永禄の変

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永禄の変
戦争戦国時代
年月日永禄8年5月19日1565年6月17日
場所二条御所
結果:足利義輝の死亡 三好三人衆が足利義栄を次期将軍に擁立
交戦勢力
三好Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg 幕府Ashikaga mon.svg
指導者・指揮官
三好義継
三好長逸
三好政康
岩成友通
松永久通
足利義輝 
戦力
約10,000 数百
損害
不明 全滅

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日1565年6月17日)、三好義継三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある[注釈 1]

事件の様相[編集]

足利義輝木像

義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるためにいったん御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。

いっぽう三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。なお、松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった当日は大和国にいて直接には関与していない[3]。しかし、主導しなかったとはいえ、久秀が将軍暗殺を黙認したことは事実である[4]

将軍方の応戦は激しく、一色輝喜上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹[注釈 2]し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝自身もまた、薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという[注釈 4]

しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延荒川晴宣荒川輝宗彦部晴直彦部輝信杉原晴盛小笠原稙盛沼田光長細川隆是武田輝信摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した[注釈 5]。事件の当日に在京していた山科言継の日記『言継卿記』の五月十九日の条では、戦いが行われ、奉公衆が大勢討ち死にし、同日の午の刻の初め頃(昼頃)には将軍も「生害」されたと伝えている[注釈 6]。その一方で、三好氏に近かった幕臣の伊勢貞助は義輝を助けずに御所内にあった室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を秘かに御所外に搬出したという[6]

また、義輝生母の慶寿院近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受ていた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害された[注釈 7]

事件に至る経緯[編集]

台頭する三好氏[編集]

三好長慶像

主家細川氏管領職争いのために畿内を転戦してきた阿波守護代出身の三好氏当主で細川晴元を管領に就けた最大の功労者である三好元長は一転、晴元から危険視され、享禄5年(1532年)6月には飯盛城の戦いで晴元と手を組んだ一向一揆に攻め込まれ、和泉顕本寺において自刃に追い込まれていた(享禄・天文の乱堺公方も消滅)。

元長の子の三好長慶は、足利将軍家や晴元と対立しながらも、着実に勢力を伸ばしていった。そして天文18年(1549年)、晴元の側近で同族の三好政長を討ち取った長慶を恐れた晴元は、13代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れた(江口の戦い)。この時から細川政権は崩壊、新たに三好政権が成立した。天文22年(1553年)には反撃を試みた義輝を近江朽木へ追いやり、三好氏は畿内の実力者として絶頂を極めた。

但し、戦国時代における京都の支配は、将軍と対立し幕府政治機構に頼らないまま維持することが困難であった。その上、義輝が近江朽木へ動座した以降も断続的に六角氏畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。そしてついに永禄元年(1558年)には義輝と近江守護六角義賢の攻撃を受けて和睦し、長慶は幕府相伴衆に列するに至った。

しかし、これにより三好氏は京都の掌握はおろか、義輝の臣下として幕府政治機構に組み込まれることになった。

将軍権威の回復[編集]

さらにこの頃から長慶の実弟十河一存三好実休、長慶の嫡男三好義興など有力な一族が相次いで死亡。さらに弟の安宅冬康を失う。(長慶の居城・飯盛山城に呼び出され自害。)そして永禄7年(1564年)には長慶自身も没する。

一方義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりするなど、幕府権威の回復を図った。また、永禄7年には敵対していた政所執事伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め幕府の将軍親政を進めようとした。

しかし、このことが義輝に対する三好氏の危機感を抱かせる要因となった。これにより、三好家中の実権を長慶の甥で後継者の三好義継に代わって牛耳っていた松永久秀ならびに三好三人衆は、実力による義輝の根本的排除、すなわち将軍殺害へと向かっていくこととなる。

背景[編集]

この事件、ひいては足利義輝の幕権強化を考えるに当たって問題となるのが、義輝と三好長慶・三好義興ら三好家当主との関係である。天文年間末から弘治年間を経て永禄初年(1558年)にかけて、将軍家と三好家は激しく武力衝突を繰り返していた。この期間には将軍家の元家臣の進士賢光が三好長慶を捨て身で切りつけるなどの事件も起きている(天文20年 1551年)。これについては『細川両家記』などの史料でも、進士賢光個人の本領安堵をめぐる三好長慶とのトラブルによるものだという説とともに、将軍の密命を受けた進士賢光による三好長慶の暗殺を狙った幕府側からのテロではないかという説が世間に流れたことが確認できる。

