永禄の変

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永禄の変
戦争戦国時代
年月日永禄8年5月19日1565年6月17日
場所二条御所
結果:足利義輝の死亡 三好三人衆が足利義栄を次期将軍に擁立
交戦勢力
三好Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg 幕府Ashikaga mon.svg
指導者・指揮官
三好義継
三好長逸
三好宗渭
岩成友通
松永久通
足利義輝 
戦力
約10,000 数百
損害
不明 全滅

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)、松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。永禄の政変と呼称されることもある[注釈 1]

なお、松永久秀をこの事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加していたのは息子の久通であり、当日久秀は大和国にいて直接関与はしていない[4]

経過[編集]

足利義輝像紙形(土佐光吉筆、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

将軍側は三好・松永らを警戒し、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、将軍義輝は事件前日の永禄8年5月18日に難を避けようといったん御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。

翌5月19日、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、三好・松永らは清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように、この訴訟は偽りではなく本来の目的だったと見る説もある)。奉公衆の進士晴舎が訴状の取次に往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。

将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹[注釈 2]し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝も自ら薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという[注釈 4]

しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延(進士晴舎の息子)、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した[注釈 5]。公家山科言継の日記『言継卿記』の永禄八年五月十九日条は、奉公衆が大勢討死し、同日の午の刻の初め頃(昼前)には将軍も「生害」されたと伝えている[注釈 6]

また、義輝の正室近衛氏(近衛稙家の娘)は実家の近衛家へ送り届けられたが、義輝の生母慶寿院(近衛稙家の妹で12代将軍義晴正室)は自害した。フロイスの記述によれば、三好・松永らは義輝が寵愛していた側妾の小侍従局(進士晴舎の娘)殺害を要求の一つに掲げており、彼女は混乱に紛れて御所を脱出し身を隠したものの、探索の末に捕えられ四条河原で斬首された[注釈 7]

一方、三好氏に近かった幕臣の伊勢貞助は、義輝を助けずに御所内にあった室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を密かに御所外に搬出したという[7]。また、変の直後に奉公衆や奉行衆が三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政により回復したかに思えた幕府の脆弱さが露見する結果となった。

事件の背景[編集]

三好長慶の台頭[編集]

三好長慶像(絹本著色、笑嶺宗訢賛、聚光院蔵、重要文化財)

四国阿波守護代であった三好氏は、主家の阿波守護細川氏が細川宗家(京兆家)の後継争いに関わったことから畿内に進出していった。三好元長堺公方足利義維細川晴元を擁して時の将軍足利義晴管領細川高国と対峙したが、高国滅亡後に堺公方側から将軍側に奔った晴元は山科本願寺とも手を組み、享禄5年(1532年)に一向一揆に攻め込まれた元長は和泉国顕本寺において自刃した(享禄・天文の乱)。

元長の嫡男長慶は、父の死によってわずか10歳で家督を継いだため当初は細川晴元の下で雌伏しつつも、摂津国越水城に本拠を移して着実に勢力を伸ばし、やがて晴元と対決する。天文18年(1549年)、長慶が仇敵だった晴元の側近三好政長を摂津江口の戦いで討つと、晴元は将軍義輝と前将軍義晴を連れて近江国坂本へ没落し、岳父で近江守護の六角定頼を頼った。いったん入京した長慶はその後摂津に下って伊丹城の攻略に当たり、その間に義晴は東山中尾城の築城に着手したものの体調が衰え、翌19年(1550年)5月に坂本南方の穴太で死去した[注釈 8]。長慶は3月に伊丹城を攻め落として摂津の平定を終えていたが、その上洛の動きをつかんだ義輝は6月に中尾城に入り、細川晴元と六角定頼の軍も洛東に進出した。三好方は三好長逸十河一存の軍勢が上洛し膠着状態が続いたが、11月に長慶が大軍を率いて摂津から攻め上り中尾城を攻めると、義輝は近江堅田まで退却した。

天文20年(1551年)に将軍義輝と上野信孝ら側近の反三好姿勢を支持しない政所執事伊勢貞孝進士賢光ら幕臣数名は、義輝を連れ出して長慶との和睦を強行しようとするが、事が露見すると京都に逃れて三好方に降った。21年(1552年)に入って六角定頼が没すると、跡を継いだ六角義賢の仲介によって将軍方と三好方の和睦が成立する。近江朽木に移っていた義輝は京都に戻り、これを迎えた長慶は御伴衆に列せられ陪臣(細川氏の家臣)から将軍直臣の地位に上った。ところが、若狭に没落した細川晴元が勢いを盛り返し丹波を攻め上り洛東に至ると、はじめはこれに対抗した義輝であったが、翌22年(1553年)になって上野ら反三好派側近の主導によって晴元と結び、長慶に敵対する。しかし、摂津に在陣していた長慶が急ぎ上洛してくるとあえなく退却し、再び朽木に移ることとなった。親三好派や所領没収を恐れた多数の幕臣が帰京して幕府は崩壊した。以降、長慶は足利将軍家を奉じない権力として摂津芥川山城を拠点に畿内の支配を推し進めた。

