コンテンツにスキップ

川上多助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川上 多助
人物情報
生誕 (1884-08-21) 1884年8月21日
日本の旗 日本茨城県
死没 1959年7月4日(1959-07-04)(74歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 歴史学(日本史)
研究機関 三卿伝編纂所東京商科大学東京女子大学
テンプレートを表示

川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日1959年7月4日)は、日本の歴史学者

経歴

[編集]

1884年、茨城県東茨城郡磯浜村(現在の大洗町)に生まれた。1904年第一高等学校を卒業[1]し、東京帝国大学文科大学史学科に入学[2]黒板勝美や当時講師であった三浦周行らの指導を受ける。1907年に卒業[3]し、黒板勝美の紹介で、経済雑誌社の嘱託として『続国史大系』と『続群書類従』の校訂・校正に携わる[4]。また、大学院に進学し「荘園ノ研究」を研究課題とした[5]

1912年から1915年3月まで名古屋市史編纂員を務め、1917年12月には、毛利家が毛利元就吉川元春小早川隆景伝記を編纂するために設置した三卿伝編纂所に入所し、史料調査にあたる[6]1920年東京商科大学予科教授になり[7]、同年4月30日付けで三卿伝編纂所は退職するが、その後も嘱託として、小早川隆景卿伝の執筆担当を続け、1924年に脱稿した[6]。またこの間、1931年9月30日から1936年4月10日まで愛知県史編纂主任を務める[8]1940年に東京商科大学教授を兼任[9]となり、1945年退官。1950年より東京女子大学教授。1955年に東京女子大学を定年退職した。

研究内容・業績

[編集]
  • 日本古代の社会経済史を専門とした[10]。三浦周行が『法制史の研究』をまとめる際に校正等を担った[4][11]

参考文献

[編集]
  • 川上多助「一学究の思出」『思想』第6巻第372号、岩波書店、1955年、99-107頁、ISSN 0386-2755 

著書

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第6305号、明治36年7月7日、p.158.
  2. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治37年至明治38年』東京帝国大学、1904年12月15日、(61)頁。NDLJP:813183/328 
  3. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治40年至明治41年』東京帝国大学、1907年12月23日、(224)頁。NDLJP:813183/328 
  4. ^ a b 川上多助 1955
  5. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治41年至明治42年』東京帝国大学、1908年12月24日、(22)頁。NDLJP:813184/239 
  6. ^ a b 広田暢久「毛利家編纂事業史 : 其の二」『山口県文書館研究紀要』第6巻、山口県文書館、1979年3月20日、1-20頁、NDLJP:10337502 
  7. ^ 『職員録追録 大正9年10月号』東京商科大学、1920年10月29日、129頁。NDLJP:986615/71 なお、「凡例」には、本書は大正8年5月2日以降同9年6月末日に至るまでの分を掲載する、とある。
  8. ^ 『愛知県史』 4巻、愛知県、1940年1月31日、11頁。NDLJP:1230079/663 
  9. ^ 『東京商科大学一覧 昭和15年度』東京商科大学、1940年10月31日、183頁。NDLJP:1451156/97 
  10. ^ 安丸良夫; 佐々木潤之介; 中村政則「日本史」『一橋大学学問史:一橋大学創立百年記念』一橋大学、1986年3月1日、1019-1033頁。doi:10.15057/da.5896 
  11. ^ 三浦周行『法制史の研究』岩波書店、1919年2月15日、4頁。NDLJP:960521/5