月岡野の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
月岡野の戦い
戦争安土桃山時代
年月日天正6年10月(1578年10月)
場所越中国上栄周辺
結果斎藤利治の勝利、河田長親の敗北
交戦勢力
Oda emblem.svg 織田軍 上杉氏竹に雀 上杉軍
指導者・指揮官
斎藤利治[1]
援軍姉小路頼綱
斎藤信利斎藤信吉

河田長親
椎名小四郎(長尾景直)
損害
不明 首級360討取らる
捕捉兵三千人以上

月岡野の戦い(つきおかののたたかい)は、天正6年(1578年)10月4日に越中国月岡野(現、富山市上栄周辺)において織田軍の斎藤利治らと上杉家臣の河田長親らが戦い、織田軍が勝利した戦い。

戦いの背景[編集]

1578年3月、上杉謙信が急死し、その後継者争い「御館の乱」が勃発すると、織田信長はこれを好機と捉え、4月には上杉氏勢力下にある越中国を攻略すべく、越中出身で越中守護代家の由緒をもつ神保長住佐々長穐らの兵をつけて飛騨口から侵攻させた。

当時北陸侵攻に当たっていた柴田勝家加賀一向一揆に手間取っており、能登も上杉方が保持していた。そこで、飛騨国口から越中を攻略することによってこれら前線の上杉軍と越後との連絡を絶ち、分断撃破する戦略があったと思われる。神保長住は神保旧臣や国人衆を味方につけて砺波郡増山城を攻略するなど一定の成果を挙げたが、越中国内は依然として上杉氏優勢であった。

9月、織田信忠付の重臣斎藤利治率いる美濃・尾張の兵が援軍として越中戦線に送られた。

戦いの経過[編集]

斎藤利治率いる織田軍は姉小路氏三木氏)の支援を受けて、飛騨国より越中南部に進出した。[2]

先ず津毛城を攻略すると神保長住勢に守備を任せ、さらに北進して今泉城を攻めた。しかし同城の守りは堅く、夜半になり撤退を開始した。撤退する織田軍に対し、河田長親、椎名小四郎率いる上杉軍は城を打って出て織田軍を追撃した。

斎藤利治は地形の複雑な月岡野まで上杉軍を引きつけ、同地で一挙に逆襲に転じ、首級360を討ち取り、三千人以上捕捉し勝利を得た。[3]

後から姉小路頼綱が飛騨から長棟越えで越中に入り合流した[4]。 その後今泉城も攻略し、富山城を奪還し越中国に織田方の橋頭堡を築いた。

信長や信忠は利治に感状を与え、加増を行って戦功を称えた[5][6]

戦いの結果[編集]

この戦いの結果、日和見であった越中国人らが続々と織田氏に帰順し、越中国内の勢力図は塗り替えられ、上杉氏が劣勢となった。信長はこの戦果を拡大すべく、信忠付の毛利長秀坂井越中守森長可佐藤秀方らをさらに援軍として送ったが[7]、北国越中の厳冬への危惧と、上方で荒木村重の謀反が起こったため撤退を命じた。信忠軍による越中平定は頓挫し、上杉氏に立ち直らせる時間を与えることになった。しかし上杉氏の攻勢の勢いは落ちることとなった。

一方で、第三次信長包囲網が上杉軍敗退により崩壊した。能登国と加賀国が本国越後国と分断され劣勢となり、上杉は前線を後退させた。

織田氏による越中平定は、柴田勝家率いる北陸方面軍へ引き継がれた。

戦後の影響[編集]

  • 織田氏は上杉氏に勝利したことで、天下面目を保つことができ、織田軍の強さが日本全国に知れ渡ることにも繫がった。信長はこの勝利を宣伝するために、全国の大名に書状を送った。

参考文献[編集]

  • 『富山国際大学地域学部紀要』
  • 近藤瓶城編『改定史籍集覧』
  • 『信長公記』

脚注・出典[編集]

  1. ^ 親衛隊加治田衆筆頭・美濃衆尾張衆軍団
  2. ^ 前戦である地蔵堂東坂口の合戦
  3. ^ 森田柿園越中志徴「月岡野に大なる首塚あり。土人は之(これ)を庚申塚(こうしんづか)、行人塚など呼ぶと云(い)へり」
  4. ^ 堀田裕史「津毛城・桃井直常・黒牧彦など -富山国際大学周辺と歴史と伝説から-About Tsuge Castle, Momonoi Tadatsune, Kuromakihiko and so on ― Some Topics on the History and Legends around Toyama University of International Studies」(『富山国際大学地域学部紀要』第8巻、2008年3月)
  5. ^ 『富加町上巻 史料編』722P「軍記物に斎藤新五が信長・信忠の御供との内容がある。」
  6. ^ 「注進の趣読んだ。去る四日敵の河田豊前や椎名小四郎らが組んで出て来たのを、一戦に及んで切崩し、三千余人を討捕ったとの事、誠にりっぱな働きで比類なき戦功である。感心の至りで、天下の評判である。いよいよこれからも戦功を励むことが大切である。 天正六年十月十一日 斎藤新五殿 信長印」
  7. ^ 「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。富加町史編集委員会 1980, p.231-232

外部リンク[編集]