コンテンツにスキップ

清泰院 (毛利輝元側室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清泰院(せいたいいん、天正元年(1573年[1] - 慶長9年閏8月1日[1]1604年9月24日) )は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。初めは杉元宣の妻となり、後に毛利輝元側室となった。長州藩初代藩主の毛利秀就徳山藩初代藩主の毛利就隆吉川広正の正室となった竹姫の生母[1]

実名は周姫(かねひめ)と伝えられ[2]広島城二の丸に住んだことから、二の丸殿と呼ばれる[1]法名は初め「清泰院殿栄誉周慶大姉」、後に院号を快楽院(けらくいん)に改められた[3]

父は児玉元良[4]、母は波根泰次の娘[5]。兄に児玉元兼飯田元親児玉景唯、弟に児玉元次、妹に益田景祥室がいる[5]

生涯

[編集]

誕生

[編集]

天正元年(1573年)、毛利氏の家臣・児玉元良の長女として誕生した[1]

杉元宣との婚姻

[編集]

天正12年(1584年)に周防国都濃郡野上の領主である杉元相の嫡男・杉元宣と婚姻した。周防国長門国において口伝され流布されてきた伝承を集めた『古老物語』によると、幼少の頃から美しかった周姫(後の二の丸殿)が父・児玉元良の屋敷の門前で遊んでいたところを見かけた毛利輝元は、その後周姫目当てで元良の屋敷を度々訪問するようになったため、そうした輝元の行動を快く思わなかった元良の意向によって、杉元宣との婚姻が成立したとされる[6]

天正13年(1585年1月26日、夫・元宣の父である杉元相が死去し、元宣が家督と所領を相続した[7]。また、同年11月19日には父の児玉元良が死去している。

略奪事件

[編集]

天正14年(1586年)に夫の杉元宣が小早川隆景に従って筑前国に出陣し、以降数年に渡って筑前国に滞在するうちに、周姫のことを諦めきれなかった輝元は、家臣の佐世元嘉杉山元澄就澄父子らに命じて周姫を奪い、自身の側室とした[8]

輝元の所業を知って激怒した杉元宣は、周姫を奪還するべく、天正17年(1589年3月1日に筑前国を出立し帰国の途についた[9]。元宣の出立を知った小早川隆景は、血気に逸る元宣が帰国すれば如何なる珍事を起こすか知れないことから、元宣を不憫に思いながらも御家の大事のため、村上景親井上景政らに追跡を命じ、元宣に追いつけば説得して連れ戻し、どうしても説得に応じない場合は討ち果たすよう命じた[9]。結局元宣は説得に応じなかったため、同年3月6日夜に粭島沖にある「大島の船隠し」と呼ばれる入り江で殺害された[10]。『古老物語』に収録された伝承よると、元宣殺害の事実は伏せられ、公には「風で船が沈んで溺死した」とされたという[6]

その後、小早川隆景は輝元の行動を厳しくたしなめた上で二の丸(周姫)を輝元の側室とは認めようとしなかったため、輝元は隆景の意見を受け入れて一度二の丸を実家の児玉家に帰した[11]。輝元が従弟の吉川広家に宛てた書状には「今年の春に思いもよらないことがあり、隆景が色々と私を折檻した。隆景の異見が尤もだと思ったので、隆景の異見に従い、二の丸からは手を引いた。あながち私の身に覚えのない事ではなかったが、成り行きが悪く、強硬手段をとっていたため、隆景の異見に従った結果、私の世間からの評判は悪くなった。今は二の丸を親類のもとへ帰している」と記している[12]。さらに、人妻である二の丸を奪ったことについても「円満に迎えようとしたのに、二の丸の夫である杉元宣、または、二の丸自身が抵抗したため騒ぎになった。隆景の異見に従ったことで自身の権威が低下してしまった」と恨み言を漏らしている[11]

実家の児玉家に帰されていた周姫がその後どのような経過を辿って輝元の側室となったかは不明だが、広島城二の丸に住み[3]、「二の丸殿」と呼ばれて輝元の寵愛を受けた[注釈 1]

秀就誕生

[編集]

その後、文禄4年10月18日1595年11月19日)に長男の松寿丸(後の毛利秀就)を出産した[1]

通説では、秀就を広島城で生んだとされる[1]が、正室である南の大方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国厚狭郡小野村[注釈 2]財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある(詳細は毛利秀就を参照)[13]

