柳生宗厳

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柳生宗厳
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 大永7年(1527年
死没 慶長11年4月19日1606年5月25日
別名 石舟斎(新介、新次郎、新左衛門、右衛門)
戒名 芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士
墓所 芳徳寺
主君 筒井順慶松永久秀
氏族 柳生氏
父母 父:柳生家厳
兄弟 松吟庵
奥原助豊娘・鍋(春桃御前)[1]
厳勝久斎徳斎宗章宗矩
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柳生 宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし、宗嚴)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将新陰流兵法家柳生家厳の子。百官名但馬守は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎した。子に柳生厳勝柳生利厳の父)、柳生宗矩柳生宗章ほか。

概略[編集]

大和国人柳生氏の当主。松永久秀に仕えて頭角を表すも、松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で 上泉信綱より伝授された新陰流の剣豪として名高く、 徳川家康の師範となって息子宗矩を徳川家に推挙したことで柳生家が大きく飛躍する切欠を作った。

生涯[編集]

新陰流兵法目録事/宝山寺所蔵
芳徳寺

出生から筒井氏臣従[編集]

代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算して享禄2年(1529年)を生年とする説もある[2]

若年時から剣術を好んで諸流を学んだと伝えられ、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』では戸田一刀斎富田流を学んで奥義「獅子の洞入」[注釈 1]を修めたとあり、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある[3]

宗厳が生まれた当時の大和は争乱が続いており、天文13年(1544年)宗厳17歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城は筒井順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。

父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図り、年次不詳ながら筒井氏から所領を安堵された書状を与えられている[4]。順昭の跡を継いだ筒井順慶から家厳に宛てられた5月14日付の書状では、「新次郎殿(宗厳)が吐山(奈良市)で行われた合戦で比類無き名誉を果たして負傷した」とあり、この頃宗厳も父と共に筒井氏の家臣として戦っていたと見られる[5]


三好政権下[編集]

永禄2年(1559年)宗厳32歳の時、当時畿内を支配していた三好長慶の重臣・松永久秀が大和へ侵攻する。宗厳は主君・筒井順慶より引き留め工作として、白土(奈良県大和郡山市)を与えられるが[6]、同年8月に久秀が順慶を敗走させて大和を支配下においたのを機に、筒井氏に離反して久秀に与した。

永禄5年(1562年)3月、久秀の主家である三好氏は、畠山・根来連合軍との戦い(久米田の戦い)で大敗したことを切欠に、京を放棄するなど劣勢に立たされる。このような状況下で宗厳は久秀の居城である多聞山城に加勢に入り、反三好氏の勢力に対抗した。久秀は宗厳の加勢を喜び、自らは鳥養(大阪府摂津市)に陣を敷いたことを告げ、「よわもの(弱者)共」が敵に城を明け渡しても、即座に討ち果たすので、安心して欲しいと強がっている[7]

三好氏の苦境は同年5月の教興寺の戦いに勝利するまで続くが、この間久秀からは、宗厳が離反しないように軍事情勢を続けざまに伝えるなど励ましの書状を受けている[8]。そうした中で、宗厳は久秀の信用を獲得してその側近となり、取次ぎとして三好家中枢への使者を務めるようになった[注釈 2]

永禄6年(1563年)正月二十七日、久秀の下で多武峰の戦いに参戦する。この戦いは久秀方の敗北で終わるが、宗厳は味方が敗走する中「鎗を働かれ数輩」の首級を挙げたとして、久秀から「後口比類無き御働き、いよいよ戦功をぬきんでらるべき事」として感状を与えられている[10]。 このとき宗厳は、敵の箕輪与一に拳を射られて窮地に陥っているが、家臣の松田源次郎・鳥居相模某が与一を倒して危機を脱した。源次郎はこの戦いで討ち死しにしたが、宗厳は生涯その恩を忘れず、後に源次郎の長子(同源次郎)に新陰流の印可状を与えた際には、父源次郎の武功を「比類なき働き」「討ち死にの段更に忘れ置かず候」と讃えている。[11]