しかし、永禄初年の末(1558年)に、将軍家と三好家は和解し、両家の間には直接的な主従関係も結ばれ、以降は三好家が将軍家を支える両者の協調体制が急速に整えられていくことになる。この将軍家と三好家の協調体制は、途中、永禄4 - 5年(1561年 - 1562年)京都周辺の大名六角家・畠山家の京都及び河内飯盛山城下への侵攻や、幕府政所執事の伊勢貞孝の討ち死に、細川晴元、三好義興、三好長慶らの病没死を挟みつつも、永禄8年(1565年)まで、両家間の平穏な期間が続いた。

山田康弘は(2000年)『戦国期室町幕府と将軍』「第四章 戦国期の政所沙汰」において、この時期の義輝の三好氏への急接近と幕府体制内への取り込みについて、「雑々聞検書」から永禄2年(1559年)と思しき二月二十六日付の書状を引用し、当時三好・伊勢の間に不慮の雑説が流れていたことを紹介し、義輝側からの三好氏・伊勢氏の分断工作や、伊勢貞孝の孤立化を目指した工作が行なわれていた可能性も考えられると指摘する。

なお、21世紀に入ると、この平穏な期間にも、将軍家はたびたび三好家を狙ったテロを企てていたのではないかという説も登場している[8]。小林の説によれば、安芸の大名毛利家は義輝の意向に沿わなくなった途端に嫡男の毛利隆元が不審な死を遂げ、後に朝倉家に滞在する足利義昭らに対して、朝倉家中では、都の毒で主君の一族が毒殺されることを警戒したなどの記録から、宣教師とも良好な関係を持っていた永禄期の幕府は異国の毒物をひそかに入手し、これを三好家に用いたのではないかと推論される。この説では、特に三好長慶には、阿片新大陸コカの葉から抽出された新種の薬物等が投与された可能性まで示唆される。これらの毒物によって長慶は若くして廃人同然にされ、三好義興は毒殺され、幼い主を抱えた三好家は毛利隆元らの死も含めて、幕府に対立する重要人物の相次ぐ不審死に対して将軍家への反感と疑惑を強め、ついには将軍を武力で打倒することを決意したのではないかと推測される。ただし、この風変わりな説は状況証拠のみによって組み立てられており、現在のところ通説となるには至っていない。

いずれにしても永禄の変直前の三好義興・三好長慶らの相次ぐ死は、三好家・将軍家の権力基盤を揺動させるものだったとは考えられる。義輝の排除はもともと三好・松永の発案ですらなく、古くは阿波守護細川持隆が最初に策した事でもあり、実権と将軍専制に固執し、かつ政治的手腕に欠け[9]、幕府に混乱しか生まない義輝の存在を煙たく感じるものもいた。[要出典]

なお、近年の説として、三好・松永側には明応の政変(1493年)以来続く足利義稙系と足利義澄系による「足利将軍家の分裂」[注釈 8]を解消させる積極的な意図があったとする説[10]や、三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れた(いわゆる「御所巻」)ものの、取次の際の齟齬あるいはその過大な要求から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする説もある[注釈 9][11][12]。もっとも、両説共に矛盾を抱えているとする指摘[注釈 10]もあり、三好・松永側が真意が何処にあったのかは不明である。

事件後[編集]

義輝の死の直後、松永久秀らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害、義輝のもう1人の弟で大和興福寺一乗院門跡覚慶を幽閉した。だが、2ヵ月後の7月28日に覚慶は義輝の近臣一色藤長細川藤孝らの手により脱出した。翌年2月に覚慶は足利義秋(後に義昭と改名)と名乗って還俗。近江矢島(現在の滋賀県守山市)を経て越前守護朝倉義景を頼った。

一方、三好三人衆は義輝兄弟の従弟で、かつての堺公方の血統にあたる足利義親(後に義栄と改名)を淡路で擁立し、摂津富田(現在の大阪府高槻市)に入った。

義輝の執政により回復したかに思えた室町幕府の権限であったが、永禄の変の直後にはすでに奉公衆や奉行衆が主君の仇敵である三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政の脆弱さを露見する結果に終わっている。さらに、永禄の変について織田信長の重臣太田牛一は、「義輝の側が三好家に対して謀反を企てたため殺害された」という旨を信長公記に記している。