山口移住

[編集]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れると、嫡男・秀就を証人(人質)として江戸へ送ることとなり、慶長6年(1601年)10月に国司元蔵らを供として秀就は伏見から江戸へ赴いた[14]。以降、秀就は慶長16年(1611年)までの10年間を江戸で過ごすこととなった[14]

同じく慶長5年(1600年)に長女の竹姫を出産し[1]、慶長7年(1602年9月3日山城国紀伊郡伏見村藤森里で次男の百助(後の毛利就隆)を出産した[15]

慶長8年(1603年4月16日、毛利輝元が徳川秀忠を見舞うために伏見を出発して東海道を下り、5月7日に初めて江戸に到着して秀忠に拝謁した[16]。また、嫡男秀就にも久しぶりに対面してその成長を喜び、帰路は中山道を通って6月9日に帰京した[16]

同年8月中旬に輝元の女房同伴での帰国や居城の築城を許可されたため、輝元は9月に二の丸殿と次男の就隆を伏見から陸路で先発させた[17]。同年9月21日には輝元も伏見を出発して大坂木津の毛利氏屋敷に立ち寄った後、海路を通って、10月4日に周防国吉敷郡の蟹淵に上陸し、山口の覚王寺に入った[17]。翌10月5日に二の丸殿の一行も山口に到着した[17]

最期と没後

[編集]

慶長9年(1604年)閏8月1日、山口において病死[1][3]。享年32[1]。山口古熊の西方寺に葬られた[1][3]。初めの法名は「清泰院殿栄誉周慶大姉」だった[3][15]が、二の丸殿の七回忌にあたる慶長15年(1610年)に法号を「清泰院」から「快楽院」に改めている[3]

慶長10年(1605年)、長門国に新たに二の丸殿の菩提寺を建立し、その法名から「金沙山周慶寺」と称したが、寛文4年(1664年12月25日に萩の周慶寺は秀就正室となった喜佐姫の菩提寺となって寺号を「龍昌院」と改め、二の丸殿が葬られた山口の西方寺を「周慶寺」と改称して二の丸殿の位牌を萩の龍昌院(旧・周慶寺)から移した[3][18]

また、寛永3年(1626年)には次男の就隆が周防国都濃郡下松西豊井に所在した西福寺を「周慶寺」と改称して、亡き母の菩提寺とした[3]

明治時代になると山口の周慶寺が「善生寺」と改称され、大正7年(1918年11月7日瑠璃光寺(香山公園)にある毛利家菩提所(香山墓所)に墓が移された[3]

姫山伝説

[編集]

山口には「姫山伝説」なるものが伝えられる。伝説の内容にはバリエーション[19]が多いものの、概ね次のようなものであり、二の丸殿との関連が推測される話となっている[13][20][21]

  • 山口の城下町には大変美しい長者の娘がいたが、それを見初めた殿様が側に置こうとした。婚約者のいる娘はそれを拒むが、断りに行った長者(父)は帰って来なかった。怒りの収まらない殿様は、頑なに拒む娘を捕らえて姫山の古井戸に吊すと、蛇を投げ込んで娘を苦しめる。娘が死ぬ間際に「美しく生まれたために私は不幸になった。後世の女の人が同じように苦しみまないよう、この山から見渡す土地には美人を生まれさせない」と呪ったため、山口には美女が生まれなくなった。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元の正室である南の大方の嫉妬によるものとされる[13]
  2. 現在の山口県宇部市小野

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 9.
  2. 向谷喜久江 1984, p. 58.
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 萩市史 第1巻 1983, p. 128.
  4. 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 146.
  5. 1 2 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 147.
  6. 1 2 古老物語 1976, p. 24.
  7. 徳山市史 上 1984, pp. 253–254.
  8. 田村悌夫 2012, p. 8.
  9. 1 2 田村悌夫 2012, p. 10.
  10. 田村悌夫 2012, p. 11.
  11. 1 2 近光成準治 2016, p. 358.
  12. 光成準治 2016, pp. 357–358.
  13. 1 2 3 山口県宇部市にある財満屋敷跡の説明板「二の丸様の顕彰碑」(二の丸様顕彰会)
  14. 1 2 萩市史 第1巻 1983, p. 11.
  15. 1 2 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 25.
  16. 1 2 萩市史 第1巻 1983, p. 13.
  17. 1 2 3 萩市史 第1巻 1983, p. 14.
  18. 萩市史 第1巻 1983, p. 346.
  19. 姫山伝説 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  20. 姫山伝説を描く - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  21. 山口)「山口に美人は生まれぬ」姫山伝説とは? - 朝日新聞デジタル(2014年9月9日)

参考文献

[編集]