同年の6月16日、久秀からの直状で、かつて筒井氏より得た白土の替地として秋篠分(奈良市)を与えられ[12]、久秀との主従関係を強化されている。

同年6月、長慶の嫡男・三好義興が病床に臥し、その病状を伝える書状が久秀に届く。宗厳はその月の22日、23日と立て続けにその返書を久秀から託され、弱気を吐露し、義興の病状を隠蔽するよう意見する主君・久秀の考えを三好氏中枢に伝えた。このように、この時期の宗厳は三好家次期当主の危篤という機密情報も任されており、久秀にとって最も気を許せる家臣として扱われていた様子がある[13]

新陰流入門[編集]

永禄6年(1563年)宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が上洛の途上で奈良に立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。

入門の経緯について記した同時代の史料はないものの、後年宗厳の曾孫・柳生利方が『新陰流兵法由来』に残しており、当初宗厳は信綱との試合を望んだものの、信綱は先に弟子の鈴木意伯と立ち合うようにいい、宗厳は「さらば」と何度か試合したが、自分より二寸短い竹刀を操る意伯に惨敗したとある[14]。ただし、この試合の内容には異説もあり、江戸時代中期に著された『武功雑記』では宗厳の立合いの相手を同じく信綱の弟子の疋田豊五郎としており、また利方の子孫である柳生厳長は『正伝新陰流』で、門弟ではなく信綱直々に宗厳の相手を務めたとしている[15]

いずれにしろ信綱が編み出した新陰流に完敗した宗厳は、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。

翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して[注釈 3]信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという[16]

三好氏内乱[編集]

永禄7年(1564年)三好家当主・長慶が死去して若き三好義継が跡を継ぐと、宗厳が仕える松永久秀と三好家の重臣・三好三人衆等との間に対立が生じ、やがて三好家中を二分した争いになる。三人衆は当主・義継を擁立し、宗厳の元主君である筒井順慶をはじめとする大和の国人の多くが三人衆と結ぶなど久秀は孤立するが、宗厳は久秀方に留まった[17]

久秀と三人衆の戦いは久秀の劣勢で推移するが、永禄10年(1567年)2月、三好家当主・三好義継が三人衆への不満から出奔し、久秀に味方したことで久秀はかろうじて復活を遂げ[18]、戦況は膠着する。

こうした状況を打開するため、久秀は前将軍足利義輝の弟・足利義昭と同盟を結び、義昭の供奉として上洛を図る織田信長に協力する[19]。宗厳も主君・久秀の方針に従って信長上洛のために尽力し、同年8月21日には信長から直接書状を受け取っている。書状の中で信長は、宗厳の義昭への忠節を最もと褒め、宗厳から義昭へのお断りの件は自分から言上することを告げ、自分の通路安全のためにも三木の女房を早く返すよう奔走するようにと具体的な指示を出している[20]。続く28日には信長の重臣佐久間信盛からの書状を受け取り、上洛が延引していることについて弁明を受け、久秀と相談して状況が整い次第奈良へ向かうと伝えられている[21]

これらの書状で見られる通り、この頃の宗厳は信長から直接書状を受け取っているほか、久秀の嫡男・松永久通を取次として久秀の主君である三好義継からも直接感状[22]を受けており、松永氏の弱体化によって相対的に存在感を増し、与力として半ば独立する立場となっていたと見られる[23]

同年12月、信長から大和や山城南部の国人達に宛てて「自分(信長)は間もなく 足利義昭に従い上洛する。自分は必ず久秀親子を見放さない」として、久秀親子への協力を要請する書状が送られる[24]。この書状は同内容のものが複数現存するが、柳生家には宗厳に宛てられたものの他に、興福寺在陣衆宛てのものも保管されている。そのため、この頃の宗厳は久秀の軍事的基盤の一人として、興福寺に陣取る軍勢を率いている立場にあったと見る意見もある[25]

