浅野長晟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
 
浅野長晟
Nagaakira Asano.jpg
浅野 長晟像(広島市立中央図書館蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年1月28日1586年3月18日
死没 寛永9年9月3日1632年10月16日
改名 岩松(幼名)→ 長晟
戒名 自得院殿洞雲宗仙大居士
墓所 広島県広島市の神田山墓地
官位 従五位下・右兵衛佐但馬守、従四位下、侍従
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
備中足守藩主 → 紀伊和歌山藩主 → 安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 父:浅野長政
母:彌々(やや・長生院浅野長勝の娘)
兄弟 幸長長晟長重、女(堀親良室)、女(松平定綱室)
正室振姫徳川家康の3女)
長治光晟

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名備中足守藩主、紀伊和歌山藩の第2代主、安芸広島藩の初代藩主浅野氏宗家2代。

生涯[編集]

近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)に浅野長政の次男として生まれる。

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に仕えて3,000石を与えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従い、徳川秀忠の小姓を務め、慶長15年(1610年)に備中足守に2万4,000石を与えられる。

慶長18年(1613年)、長兄・幸長が嗣子無くして病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩(紀州藩)主となった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では序盤の木津川口の戦いに参戦したほか、翌20年(1615年)の夏の陣では、樫井の戦い塙直之らを討つという功績を挙げた。しかし、紀伊国内では北山一揆紀州一揆と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭い、戦後すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたった。

元和5年(1619年)、福島正則改易されると、その後を受けて安芸広島42万石に加増移封された。

寛永9年(1632年)9月3日、広島で死去した。享年47(満46歳没)。家督は次男の光晟が継いだ。

墓所は広島県広島市の神田山墓地。