宍戸景好
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 元亀3年[1](1572年) |
| 死没 |
元和8年9月9日[1](1622年10月13日) または寛永10年7月19日[2](1633年8月23日) |
| 別名 | 通称:弥三郎[2]→善左衛門尉 |
| 戒名 |
芳春院殿古剣宗快[2] 青谷院古剣宗快居士[1] |
| 墓所 | 景好寺(山口県山口市下小鯖1526) |
| 官位 | 掃部頭[2]、但馬守[2](官途名) |
| 主君 | 毛利輝元→秀就 |
| 藩 | 長州藩 |
| 氏族 | 宍戸氏 |
| 父母 | 父:宍戸元秀[3]、母:不詳[2] |
| 兄弟 |
元続[4]、明室妙鏡(三沢為虎室)[4]、内藤元盛[4]、粟屋孝春[2]、元真[2]、景好、元可[2]、 古満姫(小早川秀秋室、後に准尊室)[2] |
| 妻 | 村上景親の娘[5] |
| 子 | 景昭[1]、景治[1]、元頼、良春、元勝[要出典]、女(乃美就貞室)[6] |
宍戸 景好(ししど かげよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏の家臣で長州藩士。安芸国宍戸氏の一族。当時の文書では名字の「宍戸」は「完戸」と表記される。
生涯
[編集]元亀3年(1572年)、安芸国の戦国大名・毛利氏の一門である宍戸元秀の五男として生まれる[1][3]。庶子であったという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、村上武吉・村上元吉らとともに伊予侵攻軍の主力として加藤嘉明の所領に攻め入るも、留守居役佃十成の奇襲(三津浜夜襲)によって敗北した。関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は防長36万石に移封され、景好もそれに従った。
慶長10年(1605年)の萩城築城に関わる毛利家中の騒動(五郎太石事件)では、宍道政慶・柳沢景祐とともに熊谷元直、益田元祥の仲裁にあたった。同年12月14日に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、18番目に「完戸善左衛門尉」と署名している[7]。
元和元年(1615年)に周防国吉敷郡小鯖村[注釈 1]に所領を与えられて、別家を建てた[8]。
その後、長男の宍戸景昭に家督を譲って、所領である周防国吉敷郡小鯖村に隠居し、元和8年(1622年)9月9日[1]、または、寛永10年(1633年)7月19日に同地にて死去した[2]。
子孫
[編集]長男の元真は寛永14年(1637年)頃に毛利氏の萩藩を辞して、井伊氏の近江国彦根藩士となった。
元真の子の知真は、俳人として蕉門十哲の一人と呼ばれた彦根藩士3百石取りの森川許六の娘を娶り、子の百親は許六の養子となった。(元真 - 知真 - 森川百親)。森川許六は俳人として名高いだけではなく、漢詩や絵画も熟し、武士としては剣術・馬術(悪馬新当流)・槍術の上手であった。こと槍については宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人であった。宝永7年(1710年)に許六の隠居により森川家の家督を継いだ百親もまた、養父の技を受け継いで宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人となり、『宝蔵院流十文字目録並目録外』を記して後世に伝えている。
異説
[編集]伊予河野氏の一族・河野通軌と同一人物ともされる[9][注釈 2]が、「三丘宍戸家系」、「宍戸系譜」、「防長諸家系譜」には景好との関連については記されていない。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション - 坂倉道義『小鯖村史』小鯖村史刊行会、1967年3月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 景浦勉 編『松山藩政史の研究』関奉仕財団、1994年10月。
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