南都焼討[編集]

三好三人衆は義栄擁立を画策する一方で、長慶の死後に三好氏の家政を握った松永久秀と対立し、主君三好義継を擁して久秀の排除を画策した。

その頃、久秀は実力をもって大和守護を自称して大和の平定に動いていた。同国は元々興福寺に守護の権限があり、興福寺の衆徒であった筒井順昭が戦国大名化して大和を平定していたが、順昭が急死すると後継者である筒井順慶が幼い事を幸いに、永禄2年(1559年)に久秀は長慶の命令を受けて大和に侵攻し、筒井氏の所領と興福寺が持つ守護の地位を奪い取ったのである。三人衆はこれに不満を抱く順慶と興福寺に対して久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだのである。

折りしも、覚慶が興福寺を脱出して越前に逃れたことが発覚したため、三人衆が守護である久秀の責任を追及し、一方の久秀も三好氏当主である義継が三人衆と対立するとこれを煽り、逆に三人衆討伐を計画するようになった。

かくして、12月21日に三人衆の軍が大和に侵攻を開始し、筒井順慶と共に久秀の居城のある多聞山城(現在の奈良市法蓮町)を包囲した。しかし、多聞山城は強固で松永軍の士気も高かったために2年にわたる睨み合いを続け、あるいは畿内の各地で衝突を続け、次第に小康状態に陥った。

ところが、この戦い中に三人衆は義継を拘禁していたが、永禄10年(1567年)2月、義継は三人衆の下を脱出、久秀と和睦し、三人衆に対し共闘するようになる。この動きに三人衆は大規模な攻勢をかけるべく、4月に大和へ出兵した。松永軍は多聞山城に再度入り、三人衆・筒井軍は興福寺大乗院の裏山である大乗院山などに陣を構えた。やがて、山を降りて東大寺大仏殿に本陣を移し、ここを拠点に多聞山城を攻撃した。双方とも相手を攻撃するために周辺各所に火を付けた為、東大寺や興福寺の一部塔頭般若寺が次々に炎上した。7月23日には東大寺の戒壇である戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣地を構えた。これによって奈良時代以来の大寺院である東大寺の中に敵対する両者が陣地を築いて睨み合うという異常事態となったのである。

そして、永禄10年10月10日(1567年11月10日)、ついに久秀は大仏殿にいる三人衆・筒井連合軍に総攻撃をかけたのである。子の刻に大仏殿は三好方の陣からの出火により火の手に包まれ、東大寺の全域が戦場と化した。やがて、三人衆軍・筒井連合軍は退却したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。しかし、永禄11年(1568年)9月に足利義昭を擁立した織田信長が上洛し、永禄の変とその後の混乱は収束した。

東大寺は二月堂法華堂正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、120年以上も後の1680~1700年代(貞享元禄年間)のことであった。

後継将軍問題[編集]

この変で義輝は殺され、室町幕府の棟梁である征夷大将軍が不在になってしまった。先に6代将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱では、管領細川持之らが評定を開いて直ちに後継将軍が定められたが、応仁の乱以降管領の力は急激に弱まり永禄の変以前の永禄6年(1563年)に管領細川氏綱が死去すると、次期管領は任命されなかった。また、当時は将軍・管領の不在は珍しくはなく、その状況下でも奉行衆ら在京の幕臣によって最低限の幕府機能は維持されていたが、今回の場合は事件への対応を巡って在京の幕臣の分裂も招いて幕府機能は事実上停止するに至った。更に、京都を支配する三好・松永両氏と京都近郊の有力守護である朝倉氏が別々の後継将軍候補を擁している状況にあった。

この事態に朝廷は苦慮した。永禄9年(1566年)4月、朝廷は吉田兼右の推挙で義昭を従五位下左馬頭に任命した。馬寮官職清和源氏ゆかりのもので次期将軍候補とされた人物が歴任する事も多かった。これに焦った義栄も巻き返しを図り、翌年初めには同じ従五位下左馬頭に任じられた。ここに将軍候補が並び立ったのである。

