鞆城

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鞆城
広島県
港から望んだ鞆城跡(現・鞆の浦歴史民俗資料館)
港から望んだ鞆城跡(現・鞆の浦歴史民俗資料館)
城郭構造 平山城
天守構造 不明(3層3階との伝承あり)
築城主 毛利元就
築城年 天文年間
主な改修者 毛利輝元、福島正則
主な城主 毛利氏、足利義昭、福島氏
廃城年 元和元年(1615年
遺構 石垣
指定文化財 福山市指定史跡
再建造物 なし

鞆城(ともじょう)は、備後国(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。

概略[編集]

は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。

鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏[1]が市街中心部の丘陵に築いた「鞆要害」である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には鞆要害に京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」とされた。このため鞆には足利氏の歴代の近臣である伊勢氏・上野氏・大館氏他多数の名門武家が集ったといわれる。

安土桃山時代になると福島正則が鞆要害の整備を始め、「鞆城」と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、あまりに巨大な城郭のため徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後は鞆奉行所が置かれた。

歴史[編集]

鞆城築城以前には鞆市街に城はなく、南北朝時代には鞆の津(現在の鞆港)に隣接する島に築かれた大可島城がその前身といえる役割を果たしていた。康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦では、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は北朝方の攻撃により全滅したという。また観応の擾乱では貞和5年(1349年)に足利直義派の足利直冬が中国探題としてこの城に滞在したが、幕府の討伐軍に攻められ九州に敗走した。

戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に海賊(村上水軍)の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され本拠は大可島城に置かれた。このため亮康は後に「鞆殿」と呼ばれた。

元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。なお、義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという。

天正6年(1578年)になると毛利氏は信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には山中幸盛の首級が鞆に運ばれ義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582年)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると城郭「鞆城」として大きく整備されることになった。この様子は慶長12年(1607年)に当地を訪問した朝鮮通信使の使節一行の日記に「「山上」に新しく石城を築き、将来防禦(防御)する砦のようだが未完成である」との記述があり[2]、当時まだ建設途上であった様子がうかがえる。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。 築城は慶長14年(1609年)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった[3]。地元では元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって取り壊されたと伝わっている。

天守などは破却[4]されたが、後述のようにある程度残されていたといわれている。元和5年(1619年)に正則が広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度によって改易され、備後国の福島氏の支配は終焉を迎えた。

鞆城の跡地には西日本の長門毛利氏や筑前黒田氏などの外様大名に対する西国の鎮衛として徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後福山10万石の領主として移封され、鞆城三の丸跡には鞆奉行所が置かれた。鞆奉行所には勝成の長男勝重(勝俊)(後の2代藩主)が居住し「鞆殿」と呼ばれた。また勝俊が藩主に就任以後は重臣が鞆奉行として配された。なお、江戸期の歴史書「水野記」の記述[5]によれば、宝永8年(1711年)に大手門と矢倉屋敷が焼失したとあり、江戸時代の中ごろまでは元の鞆城の建築物が存置されていたようである。

また、一国一城令後に備後国で残されたのは鞆から北東約20kmに位置する神辺城であり、水野勝成も「神辺城主」 として移封されたが、西国の鎮衛の拠点として、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が認められ、元和6年(1620年)に福山城を築城[6]し廃城になった。

現状[編集]

鞆城跡の航空写真。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成中央の丘陵部が本丸跡。

鞆城の跡地は、大部分が鞆の住宅地となっている。本丸跡には戦前までは料亭、戦後は鞆中学校が建設され、その後移転したが現在は鞆の浦歴史民俗資料館になっている。福山市は鞆中学校移転後発掘調査を実施しており、その時に出土した石垣を再利用して資料館と駐車場の間に石垣を再築しているが、かならずしも遺構に則したものではない。本丸跡には資料館のほか、鞆に縁のある宮城道雄の像や、毛利氏にゆかりのある早毛利稲荷神社の社が鎮座している。

また、資料館の建物の南西側に本丸の石垣の一部が保存展示されており、石には丸印などの刻印が残されている。また搦手門の跡や、二の丸の石垣が寺などの石垣に転用されている様子が見受けられる。

脚注[編集]

  1. ^ かつては小早川隆景または村上水軍が築いたといわれていたが、渡辺氏(渡辺房)が築いたことが記された文書が発見された。渡辺三郎左右衛門家譜録「広島県史 古代中世資料編5」
  2. ^ 朝日新聞備後面 2008年10月11日紙面及び鞆城跡の説明板より
  3. ^ 慶長14年7月29日付福島正則書状「薩藩旧記雑録
  4. ^ 同じ福島氏の支城の三原城に移築されたともいわれている
  5. ^ 福山史編纂委員会「福山史 中篇」昭和43年(昭和53年再版) 10頁
  6. ^ 元の神辺城の櫓が二の丸に神辺四番櫓、神辺三番櫓、神辺二番櫓、神辺一番櫓として移築されたほか、石垣も崩され福山城の石材として使われた

参考文献[編集]

  • 福山史編纂委員会編「福山史 中篇」 1968年(1978年再版)

外部リンク[編集]