信長上洛から久秀滅亡[編集]

永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を伴って上洛し、義昭が将軍に就任する。宗厳の主君・松永久秀は織田軍と協力して大和の平定を進め、宗厳も織田家の宿将・柴田勝家に嫡男・柳生厳勝と共に見え、5月16日付の書状で大和の国人・十市氏と協力するよう命じられるなど[26]、織田家と連携して活動している。

久秀は主家・三好義継と共に、義昭の幕府を構成する有力な一員となり、三好三人衆と義昭の和睦をまとめるなど奔走する。しかし元亀2年(1571年)4月に義昭が長年敵対していた筒井順慶と結んだ等により、義昭から離れて敵対した[27]

同年8月4日、久秀が筒井順慶の守る辰市城を攻めると、宗厳もこれに参加する。この戦いで久秀方は「大和国始まって以来」(『多門院日記』)と言われるほどの大敗を喫し、久秀の一族や多くの重臣が討ち死にした[28]。『多聞院日記』は、この戦いで負傷したものとして宗厳の息子(「柳生息」)も挙げており、銃傷が原因で隠居したと伝わる宗厳の長子・厳勝は、この戦闘で受けた傷が原因で障害を負ったものと見られている[29]

同年10月、久秀が山城南部を攻めて奈良を留守にすると、宗厳は久秀の子・久通の命を受けて、義昭への調略の一環として東国へ使僧を遣わし、伊賀衆への調略や大阪本願寺と伊勢長島一向一揆との交渉にあたった[30]。この年、末子柳生宗矩が誕生した。

元亀3年(1572年)4月、松永久秀および三好義継が織田信長との対決姿勢を示すと、信長は筒井順慶と結んで久秀と対決した。信長に反抗する勢力には将軍・足利義昭等も加わり(信長包囲網)一時は信長を圧倒するも、やがて劣勢となって元亀4年(1576年)11月に義継が居城を攻められて自害し、久秀は降伏して信長に臣従した。この間の宗厳の動向は明らかではないものの、天正2年(1574年)頃には 本願寺の下妻頼興から、当時信長に攻められて籠城していた伊勢の長島(長島一向一揆)と大阪の本願寺との取次ぎを依頼されており[31]、松永久秀の配下にあって、信長と対立する本願寺と通じていた形跡もある[32]

久秀が信長に降って以降、大和の守護は信長の家臣・塙直政が任じられ、久秀もこれに従った。しかし天正4年(1576年)に直政が戦死し、仇敵・筒井順慶が大和を統治する体制が取られると、翌・天正5年(1577年)に久秀は信貴山城に立て籠もって再び信長との対決姿勢を示した[33]。 同年10月宗厳50歳の時、織田信忠を総大将とする軍勢に信貴山は包囲され、10月10日天守に火をかけて久秀は自害した。

豊臣政権下での没落[編集]

久秀が没して後、新たな大和の支配者となった筒井氏に宗厳が仕官した形跡はなく、文禄元年(1592年)までの15年間は武将としての宗厳の行動は明らかではない[34]。柳生町の村史『史料柳生の里』では天正元年(1582年)の足利氏の滅亡を期として柳生谷に身を隠したと述べ[35]、柳生厳長は『正伝新陰流』でそれに同意する[36]。一方でこれ以降、新陰流の指導を活発に行っている様子もあり、現在明らかになっている宗厳が発行した伝書類はすべて天正7年(1579年)以降のものである[37]

天正7年頃には、元関白近衛前久へ「表裏疎意無く」奉公することを希望して誓紙を提出したことが前久の書状で明らかになっている。前久は正月22日付の上野信孝に宛てた書状で、この宗厳の申し出について「感悦の至り」と感想を記している[38]が、前久は信長が死去した天正10年(1582年)以降畿内を離れていた期間があり、臣従がいつ頃まで続いたかは定かではない。

