金春流

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金春流(こんぱる-りゅう)は能楽の流派の一。古い文献には「今春」とも。シテ方と太鼓方がある。また、かつては大鼓方にも金春流があったが明治期に廃絶した。

シテ方[編集]

伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としているが、実質的には室町時代前期に奈良春日大社興福寺に奉仕した猿楽大和四座の一、円満井座に端を発すると考えられている。特に同座の中心的な太夫として活躍した毘沙王権守、およびその子金春権守が流儀の基礎を築き、権守の金春禅竹(五十七世宗家)にいたって飛躍的な深化を遂げた。下掛りに分類される。

円満井座創座を巡る伝承[編集]

禅竹は、自家に伝わる伝承を基に『明宿集』を物し、猿楽の創始について述べている。

「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した(禅竹は河勝を「」の化身とし、また始皇帝の転生と見た)。その後河勝の三人の子のうち、末子が猿楽の芸を引き継ぎ、代々継承したといい、村上天皇の代にはその末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じた。この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。

金春禅竹の活躍[編集]

金春流と金剛流は、観阿弥らが京都に進出したのちもながらく奈良を本拠地とし、そこにとどまっていたが、禅竹のころから徐々に京都に進出していった。世阿弥に師事し、その娘婿となった禅竹は、世阿弥から「拾玉得花」「花鏡」等の伝書を相伝するとともに、その演技によって当時の知識人たちから人気を集めた。また禅竹は作能にもすぐれた手腕を見せ、「定家」「芭蕉」「杜若」など現在でも演じられる佳曲を次々と生みだした。さらに「六輪一露の説」を中心とする芸論においても後代に大きな影響を与えた。

金春禅鳳[編集]

このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。この時期特に活躍した人物としては禅竹の孫にあたる金春禅鳳(五十九世宗家)がいる。禅鳳は風流能の流行を担った中心的な作者であり、「生田敦盛」「初雪」などを書いた。

全盛期[編集]

金春流がその全盛期を迎えたのは、戦国時代末期、特に豊臣秀吉天下統一を果たしてからである。金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために、金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし、政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが、重厚な芸風によって能界を圧倒し、大量の芸論や型付を書残すなど、当時を代表する太夫の一人であった。

この当時の金春流を代表する人物として、もう一人下間少進が挙げられる。本願寺坊官である少進は金春喜勝(笈蓮。安照の父。六十一世宗家)に師事した手猿楽の第一人者で、各地の大名を弟子に持ち、金春流では長らく途絶していた秘曲「関寺小町」を復活させ、「童舞抄」などの伝書を記すなどの活躍を見せた。

近世期[編集]

江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流徳川家康が、喜多流徳川秀忠が、宝生流徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。

この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。[1]

維新後[編集]

明治維新後、金春宗家は奈良などで細々と演能を続けているにすぎなかったが、こうした流儀の危機にあって一人気を吐いたのが、宝生九郎梅若実とともに「明治の三名人」といわれた桜間伴馬(後に左陣)である。熊本藩細川家に仕えていた桜間家は維新後に上京。能楽全体が危殆に瀕していた時期にあって、舞台装束、面などが思うように手に入らない劣悪な環境のなかで、宝生九郎らの援助によって演能をつづけ、東京における金春流の孤塁を守った。伴馬の子・桜間弓川も父の後を承けて活躍した。

その後は桜間道雄のほか、七十八世宗家金春光太郎(八条)の長男・金春信高が上京し、奈良にとどまった叔父・栄治郎(七十七世宗家)などともに流儀の頽勢を挽回すべくつとめた。七十九世宗家を襲った信高は、他流に比べて整備の遅れていた謡本を改訂し(昭和版)、復曲などによる現行曲の増補につとめ(金春流の所演曲は五流のなかでももっとも少なく、大正末年の時点で153曲しかなかった。しかもこのなかには「姨捨」「砧」など多くの秘曲・人気曲が含まれておらず、この点が流勢低迷の要因の一ともなっていた)、積極的に女流能楽師を認めるなど、多くの改革を行った。

現状[編集]

現在、シテ方金春流は東京、奈良、熊本名古屋などを主たる地盤として活動するが、能楽協会に登録される役者は100名強である。型、謡とも濃厚に下掛りの特色を残し、芸風は五流のなかでももっとも古風と評される。現在の宗家は信高の長男八十世金春安明(こんぱるやすあき)。

宗家代々[編集]

大鼓方[編集]

大鼓方金春流は太鼓方金春又右衛門の子三郎右衛門が、大鼓方大倉流五世大蔵源右衛門に師事して一流を立てたものである。明治後に廃絶した。

太鼓方[編集]

太鼓方金春流(一名・惣右衛門流)は、金春禅竹の伯父金春豊氏(?~1458年)を流祖とする。代々金春座の座付として一族内で世襲し、二世金春勝国(豊氏の甥にあたる)は「吉備津宮」など謡曲作者としても活躍した。

座内の分業が定着する室町時代後期ごろからは、親子間の世襲が多くなり、『四座役者目録』などに多くの逸話を残す三世勝氏(豊氏の子)、金春禅鳳・氏照らの舞台につきあい権守に任せられた四世氏重(勝氏の子)の二代は際だった名人として知られる。五世長詰(宗意)に至って名を川井惣右衛門と改め、六世一峰(宗岸)の代に徳川家康に出仕して以後、江戸時代を通じて専ら惣右衛門流の名により金春座の座付となる。

維新後の能楽衰退期に一時宗家の家系が途絶えたが、熊本から上京した増見仙太郎が流儀の孤塁を守り、多くの高進を育成した。後に増見の子・林太郎が1917年に宗家を復興して、金春惣右衛門国泰(二十一世)を名乗り、柿本豊次人間国宝)らとともに活躍した。直近の宗家(二十二世)は国泰の子・金春惣右衛門国長(人間国宝、2014年没)。能楽協会には20名弱の役者が登録されている。

元来は朴強な芸風であったと言われるが、二十一世惣右衛門によって近代的な軽快さが加味されるようになった。観世流に比べて撥の扱いが軟らかく、掛け声の多いことが特色。譜そのものも手数が多く、全体に華やかな印象がつよい。

宗家代々[編集]

  • 十九世 高安泰三
    • 十八世の養子。嗣子がおらず断絶。
  • 二十一世 金春惣右衛門国泰
  • 二十二世 金春惣右衛門国長
    • 二十一世の長男。

又右衛門流[編集]

太鼓方金春又右衛門流は、惣右衛門家の分家として活動した太鼓方の流儀。三右衛門流とも呼ぶ。初世又右衛門は金春岌蓮の甥で、似我与左衛門に師事し、「又右衛門台」と呼ばれる太鼓の台を考案したことでも有名。

豊臣秀吉徳川家康に仕え、後に上意によって観世流の座付きとなって、姓も一時「観世」に改めた。江戸後期には宗家は「観世与左衛門」とも名乗った。

初世以来観世流の芸系に属し、金春流の太鼓とはまったく異なる。現在では廃絶。

金春座の構成[編集]

  • シテ方-金春流
  • ワキ方-春藤流
  • 小鼓方-幸流、大倉流
  • 大鼓方-大倉流、金春三郎右衛門流(金春三郎右衛門家)
  • 太鼓方-金春流、金春三郎右衛門流(金春又右衛門家)、金春流(金春惣右衛門家・増見家)
  • 狂言方-大蔵流

注釈[編集]

  1. ^ 金春欣三の講演「大和の能」参照。

関連項目[編集]

小鼓方大倉流大鼓方大倉流、狂言方大蔵流は金春流から分かれたものである。

外部リンク[編集]