梅若実 (初世)

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初世梅若実

五十二世梅若六郎(うめわか ろくろう、文政11年5月26日1828年7月7日) - 明治42年(1909年1月19日)とは、観世流シテ方能楽師。明治5年(1872年)以後は初世梅若 実(うめわか みのる)を名乗り、こちらの名でよく知られる。

来歴[編集]

上野輸王寺御用達の鯨井平左衛門の長男。1836年(天保7年)五十一世梅若六郎氏暘(うじあき)の養子となる[1]。明治維新の混乱期、観世家宗家が徳川慶喜に従って静岡に移ったこともあり能楽が衰退する中、能楽堂の建設や自宅の敷舞台での演能、それまで非公開だった能を一般に有料で公開するなどした。明治時代の能楽復興の功労者。十六世宝生九郎桜間伴馬とともに明治三名人と謳われる。

長男が初世梅若万三郎、次男が五十四世梅若六郎で後の二世梅若実。

長女・津留子の婿養子に観世銕之丞家四世観世清済の次男源次郎を迎えたが、後に実に二人の実子(初世梅若万三郎・二世梅若実)が生まれたため、既に五十三世梅若六郎を襲名していた源次郎は観世家に戻った(後の矢来観世家)。

次女・濱子の婿が観世華雪

能の梅若六郎」 梅若六郎(52世、1828 - 1909)は、観世流シテ方の能楽師。初代梅若実。能楽堂を建設し、能を一般に有料で公開するなど能楽の復興に力を尽くした。宝生九郎(16世、1837 - 1917、宝生流で名人九郎と称された)、桜間伴馬(1835 - 1917、金春流シテ方)とならんで明治の三名人と謳われた。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「能の梅若六郎」より抜粋[2]

系譜[編集]

凡例 太線は実子、細二重線は養子
(矢来観世家)    (梅若万三郎家)                  初世梅若実            紅雪(5) (観世銕之丞家)
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清之====津留子 初世万三郎                      二世梅若実  濱子====華雪(6)  雅雪(7)                                                 紅雪(5)
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初世喜之     二世万三郎         初世猶義       五十四世六郎                   銕之丞静夫(8)
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二世喜之      三世万三郎 万佐晴  五世梅若吉之丞  五十五世六郎    寿夫   栄夫  銕之丞暁夫(9)====五世井上八千代
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三世喜之       紀長    久紀    二世猶義                                        観世惇夫 井上安寿子喜正

脚注[編集]

  1. ^ 関如来・編『当世名家蓄音機』文禄堂、1900年、225p頁。 
  2. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「能の梅若六郎」国立国会図書館蔵書、2018年2月11日閲覧

参考資料[編集]

関連項目[編集]