将軍義輝の復権[編集]

だが、将軍と対立し幕府機構に頼らないまま京都の支配を維持することは困難であった。その上、義輝が朽木へ動座した後も断続的に六角氏畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。永禄元年(1558年)、長慶は六角義賢の支援する義輝や細川晴元の攻撃を受け、戦況は優位に推移していたものの、六角の仲介を容れて和睦した。義輝は5年ぶりに帰洛し、長慶は御相伴衆に列せられて有力大名としての待遇を受けることとなり、幕府は将軍・三好氏が協調する形で復活した。三好政長の子でこれまで敵対してきた三好宗渭も長慶に従った。

長慶はこの頃から政権を支える有力な一族を相次いで失う。永禄4年(1561年)に弟の十河一存が病死。翌5年(1562年)には阿波衆を率いる弟三好実休畠山高政との戦いで戦死(久米田の戦い)。6年(1563年)には嫡男義興も22歳の若さで病死した。さらに7年(1564年)には弟の安宅冬康に嫌疑をかけて自害させたが、長慶自身すでに衰弱しており同年7月に没した。三好氏の当主は、十河一存の子で長慶の養子となっていた義継が相続した。

三好氏の勢威に陰りが見える一方で、将軍義輝は全国の大名に紛争調停を行なったり幕府の役職を与えたりして将軍権威の回復を図った。永禄2年(1559年)には、美濃斎藤義龍尾張織田信長越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛した。また、永禄7年には敵対していた政所執事伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め将軍親政を進めようとした。

変前の三好氏と将軍[編集]

足利義輝木像

この事件の目的・動機を考えるにおいては、事件前の三好氏の将軍との関わり方がどのようなものだったかが問題となる。

天文年間の末から永禄初年に至るまで、将軍と三好氏は武力衝突を繰り返した。また、天文20年(1551年)3月には、奉公衆の進士賢光が伊勢貞孝邸で催された宴席で長慶に斬りかかり負傷させるなど、長慶が命を狙われる事件がたびたび起きている。『細川両家記』などによれば、本領安堵をめぐる賢光個人と長慶とのトラブルを原因とする説とともに、将軍の密命を受けた賢光が長慶暗殺を狙ったのではないかという世上の見方もあったことがわかる。また同年5月には、長慶の岳父で河内守護代遊佐長教が刺客に殺害される事件も起こり、当時これも将軍が黒幕と推測された[8]

しかし、永禄元年(1558年)末に双方は和解し、三好氏が将軍を支える協調体制が整えられ、変の起こる永禄8年(1565年)まで比較的平穏な時期が続いた。ただ、幕権強化を目指す将軍側はこの体制を従容として受け入れていたわけではなく、山田康弘は「雑々聞検書」から永禄2年(1559年)と思しき二月二十六日付の書状を引用し、当時三好氏や伊勢氏の間に不慮の雑説が流れていたことを紹介し、将軍側から三好氏・伊勢氏の分断工作や伊勢貞孝の孤立化を目指した工作が行なわれていた可能性も考えられると指摘する[9]織田信長の家臣太田牛一が記した『信長公記』も、将軍側が三好氏に対して謀反を企てたため殺害されたとする。

近年では、三好・松永側には明応の政変(1493年)以来70年に及ぶ将軍家の分裂(足利義稙系と足利義澄系)[注釈 9]を解消させる積極的な意図があったとする説[10]や、三好・松永による二条御所包囲は室町時代に繰り返されたいわゆる「御所巻」(大名らが将軍邸を包囲して政敵の失脚などを強要する行為)の一つに過ぎず、実際に訴訟(要求)を目的としていたところ、取次の際の齟齬あるいはその過大な要求と将軍側の強硬な姿勢から両者の衝突に発展してしまったもので、将軍殺害は当初の計画ではなかったとする説も出されている[注釈 10][11][12]。もっとも、両説共に矛盾を抱えているとする指摘[注釈 11]もあり、三好・松永側の真意が何処にあったのかは確定できない。

事件後の推移[編集]

義昭の幽閉・脱出と義栄の擁立[編集]

