20]、近露(田辺市中辺路町近露[20])の横谷氏の館へと入った[21]

3月28日、羽柴方の杉若無心や仙石秀久らは湯河氏が放棄した湯河教春の城・泊城(田辺市芳養町井原)へと入る[22]。4月1日、仙石秀久、尾藤知宣藤堂高虎が1,500の兵で近露に向ったところ、潮見峠で直春の迎撃にあって引き下がったという(『湯川記』)[23]。この後、7月まで羽柴方と直春らの争いは続き、最終的に両者は和睦[24]。和睦の条件として本知安堵があったとされる[25]

翌天正14年(1586年)、直春は死去した[26]。直春の死については病死説[注釈 3]の他、同年2月に大和郡山羽柴秀長に謁見したのちそのまま留めおかれ、7月に毒殺されたとする説(『湯川記』)などがある[28]

子・丹波守(勝春[29]、光春[30])は秀長に仕えて3,000石を領した[31]。秀長の没後は浅野氏に仕え[32]、やがて浅野長晟とともに安芸国へと移った[33][34]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の和歌山県御坊市湯川町丸山[4]
  2. ^ 中世に成立した史料の多くで湯河氏(湯川氏)の名字は「湯河」と記され、直春自身、家臣・芝善九郎に宛てた天正14年(1586年)1月11日付の書状で「湯河直春」と自署している[5]
  3. ^ 秀吉との戦いの最中に病死したとするもの(『若州湯川彦右衛門覚書』)や、天正14年(1586年)4月23日に死去したとするもの(「渡辺家文書」)がある[27]

出典

  1. ^ a b c d 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 513.
  2. ^ 和歌山県日高郡 1923, p. 1166.
  3. ^ 美浜町史編集委員会 編『美浜町史 上巻』美浜町、1988年、638-639頁。全国書誌番号:88030353 
  4. ^ 鈴木 1989, p. 321.
  5. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 454–455, 502–503.
  6. ^ 鈴木 1989, p. 323.
  7. ^ 和歌山県史編さん委員会 1994, p. 601.
  8. ^ 天野忠幸『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年、114-115頁。ISBN 978-4-623-07072-5 
  9. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 481–485.
  10. ^ 和歌山市史編纂委員会 編『和歌山市史 第1巻 自然・原始・古代・中世』和歌山市、1991年、948-949頁。全国書誌番号:92017003 
  11. ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, pp. 513–514.
  12. ^ 12月11日付湯川右馬允宛足利義昭御内書(『後鑑』)。
  13. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 474–475; 御坊市史編さん委員会 1981b, p. 84; 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 514.
  14. ^ 7月25日付湯河直春書状(「三宝寺文書」)。
  15. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, p. 480.
  16. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 491–492; 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 514; 和歌山県史編さん委員会 1994, pp. 646–647.
  17. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 492–493; 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 649.
  18. ^ 鈴木 1989, p. 319; 和歌山県史編さん委員会 1994, pp. 651–652.
  19. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 497–499; 鈴木 1989, pp. 319–323.
  20. ^ a b 鈴木 1989, p. 325.
  21. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, p. 499.
  22. ^ 鈴木 1989, pp. 324–325.
  23. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, p. 500; 鈴木 1989, pp. 325–326.
  24. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 501–502; 鈴木 1989, pp. 327–328.
  25. ^ 鈴木 1989, p. 328.
  26. ^ 鈴木 1989, pp. 328–329.
  27. ^ 御坊市史編さん委員会 1981b, pp. 56, 117; 鈴木 1989, pp. 328–329.
  28. ^ 御坊市史編さん委員会 1981b, pp. 56, 109, 117; 鈴木 1989, pp. 328–329.
  29. ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 512; 鈴木 1989, p. 329.
  30. ^ 和歌山県日高郡 1923, p. 1420.
  31. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 503–504; 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 513.
  32. ^ 御坊市史編さん委員会 1981a, pp. 503–504; 和歌山県史編さん委員会 1989, pp. 512–513.
  33. ^ 和歌山県史編さん委員会 1989, p. 512.
  34. ^ 林保登 編『芸藩輯要 附藩士家系名鑑』入玄堂、1933年、第4編118頁。全国書誌番号:46085719 

参考文献