舟橋

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舟橋(または船橋、ふなばし)は、河川の中に並べたの上に板を敷いて造る仮設

構造[編集]

起の舟橋の場合は、舳先を川上に向けて川幅いっぱいに船が並び、錨で川底に留められる。船の上には横板が渡され、さらに板のずれや上下・左右の揺れを抑えるため、鉄鎖・藤綱なども渡される。船同士は藁綱によって固定され、岸や川中の大杭に留められる。両岸には番小屋を作り、通行当日には護衛が欄干のように橋上に立ち並んだ。

各地の舟橋[編集]

神通川の舟橋[編集]

富山県富山市神通川に架かる「神通川の舟橋」は常設の舟橋であり、慶長年間(1596年 - 1615年)に架橋された。かつて日本一の舟橋として他地域に知られていたのは神通川の舟橋である。最長で430mあった川幅の両岸に柱を立てて鎖を渡し、64艘の船をつないで船の上に板を渡した。大水の時には舟橋を撤去し、水が引くと再び架橋した。木製の常設橋が1882年(明治15年)に建設されて舟橋は役目を終えたが、この地点には明治時代の馳越工事で松川となった現在もほぼ同じ場所に同名の橋が架かり、舟橋という地名も残っている。また、旧舟橋の両岸(今の舟橋の南岸および北に200mほど離れた場所)には橋のしるべを示す常夜燈1799年建)が現在も残っている。

起(おこし)の舟橋[編集]

江戸時代、現在の木曽三川にあたる河川の渡河は渡し船が一般的だったが、征夷大将軍朝鮮通信使が渡る際のみ、美濃国尾張国の境にある佐渡川(揖斐川)・墨俣川(長良川)・小熊川(境川)・起川(木曽川)の4河川が舟橋で架橋された。木曽川に架かる「起の舟橋」は日本最長の舟橋であり、長さは4753(約860メートル)、幅は9尺(約3メートル)だった。大船44艘と小船230艘が使用され、舟の上に敷く板は3036枚にも上った。一般の大名の通行は禁じられていた。起の舟橋は現在の行政区域では愛知県一宮市岐阜県羽島市を結んでおり、一宮市尾西歴史民俗資料館には起の舟橋の模型が展示されている。

朝鮮通信使の旅程[編集]

朝鮮通信使は瀬戸内海を経て大坂に上陸し、草津宿東海道を分かれて中山道に入り、琵琶湖東岸の朝鮮人街道を通って再び中山道に合流。垂井宿(現岐阜県)から美濃路を通って名古屋城下に入った。起の舟橋の他にも、朝鮮通信使は美濃国尾張国の境にある佐渡川・墨俣川・小熊川を渡る際にも舟橋を使用し、徳川幕府は天竜川富士川酒匂川、馬込川(相模川)などにも舟橋を架けさせている。架橋の際の船は周辺の村々から徴発された。朝鮮通信使が残した使行録には舟橋の様子が克明に記されており、周辺の村々からは舟橋を渡る使節を見るために群衆が集まった。

「見物の男女が路傍をうずめ、船に乗って望見する者にいたっては川の上下をおおい、高貴な家の女は轎(かご)に乗り、道をはさむ者がどれだけいるか判らない。」姜弘重『東槎録』1624年 『図説朝鮮通信使の旅』筧真理子による訳の引用

木曽川に隣接した美濃路の起宿(現・一宮市)にはいくつもの渡船場があった。起付近は戦後まで架橋されず、1956年(昭和31)まで「駒塚の渡し」が運行されていたが、同年に濃尾大橋が架けられて渡し船が廃止された。濃尾大橋から4キロメートルほど下流の一宮市西中野では、現在でも愛知・岐阜両県営の「中野の渡し」が運航されている。

濃尾平野の舟橋[編集]

  • 佐渡川(揖斐川) - 川幅200メートル超。西側を大垣藩が、東側を徳川幕府が分担し、80-104艘で架橋。
  • 墨俣川(長良川) - 川幅300メートル弱。西側を尾張藩が、東側を加納藩が分担し、105-116艘で架橋。
  • 小熊川(境川) - 川幅約40メートル。旗本の竹中家と大島家が12-28艘で架橋。
  • 起川(木曽川) - 川幅800メートル超。起藩が274-281艘で架橋。いわゆる「起の舟橋」。

北上川の舟橋[編集]

九頭竜川の舟橋[編集]

参考文献[編集]