事件直後、三好三人衆松永久通らは義輝の異母弟で鹿苑院院主の周暠を殺害したが、一方で松永久秀大和国にあって義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶を幽閉するにとどめた。久秀は三好三人衆が阿波に在国する足利義維(義冬)・義親(義栄)を次期将軍として擁立することを見越し、これに対抗するため自前の将軍候補を温存しようとしたとも考えられる。2ヵ月後の7月28日に覚慶は義輝の近臣一色藤長細川藤孝らの手により脱出した。その後、覚慶は六角義賢の庇護を受けて近江国甲賀郡矢島(現在の滋賀県守山市)を拠点とし、翌永禄9年(1566年)2月に還俗して義秋と名乗った(後に義昭と改名)。義秋は尾張織田信長に支援を求めたが、実現しない間に六角義賢が三人衆側に通じたため、義秋は若狭国を経て越前国に下り朝倉義景を頼った。

一方、阿波三好家の実力者篠原長房はこの機に乗じ、足利義栄、阿波守護家の細川真之および三好長治(実休の子)を擁して四国勢を動員し、永禄9年6月に畿内に上陸した。義栄はかつての堺公方義維の息子で義輝には従弟にあたり、父子ともに天文初年以来長らく阿波に逼塞していたが、次期将軍の座を目指して摂津富田(現在の大阪府高槻市)に入り入京の機会を窺った。

三人衆・松永の抗争[編集]

三好三人衆は足利義栄を奉じる篠原長房と提携し、さらに若年の三好家当主義継を取り込み、三好家中の実権を握る松永久秀の排除を画策して、一乗院覚慶を逃した久秀の責任を追及した。久秀も三好義継が三人衆と対立するとこれを煽り、逆に三人衆討伐を計画するという具合だった。

この頃の久秀は大和国内の平定に力を注いでいた。同国では興福寺衆徒であった筒井順昭が戦国大名化していたが、順昭が急死してその子順慶が幼いのを幸いに、久秀は大和に侵攻し、筒井氏の所領と興福寺が中世を通じて保持してきた大和守護の地位を奪い取っていた。三人衆はこれに不満を抱く順慶と興福寺に久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだ。

かくして、永禄9年(1566年)12月21日に三人衆の軍が大和に侵攻を開始し、筒井氏と共に久秀の居城多聞山城(現在の奈良市法蓮町)を包囲した。だが、多聞山城は強固で松永軍の士気も高く、双方の睨み合いは続き、また畿内の各地で衝突を続けて膠着状態に陥った。

翌10年(1567年)2月、三人衆に拘禁されていた三好義継が脱出して久秀と和睦し、共闘するようになる。この動きに三人衆は大規模な攻勢をかけるべく、4月に大和へ出兵した。三人衆・筒井軍は東大寺大仏殿を拠点に多聞山城を攻撃した。双方とも周辺各所に火を付け、東大寺や興福寺の一部塔頭般若寺が炎上した。7月23日には東大寺戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣地を構えた。10月10日、久秀は大仏殿に拠る三人衆・筒井連合軍に総攻撃をかけたが、三好の陣からの出火によって大仏殿は火の手に包まれ、東大寺全域が戦場と化した[注釈 12]。やがて、三人衆・筒井連合軍は退却したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。

将軍後継争い[編集]

将軍が不在となる事態に朝廷は苦慮した。永禄9年(1566年)4月、朝廷は義昭を次期将軍候補が任ぜられる例である従五位下左馬頭に叙任した。義栄側も巻き返し、翌年初めには同じ従五位下左馬頭に任じられた。ここに二人の将軍候補が並び立つ事態となった。

義栄は篠原長房・三好三人衆の、義昭は朝倉氏の支援をそれぞれ受けており、両者のいずれかが上洛して将軍宣下を受けるのも近いと思われた。だが、篠原・三人衆は松永久秀らとの抗争が続き、朝倉氏は一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。在京する幕臣の中に事件に対する反発や義栄への非協力的な動きがあり(特に行政実務を担う奉行衆にこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)、義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もある。そのため篠原・三人衆側は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っていた[14]

そこで朝廷は双方に対して将軍就任の要件としてとりあえず銭一万疋(百貫)の献金を求めたが、先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋を半分に値切り、永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けたが、京都の情勢が不安定なため入京は先送りとなった。その間に、義昭のほうが尾張織田信長に頼って同年9月に上洛し、織田軍は篠原・三人衆の勢力を駆逐した。三好義継と松永久秀も義昭に従い、信長ともども義昭を奉じる体制が成立した。義栄は将軍宣下を受けながら、京都に足を踏み入れることのないまま阿波に逃れて程なく病死した(義栄の死去日ついては諸説あり、将軍職を解任されたのか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である)。朝廷は10月になって義昭を新将軍とした。

