コンテンツにスキップ

福原元房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
福原 元房
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年(1586年[1]
死没 寛文13年7月11日1673年8月22日[1][2]
別名 通称:三五郎[1][2]
戒名 洞室紹仙[2]
官位 内匠正(内匠頭)[2]相模守[2]
主君 毛利輝元秀就綱広
萩藩(長州藩)
氏族 大江姓福原氏
父母 父:福原広俊[2]
母:無覚清安口羽春良の娘)[2]
兄弟 元俊[2]元房、女(吉川家澄室)[2]元久[2]、女(和智元通室)[3]、女(熊谷元貞室)、左助[3]嵐空伝瑞[3]元則[3]
南の方養女(内藤元盛の娘)
長女(雲野兵左衛門室)[4]、次女[4]就仍[4]就延[4]
テンプレートを表示

福原 元房(ふくばら もとふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将毛利氏の家臣で長州藩士。

生涯

[編集]

天正14年(1586年)、毛利氏の重臣・福原広俊の次男として生まれる[1]。母は口羽春良の娘である無覚清安[3]

若年の頃から毛利輝元の側近として仕えて300石の知行を与えられ、2度に渡って江戸留守居役を務めるなどで勤功を重ね、壮年期には500石を与えられた[1][5]。また、輝元から「元」の偏諱を受けて元房と名乗った。

寛永元年(1624年)頃から組頭役に任じられ、大坂城の普請にも携わった[1]。また、隠居までに寺社奉行を2度に渡って合計13年務めた[1]

寛永2年(1625年)の家臣の知行再編により、長門国厚狭郡鴨庄[注釈 1]の内の900石と大津郡日置村[注釈 2]の内に100石の合計1000石の知行を与えられ、同年8月13日益田元祥清水景治宍道元兼から御配所付立を受け取った[6]。鴨庄を与えられた元房は、同地の浄土宗寺院の不動寺に母の無覚清安大姉を祀り、寺号を「清安寺」と改めて庇護した[7]。また、明林寺蓮光寺奉書には宍戸元真宍戸景好ともに元房の名が残っている。

寛永3年(1626年)、鴨庄の配置高が900石から786石に減少し、それに合わせて減少分を日置村で増石されて、石高は1000石を維持する[5]。同年12月に清安寺の長老に寺領として田畑10石を寄進した[5]

寛文2年(1662年8月27日、嫡男の福原就仍が死去し、その子の福原直政が後を継いだ[1]

寛文13年(1673年7月11日に死去[1][3]。享年88[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 現在の山口県山陽小野田市鴨庄
  2. 現在の山口県長門市日置上、日置中、日置下。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『閥閲録』巻29「福原貞右衛門」家譜。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 108.
  3. 1 2 3 4 5 6 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 109.
  4. 1 2 3 4 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 215.
  5. 1 2 3 山陽町史 1984, p. 324.
  6. 『閥閲録』巻29「福原貞右衛門」第1号、寛永2年(1625年)8月13日付け、福原内匠正(元房)殿宛て、益田玄蕃頭(元祥)・清水信濃守(景治)・宍道主殿助(元兼)連署状。
  7. 山陽町史 1984, pp. 938–939.

参考文献

[編集]
  • 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山陽町史編纂委員会 編『山陽町史』山陽町教育委員会、1984年3月。全国書誌番号:85000190 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻29「福原貞右衛門」