天正13年 (1585年)、天下を統一した豊臣秀吉の命で国替えが行われ、大和の支配者が筒井氏から秀吉の実弟 豊臣秀長に代わる。『藩翰譜』には年次不詳ながら、秀長の統治下において「柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収」されたとあり、本領を失った柳生家は大いに困窮したとされる。『柳生雑記』ではこれを文禄3年(1594年)のこととするが[39]、文禄3年には秀長は既に死没している[注釈 4]。一方で天正13年11月9日に、宗厳は近江愛智群百石を与える内容の、差出人不明の知行文目録を授かっており、『玉栄拾遺』の編者はこの頃の宗厳が当時近江周辺を領有していた関白豊臣秀次に仕えていたものと推測する[41]

文禄2年(1593年)宗厳66歳の時、剃髪・入道して石舟斎と名乗り、同年9月には自身の兵法観を百九首の和歌として『兵法百首』にまとめる。その冒頭で宗厳は「世を渡るわざのなきゆへ兵法を 隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」として[42]、自らの境遇を自嘲的に歌っている。

家康入門[編集]

文禄3年(1594年)5月、豊前国の大名・黒田長政の取成しで京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した[43]。家康は宗厳に自らの側で出仕するように求めたともいうが、宗厳は固辞し、同行していた五男の柳生宗矩を推挙したと『柳生家史話』では伝えている。

この頃宗厳は、後に関ヶ原の戦いで西軍の大将として家康と争う毛利輝元にも兵法を教授しており、文禄4年(1595年)以降に複数の目録を与えている[37]。兵法を通じて徳川家と毛利家から援助を受けるようになっても柳生家は困窮していたと見られ、文禄4年7月には旅先から妻に宛てて、自分が死んだら茶道具を売り払っての葬式代に当てるようにと遺言状を送っている[44]

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が没すると、家康と輝元は徐々に対立していくが、徳川家に宗矩を仕えさせつつ輝元にも兵法を指南する状況はしばらく続いた。

慶長4年(1599年)2月、輝元に対し皆伝印可として起誓文を提出する。起誓文ではこれまでの数年間に渡る輝元からの「扶助」について礼を述べ「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記すと共に、「兵法」だけに限らず「表裏別心のない」ことを自ら誓っており、関ヶ原の戦い前年のこの時点での宗厳はむしろ毛利寄りという意見もある[37]

関ヶ原の戦いから死没[編集]

慶長5年(1600年)7月、徳川家康が上杉景勝討伐のため会津に出兵すると、その途上で石田三成が挙兵し、総大将として毛利輝元が大阪城に入った。三成の挙兵の報を受けた家康は、宗厳宛ての書状[45]を宗矩に託して柳生庄にかえし、筒井順斎と協力して大和の豪族を集めて石田方を牽制するように命じた[46]。 宗厳は宗矩と協力して家康の命を果たしたと見られ、同年9月13日に家康の元に戻った宗矩は、家康に無事工作を終えたことを報告している(『徳川実紀』)。 宗矩は関ヶ原の戦いの本戦に家康の本陣で参戦し、徳川方が勝利すると、これらの功績を認められて、没収されていた柳生庄の本領二千石を与えられた。

慶長8年(1603年)、熊本藩主・加藤清正の要請に応えて、長子・厳勝の子の柳生利厳を加藤家に仕官させる。宗厳は旅立つ利厳に『新陰流兵法目録事』を与えると共に、利厳の気性を案じ、利厳が死罪に相当する罪を犯しても3度までは許すように清正に願い出たという。しかし利厳は、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出た[47]

翌年の慶長9年(1604年)、旅先の利厳に皆伝印可状を送り、利厳が柳生庄に帰還した際には、自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切を併せて授与した[48]

慶長11年(1606年)4月19日に柳生庄にて死去。享年80。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。奈良市の中宮寺に葬られるが[49]、後に宗矩が柳生家の菩提寺として芳徳寺を開基したため、芳徳寺に墓所がある。

没後[編集]