義栄は三好氏の、義昭は朝倉氏の支援をそれぞれ受けており、将軍宣下のための上洛は近いと思われた。だが、三好氏は三人衆と久秀の内紛が続き、朝倉氏は一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。また、三好氏の場合は在京の幕臣の中に義輝殺害に対する反発や義栄への非協力的な動き(特に行政実務を担当していた奉行衆でこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)があり、三好氏に擁された義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もあり、実際に三好氏は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っている[14]

そこで朝廷は2人の将軍候補に対して取り敢えず一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。これに対して先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋の献金を半分にまけて貰った上に永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けた。だが、京都の情勢は不安定で義栄の入京は先送りとなった。ところが、義昭は尾張の織田信長に頼って同年9月に上洛、織田軍は三人衆の勢力を駆逐、久秀と義継は信長に降伏、富田の義栄は阿波に逃れるものの間もなく病死した。朝廷は10月になって義昭を新将軍とした(義栄の死去日ついては諸説あり、前将軍の義栄は解任されたか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である)。

義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、関白近衛前久参議高倉永相石山本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄と共に阿波に下った。これに対して、義昭のために越前国に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられている。これまで、公家社会では近衛家(いわゆる近衛流摂関家)が足利義晴及びその子である義輝と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、これに対して摂関の地位を巡って競合関係にあった九条家や二条家(いわゆる九条流摂関家)が足利義維・義栄父子を支援して更に石山本願寺とも深くつながっていた[注釈 11]。このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、永禄の変において近衛前久では父・稙家の病気の影響か、稙家の弟である義俊の計らいで奈良を脱出した義昭を擁して近江や越前に下ることをせず、三好三人衆と和睦して義栄を擁する方向に路線転換し、両者の接近を警戒する九条稙通や二条晴良が反対に義昭を支援したため、公家社会の力のバランスに変動を起こした(なお、九条流摂関家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺は立場を変えなかったため、義昭に追放された前久を受け入れるとともにこれまで二条家に依頼してきた法主の猶父を近衛家に切り替えている)[16]

義昭・信長と前久・石山本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、兵乱の過程において、信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、反信長同盟(いわゆる信長包囲網)を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。

討死・自害した人物[編集]

※『言継卿記』などによる[17]

『言継卿記』では一色又三郎は討ち死にしたとあるが、実際は義昭(義秋)の偏諱を受けて秋成と名乗り、その下で活動の記録が見られる[18]。また、小笠原稙盛はこの戦いで死亡したとされるが、永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書には稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられたことが記されている。木下昌規は稙盛が永禄の変で死を免れ、変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測されている[14]。さらに、前半生が不明瞭な明智光秀をこの戦いで死亡した進士藤延に比定する説がある。小林正信は永禄の変を生き延びた進士藤延は明智へと改姓し、光秀の家臣進士貞連は実弟で代わりに家督を相続したとしている。永禄の変で死んだ藤延の妹の小侍従は明智光秀の妻である妻木氏(妻木煕子)になり、小侍従の身籠っていた子供も明智光慶になったとしている[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 高梨真行は永禄5年(1562年)3月当時、洛中を支配していた三好氏が、畠山氏・根来寺衆徒の連合軍に敗北して以来の諸政争を、伊勢氏が関係している古文書を中心にして論じた[1]。その論文中の最後(48ページ)で、永禄8年5月19日に起きた三好三人衆による足利義輝殺害事件を 足利義輝の殺害(永禄の変)と記述する。当記事においてもこの呼称に従う。また天野忠幸は、この事件を 近年、「永禄の政変」と称される事件である と述べる[2]
  2. ^ 進士晴舎は三好氏・松永氏との取次であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる[5]
  3. ^ 上泉信綱にも兵法を学んだとする説もあるが、義輝が信綱に兵法を学んだとする記述は史料上では確認できない。
  4. ^ この時の「足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、これを取り替えながら敵兵を斬り倒した」という義輝の奮戦の記述は江戸時代後期の『日本外史』からなるもので、永禄の変から最も近い時期に記された史料にはそのような記述は存在していない。現代で言う剣豪将軍という呼称は、創作を元とした俗説の流布によるものである。実際に義輝が剣豪であったわけではなく、免許を皆伝したと言う史料も確認できない。
  5. ^ ただし、小笠原稙盛には生存説もある(後述)。
  6. ^ 少なくとも『言継卿記』の同日の前後を読む限りでは将軍が「自害」したという記述は、この書には見られないようである。「生害」とは単純に「殺された」という意味。他者に殺害された場合にも自害した場合にも用いられる。ただし後の時代の信頼性の少々劣る記録になら、松永貞徳の『戴恩記』などの、御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようにはなる。
  7. ^ フロイスの『日本史』には、永禄の変の当時小侍従が懐妊していたとする説明があるが、彼女は変の起きる1か月前の4月17日に義輝の三女となる女子を出産している(『言継卿記』)ため、事実関係としては正確ではない[7]
  8. ^ 足利義維は義澄の子であるが義稙の養子としてその後継者となって実父と対立関係になり、後に実兄の足利義晴に対抗していわゆる「堺政権」を立てている。義維の子である義栄は義稙系足利将軍家、義晴の子である義輝(及び弟の義昭)は義澄系足利将軍家に属すると言える。
  9. ^ 柴によれば、御所巻による政治的要求はかつての観応の擾乱における足利直義失脚、康暦の政変における細川頼之失脚、文正の政変における伊勢貞親失脚などでたびたび発生していて珍しいものではない。ただ、フロイスの記述によれば、三好方の岩成友通が進士晴舎に突き付けた要求には将軍の奥方(正室の近衛氏か)と進士晴舎の娘(小侍従)、「大身(の側近)」の殺害が含まれており、それが事実ならば義輝にとっては受け入れ難い内容を含むものであったために、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。
  10. ^ 山田邦和・柴裕之に近い立場(御所巻における政治的要求の取次を進士晴舎が拒否して自害したことで「手切れ」とみなされた、とする)を取る木下昌規は、最初から義輝を殺害する意図があるならば直ちに攻撃すれば良いのに政治的交渉を行おうとしたことの説明がつかない、一方で政治的な要求がフロイスの記述通りであれば処刑を要求した「妻妾」「大身(の側近)」には三好・松永側に対する交渉窓口である進士晴舎・小侍従父娘を含めていた可能性が高くて初めから交渉が成り立たない、という問題点を指摘している[13]
  11. ^ 本願寺法主である大谷家は元々は九条家の家司的存在であったとされる[15]

