清水宗治
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落合芳幾画 | |
| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 天文6年(1537年) |
| 死没 | 天正10年6月4日[1](1582年6月23日) |
| 改名 | 才太郎(幼名)→宗治 |
| 別名 | 長左衛門[1] |
| 戒名 | 清鏡宗心[1] |
| 墓所 |
首塚:備中高松城跡(岡山県岡山市北区高松) 墓:清鏡寺(山口県光市) |
| 主君 | 石川久武→毛利輝元 |
| 氏族 | 備中清水氏 |
| 父母 | 父:清水宗則[1] |
| 兄弟 | 宗知(月清入道)[1]、宗治、難波宗忠(伝兵衛)[1] |
| 妻 | 石川久孝娘[1] |
| 子 | 宗之[1]、景治[1]、難波宗定、女子(中島元行室)、女子(駒木根清右衛門室)[1] |
清水 宗治(しみず むねはる)は、戦国時代の武将。備中高松城主。三村氏、毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。
生涯[編集]
天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。
備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。
また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。
いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国路の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
天正10年(1582年)4月、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)。秀吉は降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出したが、宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した[2]。
そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれたが、輝元自らが吉川元春・小早川隆景とともに救援に赴いたため、戦線は膠着状態となった。この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。
結局、宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後の6月4日に兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠(伝兵衛)、援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した。享年46[1]。辞世は「浮世をば 今こそ渡れ
主題とする作品[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060。NCID BN07835639。OCLC 703821998。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 光成準治「高松城水攻め前夜の攻防と城郭・港」『倉敷の歴史』18号、2008年。