宗厳の死後、家督を継いだ宗矩は二代将軍・秀忠および三代将軍家光に新陰流を伝授し、その門弟も剣術指南役として諸藩に採用されて、宗厳の流れをくむ新陰流は「天下一の柳生」と称されるほどの隆盛を誇った。宗矩は大目付も務めるなど幕政にも関与して加増を重ね、総石高一万二千石に達して柳生藩を立藩するに至る。

一方宗厳の孫・利厳は御三家尾張徳川家初代当主・徳川義直に仕えて兵法を伝授し、尾張徳川家御流儀としての新陰流の地位を確立した。その後も尾張藩では代々新陰流は特別の格式を以て遇され、現代にいたるまで連綿と新陰流を伝えている。

人物・逸話[編集]

医師の曲直瀬道三と親交があり、道三が宗厳と梅窓の両人を相手に健康管理のあり方を問答形式で語った『養生物語』がある[50]

宗厳の門下[編集]

印可状・目録・入門の誓紙が現存する門下[37]
当主自身が門下に入門している家、及び当主
大名家に仕えた門弟
その他の門下
  • 三好左衛門尉(天正9年印可)
  • 松田源次郎(慶長9年印可)…柳生家家臣
  • 柳生厳勝(慶長11年印可)
印可状・目録が現存していない門下[51]
大名家に仕えた門弟
その他の門下
  • 柳生新次郎厳秀
  • 村上清右衛門…戸田三太刀流開祖
  • 福野七郎右衛門正勝…良移心当流流祖
  • 伊岐遠江守直利…伊岐流槍術流祖
  • 伊藤善斎…香取流流祖
  • 佐々木茂左衛門
  • 大石佐左衛門正縄
  • 高野善右衛門重綱

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「獅子の洞入」は富田流には見られず、似た技名が念流の伝書に見られることから、富田流に加えて念流も修行していたという意見もある。
  2. ^ 柳生家には、この頃の久秀が宗厳以外の家臣に宛てた指示書や三好家の重臣に戦況を報告した書状などが保管されている。これは宗厳が久秀の側近として、これらの久秀の書状を相手へ伝達し、内容と共に久秀の意思を披露したあと、持ち帰ったために柳生家で保管されたものと考えられる。[9]
  3. ^ ただし無刀取りの開眼の時期は諸説あり、『新陰流兵法由来』では信綱が関東に旅立って以降とする。またこの時無刀取りを実証した相手として、『正伝新陰流』は鈴木意伯とし、『玉栄拾遺』では上泉信綱自身とする。
  4. ^ 今村嘉夫は『大和柳生一族』で確かな史料はないとしながらも、天正16年とする説を紹介する。[40]
  5. ^ a b c 尾張柳生三代厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では、宗厳より免許皆伝を与えられた者として名が挙げられている[52]

出典[編集]