義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、関白近衛前久参議高倉永相大坂本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄と共に阿波に下った。これに対し、越前に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられた[注釈 13][注釈 14]

討死・自害した人物[編集]

※『言継卿記』などによる[17]

  • 畠山九郎
  • 結城主膳正
  • 朝日新三郎
  • 谷田民部丞
  • 高木右近
  • 小林左京亮
  • 小林某(小林の弟)
  • 小林某(小林の弟)
  • 小森左京進
  • 西面左馬允
  • 田村刑部大輔
  • 田村勘三郎
  • 飯田左吉(右兵衛尉)
  • 中井助左衛門尉
  • 西川新右衛門尉
  • 森田新左衛門尉
  • 八田十右衛門尉
  • 有馬源二郎
  • 木村小四郎
  • 松原小三郎
  • 粟津甚三郎
  • 松井新三郎
  • 疋田弥四郎(匹田弥四郎)
  • 二宮弥三郎
  • 林与五郎
  • 村田弥助
  • 畑某
  • 高橋某
  • 一河某
  • 摂津糸千代丸
  • 大館岩千代丸
  • 福阿弥(治部藤通の弟)
  • 台阿弥
  • 松阿弥
  • 竹阿弥
  • 竹阿弥
  • 金阿弥
  • 大弐(足軽衆)

『言継卿記』には一色又三郎は討死したとあるが、実際は義昭(義秋)の偏諱を受けて秋成と名乗り、その下で活動の記録が見られる[18]小笠原稙盛はこの戦いで死亡したとされるが、永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書には稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられたことが記されている。木下昌規は、稙盛が死を免れ、変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している[14]

小林正信は、討死したとされる進士藤延が生き延び明智光秀と名を変えたと推測し、光秀家中に見える進士貞連は実弟で代わりに進士氏の家督を相続したとしている。また、藤延の妹で義輝の側室だった小侍従は光秀の妻である妻木氏(妻木煕子)になり、小侍従の身籠っていた子供は明智光慶になったとしている[19]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この「永禄の変」の呼称が用いられた早い例としては、近世細川氏の成長過程でかつてともに室町幕府に仕えていた諸家が集まってくる事例として角田藤秀細川輝経の二人のケースを紹介した福原透の1998年の論文がある[1]。そのむすびの中で 永禄の変で討死した松井新次郎勝之(康之兄)と書いている。 また、高梨真行の2004年の論文は、永禄5年(1562年)3月に当時洛中を支配していた三好氏が畠山氏・根来寺衆徒連合軍に敗れて以来の諸政争を、伊勢氏が関係している古文書を中心に論じているが[2]、その最後(48ページ)でこの事件を 足利義輝の殺害(永禄の変)と記している。 天野忠幸は2012の著書で、近年、「永禄の政変」と称される事件である と述べる[3]。以降これらの呼称を用いる研究者も増えてはいるものの、なお一般化しているとまではいえない。
  2. ^ 進士晴舎は三好氏・松永氏との取次であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる[5]
  3. ^ 上泉信綱にも兵法を学んだとする説もあるが、義輝が信綱に兵法を学んだとする記述は史料上では確認できない。
  4. ^ この時の「足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、これを取り替えながら敵兵を斬り倒した」という義輝奮戦の記述は江戸後期の『日本外史』のもので、事件に近い時期の史料にはそのような記述はない。義輝は、創作を元にした俗説が広がり「剣豪将軍」と称されているが、実際に剣豪であったわけではなく、免許を皆伝したと言う史料も確認できない。
  5. ^ ただし、小笠原稙盛には生存説もある(後述)。
  6. ^ 将軍が「自害」したという記述は、少なくとも『言継卿記』には見られない。「生害」とは単純に「殺された」という意味で、他者に殺害された場合にも自害した場合にも用いられた。ただし、後の時代の信頼性の少々劣る記録になら、松永貞徳の『戴恩記』などの、御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようにはなる。
  7. ^ フロイスの『日本史』には、変の当時小侍従が懐妊していたとする説明があるが、彼女は変の起きる1か月前の4月17日に義輝の三女となる女子を出産しており(『言継卿記』)、正確な記述ではない[6]
  8. ^ 奉公衆の進士晴舎の書状によれば、この義晴の死は自害によるものであった(『集古文書』)。
  9. ^ 足利義澄の子である義維は、義稙の養子・後継者となって実兄の義晴に対抗していわゆる「堺政権」を立てた。義維と子の義栄が義稙系将軍家、義晴と子の義輝(および弟の義昭)が義澄系将軍家である。
  10. ^ 柴によれば、御所巻による政治的要求はかつての観応の擾乱における足利直義失脚、康暦の政変における細川頼之失脚、文正の政変における伊勢貞親失脚などでたびたび発生していて珍しいものではない。ただ、フロイスの記述によれば、三好方の岩成友通が進士晴舎に突き付けた要求には将軍の奥方(正室の近衛氏か)と進士晴舎の娘(小侍従)、「大身(の側近)」の殺害が含まれており、それが事実ならば義輝にとっては受け入れ難い内容を含むものであり、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。
  11. ^ 山田邦明・柴裕之に近い立場(御所巻における政治的要求の取次を進士晴舎が拒否して自害したことで「手切れ」とみなされたとする)を取る木下昌規は、最初から義輝を殺害する意図があるならば直ちに攻撃すれば良いのに政治的交渉を行おうとしたことの説明がつかない、一方で政治的な要求がフロイスの記述通りであれば処刑を要求した「妻妾」「大身(の側近)」には三好・松永側に対する交渉窓口である進士晴舎・小侍従父娘を含めていた可能性が高くて初めから交渉が成り立たない、という問題点を指摘している[13]
  12. ^ 東大寺は二月堂法華堂正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、120年以上も後の1680~1700年代(貞享元禄年間)のことであった。
  13. ^ これまで、公家社会では近衛家が足利義晴・義輝父子と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、九条家や二条家が足利義維・義栄父子を支援していた。このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、近衛前久は父稙家の病気の影響か、稙家の弟義俊の計らいで奈良を脱出した義昭と行動を共にせず義栄を擁する方向に転換し、またこれを受けて九条稙通や二条晴良は逆に義昭を支援するという、摂関家と将軍家の関係の変動が起こった。[15]
  14. ^ なお、九条家・二条家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺(法主である大谷家は元々は九条家の家司的存在であったとされる[16])は、義栄支持の立場を変えることなく、義昭に追放された近衛前久を受け入れ、従来二条家に依頼してきた法主の猶父も近衛家に切り替えている。義昭・信長と前久・本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、その後信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、いわゆる信長包囲網を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。

