辰市城

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辰市城
奈良県
奈良市立辰市幼稚園(辰市城の主郭推定地)
奈良市立辰市幼稚園(辰市城の主郭推定地)
別名 辰市城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 井戸良弘
築城年 元亀2年(1571年
主な改修者 不明
主な城主 筒井順慶、井戸良弘
廃城年 不明
遺構 なし
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度39分26.363秒
東経135度48分39.089秒

辰市城(たついちじょう)は、奈良県奈良市東九条町に存在していた日本の城平城)で短期間で築城した。また、大和最大の合戦である辰市城の合戦の舞台となった城である。

概要[編集]

辰市幼稚園の東側に位置する耕作地

辰市城は奈良駅より南西の2.6kmの旧辰市小学校、現在の辰市幼稚園周辺にあった平城で、城郭についてはほとんど不明である。『多聞院日記』や『筒井家記』より、短期間でが築かれたと思われている。現在辰市幼稚園の周辺は宅地化、耕作地となっており石碑もなく、城跡をうかがい知れるものはほとんど無い。

辰市城の合戦[編集]

辰市城の沿革もこの辰市城の合戦のみで、いつ頃廃城になったか、辰市城の合戦のみ存在していたのか、詳しい事は解っていない。

辰市城の合戦
戦争攻城戦
年月日元亀2年(1571年)8月4日
場所:辰市城
結果筒井順慶軍の勝利
交戦勢力
筒井順慶軍Japanese Crest Umebachi.png 松永久秀Japanese crest Tuta.svg
三好義継Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg
指導者・指揮官
筒井順慶Japanese Crest Umebachi.png 松永久秀Japanese crest Tuta.svg
三好義継Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg
松永久通Japanese crest Tuta.svg
戦力
不明 約10,000兵
損害
不明 約500兵
(別手負い500兵)

開戦までの経緯[編集]

筒井順慶画像(模写)/東京大学史料編纂所所蔵

筒井順慶筒井城の戦いで居城を奪われ福住中定城に落ち延びていたが、ゲリラ戦を展開し挽回を目指していた。そんな中松永久秀軍に属していた十市遠勝が病死すると、十市城では内訌が生じ松永派と筒井派に城内が分裂した。その分裂を利用し『多聞院日記』によると筒井軍と興福寺軍500兵が連合軍となって永禄13年(1570年)7月27日夜半より攻撃を開始し、城内にいる筒井派の手引も手伝って、あっけなく十市城は順慶の手に落ちた。勢いに乗った筒井軍は郡山城を攻城させようと迫っていた松永久秀軍を破ったほか、窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城した。

この時期、久秀は大規模な反撃部隊を派兵していない。これは織田信長に反抗した北近江浅井長政の討伐軍に大半を投入していたと思われている。

甲斐武田信玄元亀2年(1571年)3月に信長の同盟者徳川家康の領国三河に侵攻、同年4月には足助城野田城を落城させた。信長の要請に応じて柔軟に兵力を出すことに不満をもっていた久秀は、前年の元亀元年(1570年)5月、武田信玄と本願寺法主顕如が同盟を結ぶと、自らも信玄と同盟を結び信長に謀反をおこす。反信長であり東大寺大仏殿の戦い等で戦った三好三人衆とも信玄の仲介で和睦する。

順慶が久秀の居城多聞山城を本格的に攻城しようと、強力な拠点となるべく着目したのは辰市村で、現在の奈良市東九条町に位置している。筒井城から東北に6kmの距離になる。ここに順慶の命をうけた井戸良弘が向城を築いた。『筒井家記』によると同年7月3日に築いたとされている。また『多聞院日記』によると同年8月2日に

辰市二筒ヨリ用害沙汰之 — 多聞院日記

とあるが、『日本城郭大系』によると、その後すぐに辰市城の合戦が始まる事から『多聞院日記』の記述は「あわただしすぎる」と記載している。

戦いの状況[編集]

辰市城の城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

信長に謀反をおこし自由の身となった久秀は筒井軍討伐に兵をあげる。同年8月4日信貴山城を出立した松永軍は三好義継の援軍と多聞山城を出立した息子の松永久通の軍と大安寺で合流し、辰市城の攻城戦が開始される。この時の戦いの様子を『和州諸将軍伝』によると、

筒井松永ノ両勢対陣シ、互二時ノ声三度合シテ 弓鉄砲ヲ居掛タリ、ソノ声四方二響渡リ、樹海二応ヘテ、天地モ震動スルカト覚ヘタリ。

—和州諸将軍伝

と記している。戦いは長時間に渡って続いたと思われている。大軍で押し寄せた松永軍は、を引き落とし、をかけて攻城戦を仕掛けてきた。当初松永軍は優勢であったが、徐々に高樋城、椿尾上城、郡山城から順慶への援軍が到着し松永軍へ反撃していく。これに加え福住中定城にいた福住順弘山田順清隊が来援し始めると松永軍は崩れ始めてくる。『多聞院日記』によると松永軍の多くの武将をはじめ首級500の他に手負い500を数え、鉄砲、等を捨てて多聞山城にたどり着き、「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてのことだ」と記載されている。一方、筒井軍も援軍に駆け付けた山田順清をはじめ多くの武将が討ち取られた。

戦後の影響[編集]

この戦いで大敗した久秀は苦労して手に入れた筒井城を手放してしまい順慶に奪回された。同年8月6日、順慶は信長の元に松永軍の首級240を送っている。また翌8月7日、松永軍に属していた高田城を落とし40の首を挙げた。その後佐久間信盛明智光秀の仲介で同年11月1日に久秀と順慶は短期的な和睦をした事が『和州諸将軍伝』に記されている。しかし本格的な和睦は翌天正元年(1573年)4月に武田信玄が上洛中に病死、同年7月19日に槇島城の戦い足利義昭が追放され、8月20日の一乗谷城の戦い朝倉義景が、8月28日の小谷城の戦いで浅井長政が、11月の若江城の戦いで盟友でもあった三好義継が攻め滅ぼされ信長包囲網が崩れた後で、久秀は信長に帰服を申し出、条件として12月26日に多聞山城を明け渡すことになる。翌天正2年(1574年正月に順慶も岐阜城に赴き信長へ正式に随身する事になる。

城跡へのアクセス[編集]

辰市幼稚園の北側

参考文献[編集]

  • 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、305-306頁。
  • 籔景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年8月、93-103頁。
  • 筒井順慶顕彰会『筒井順慶の生涯』筒井順慶顕彰会、2004年3月、48-50頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』第四巻 大阪・奈良・和歌山・三重、新人物往来社、1989年4月、155頁-160頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]