  1. ^ 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(二)』。該当箇所はp.60
  2. ^ 今村嘉雄1994 p.44
  3. ^ 岡田一男、「柳生新陰流源流考」『武道学研究』 1978年 10巻 3号 p.14-20, doi:10.11214/budo1968.10.3_14, 日本武道学会
  4. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『所収喜多石見守興能、向井専千代書状』(年次不詳、正月6日付、柳生殿宛)。該当箇所はp.283
  5. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『筒井順慶書状(一)』(年次不詳、5月15日付、柳生美作守宛)。該当箇所はp.278
  6. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『宝来藤政、超昇寺孫八郎、向井専千代書状』(永禄二年、7月10日付、柳生殿宛)。該当箇所はp.284
  7. ^ 天野忠幸 2018 p.128
  8. ^ 天野忠幸 2018 p.161
  9. ^ 天野忠幸 2018 p.162
  10. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『松永久秀書状(二)』(年次不詳、2月2日付、柳生新介宛)。該当箇所はp.294
  11. ^ 今村嘉雄1994 p.44
  12. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『松永久秀書状(三)』(永禄6年、6月16日付、柳生新介宛)。該当箇所はp.294
  13. ^ 天野忠幸 2018 p.162、172
  14. ^ 赤羽根龍夫2017 p.11
  15. ^ 柳生厳長1957 p.41
  16. ^ 今村嘉雄1994 pp.61-64
  17. ^ 天野忠幸 2018 p.206
  18. ^ 天野忠幸 2018 p.214
  19. ^ 天野忠幸 2018 pp.208-212
  20. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『織田信長書状(三)』(年次不詳、8月21日付、柳生新左エ門尉宛)。該当箇所はp.289
  21. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『佐久間信盛書状(一)』(年次不詳、8月18日付、柳生新左エ門尉宛)。該当箇所はp.285
  22. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『三好義継書状(二)』(年次不詳、6月5日付、柳生新左エ門尉宛)。該当箇所はp.282
  23. ^ 天野忠幸 2018 p.218
  24. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『織田信長書状(二)』(年次不詳、12月1日付、柳生新左エ門尉宛)。該当箇所はp.288
  25. ^ 天野忠幸 2018 p.220
  26. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『柴田勝家書状』(年次不詳、5月16日付、柳生但馬守宛)。該当箇所はp.292
  27. ^ 天野忠幸 2018 p.240
  28. ^ 天野忠幸 2018 p.245
  29. ^ 今村嘉雄1994 p.46
  30. ^ 天野忠幸 2018 p.246
  31. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『下妻頼興書状』(年次不詳、5月15日付、柳生殿宛)。該当箇所はp.276
  32. ^ 高柳光寿1962 p.166
  33. ^ 天野忠幸 2018 pp.263-264
  34. ^ 今村嘉雄1994 p.47
  35. ^ 今村嘉雄1994 p.47
  36. ^ 柳生厳長1957 p78
  37. ^ a b c d 本林義範、「柳生宗厳兵法伝書考 -毛利博物館所蔵資料を中心として-」『論叢アジアの文化と思想』 1995年 4巻 p.27-45, アジアの文化と思想の会
  38. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『近衛前久書状』(年次不詳、正月22日付、上野民部大輔宛)。該当箇所はp.290
  39. ^ 今村嘉雄1994 p.50
  40. ^ 今村嘉雄1994 p.106
  41. ^ 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(二)』。該当箇所はp.52
  42. ^ 今村嘉雄1974 p.73
  43. ^ 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(二)』。該当箇所はp.59
  44. ^ 今村嘉雄1994 p.52
  45. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『徳川家康書状』(年次不詳、7月29日付、柳生但馬入道宛)。該当箇所はp.309
  46. ^ 今村嘉雄1994 p.114
  47. ^ 柳生厳長1957 pp.116-124
  48. ^ 柳生厳長1957 pp.125-127
  49. ^ 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(二)』。該当箇所はp.60
  50. ^ 宮本義己・吉田豊編纂『史伝健康長寿の知恵⑤健康への道 養生のすすめ』(第一法規出版、1989年)pp135-158
  51. ^ 武芸流派大事典 : 増補大改訂pp.855-862
  52. ^ 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『柳生新陰流縁起』p.387

参考文献[編集]

  • 今村嘉雄編輯『史料 柳生新陰流〈上巻〉』人物往来社、1967年。
  • 今村嘉雄編輯『史料 柳生新陰流〈下巻〉』人物往来社、1967年。
  • 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜』新人物往来社、1994年。
  • 柳生厳長『正傳新陰流』大日本雄弁会講談社、1957年。
  • 高柳光寿『戦国の人々』株式会社新紀元社、1962年。
  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上』平凡社、2018年。
  • 赤羽根龍夫『柳生新陰流思想・歴史・技・身体』スキージャーナル株式会社、2017年。
  • 綿谷雪、山田忠史共著『武芸流派大事典 : 増補大改訂』東京コピイ出版部、1978年12月。
  • 今村嘉雄『柳生遺文』株式会社エルム、1974年12月。
  • 名古屋市役所『名古屋市史人物編 下巻』国書刊行会、1934年。


関連項目[編集]

外部リンク[編集]