出典[編集]

  1. ^ 福原透「松井家研究余録 角田因幡守入道宗伊・細川陸奥守入道宗賢者の事績について」『熊本史学』74,75号、1998年。/所収:木下昌規編 『足利義輝』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  2. ^ 高梨真行「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向 ―東京国立博物館所蔵「古文書」所収三淵藤英書状を題材にして」『Museum』592号、2004年10月。/所収:木下昌規編 『足利義輝』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  3. ^ 天野 2012.
  4. ^ 天野 2014, p. 250.
  5. ^ 木下 2018, pp. 27・51-52.
  6. ^ 木下 2018, p. 37.
  7. ^ 木下聡「『後鑑』所載「伊勢貞助記」について」『戦国史研究』57号、2009年。/所収:木下昌規編 『足利義輝』 戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  8. ^ 「興福寺大般若経奥書」天文20年5月11日条。ただし、1年後の記述では河内の有力者だった萱振賢継の野心のための謀反と見られており、義輝の関与は推測されていない。
  9. ^ 山田 2000, 「第四章 戦国期の政所沙汰」.
  10. ^ 山田康弘「将軍義輝殺害事件に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。/所収:木下昌規編 『足利義輝』 戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  11. ^ 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。
  12. ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。/所収:木下昌規編 『足利義輝』 戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  13. ^ 木下 2018, pp. 50-53.
  14. ^ a b 木下昌規 「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 他編 『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年。 /所収:木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2
  15. ^ 水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」『織豊期研究』第12号、2010年。/所収:久野雅司編 『足利義昭』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2 
  16. ^ 辻川達雄『蓮如と七人の息子』誠文堂新光社、1996年。ISBN 978-4-416-89620-4
  17. ^ 『言継卿記』
  18. ^ 歴史評論, 第 639~644 号
  19. ^ 小林 2005.

参考文献[編集]

  • 山田康弘 『戦国期室町幕府と将軍』 吉川弘文館、2000年。ISBN 9784642027977 
  • 小林正信 『織田・徳川同盟と王権 ―明智光秀の乱をめぐって―』 岩田書院、2005年。ISBN 978-4872943702 
  • 天野忠幸編著 「総論 阿波三好氏の系譜と動向」 『阿波三好氏 論集戦国大名と国衆 10』 岩田書院、2012年。ISBN 978-4872947700 
  • 天野忠幸 『三好長慶』 ミネルヴァ書房、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5 
  • 木下昌規編 『足利義輝』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 

関連項目[編集]