出典[編集]

  1. ^ 高梨真行「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向 ―東京国立博物館所蔵「古文書」所収三淵藤英書状を題材にして」、『Museum』592号、2004年10月。
  2. ^ 天野 2012.
  3. ^ 天野 2014, p. 250.
  4. ^ 天野 2014, pp. 250-251.
  5. ^ 木下昌規「総論 足利義輝政権の研究」木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) P27・51-52.
  6. ^ 木下聡「『後鑑』所載「伊勢貞助記」について」(初出:『戦国史研究』57号(2009年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) 
  7. ^ 木下昌規「総論 足利義輝政権の研究」木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) P37.
  8. ^ a b 小林 2005.
  9. ^ BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』(2016年02月29日放送回)内による小和田哲男の弁より。
  10. ^ 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」、『戦国史研究』43号、2002年。
  11. ^ 山田邦明 『戦国の活力』 小学館、2008年、127頁。
  12. ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」、『戦国史研究』72号、2016年。
  13. ^ 木下昌規「総論 足利義輝政権の研究」木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) P50-53.
  14. ^ a b 木下昌規、「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 他編 『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年。 /所収:木下昌規 『戦国期足利将軍家の権力構造』 岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2
  15. ^ 辻川達雄 『蓮如と七人の息子』 誠文堂新光社、1996年。ISBN 978-4-416-89620-4
  16. ^ 水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」、『織豊期研究』第12号、2010年。/所収:久野雅司編 『足利義昭』 戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第二巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2 
  17. ^ 『言継卿記』
  18. ^ 歴史評論, 第 639~644 号

参考文献[編集]

  • 天野忠幸編著、「総論 阿波三好氏の系譜と動向」 『阿波三好氏 論集戦国大名と国衆 10』 岩田書院、2012年。ISBN 978-4872947700 
  • 天野忠幸 『三好長慶』 ミネルヴァ書房、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5 
  • 山田康弘 『戦国期室町幕府と将軍』 吉川弘文館、2000年。ISBN 9784642027977
  • 小林正信 『織田・徳川同盟と王権 ―明智光秀の乱をめぐって―』 岩田書院、2005年。ISBN 978-4872943702 

関連項目[編集]