穴山勝千代

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穴山勝千代 / 武田信治
Anayama Katsuchiyo.jpg
絹本著色穴山勝千代画像(山梨県指定文化財、南巨摩郡南部町・最恩寺所蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 元亀3年(1572年
死没 天正15年6月7日1587年7月12日
別名 信治(諱)?
戒名 松源院殿勝岳守公大禅定門
墓所 山梨県南巨摩郡南部町福士(旧同郡富沢町)の最恩寺
主君 徳川家康
氏族 穴山氏甲斐武田氏
父母 父:穴山信君、母:武田信玄娘・見性院
養父:武田信勝
兄弟 勝千代海野信親
養兄弟:下山殿(徳川家康側室)
養子:武田信吉

穴山 勝千代/武田 信治(あなやま かつちよ/たけだ のぶはる)は、安土桃山時代武士武田信玄の外孫にあたる。「勝千代」は幼名で名は「信治」とされるが、確実な史料からは確認できない。穴山氏甲斐武田氏当主。

出自[編集]

穴山氏は甲斐国南部の河内領を治める国人領主で、駿河国今川氏に属し武田氏と争っていたが、勝千代の祖父・信友期には武田氏に服属する。祖父・信友や父・穴山信君は武田家御一門衆となる。信友から勝千代までの3代にかけて河内領における発給文書が集中しており、この時期に領国支配が整備されている。また、永禄11年(1568年)には武田氏の駿河侵攻に伴い、信君が本領の河内領のほか駿河の江尻領を領し、対峙する織田徳川勢力との前線にあった。

略歴[編集]

元亀3年(1572年)、穴山信君の嫡男として下山館身延町下山)で誕生。最恩寺所蔵の勝千代画像には円蔵院(南部町南部)住職による賛文があり、幼少時から幅広い教養を身につけ、信君の後継として育てられたという。

武徳編年集成』によれば天正8年(1580年)に父の出家に際して家督を譲られて穴山家の当主となっており、天正7年(1579年)2月と12月に信治名義で3点の朱印状が出されているが[1]、幼少のため実権は梅雪が握っていたと考えられている。翌天正9年には武田勝頼の娘との婚約が破棄されているが、『甲陽軍鑑』によればこれが信君離反の一因になったという。ただ、信君は離反に際して、武田氏の名跡を残すことを条件としており、武田氏の当主を信治(勝千代)とすることで、織田信長徳川家康の了承を得ていた。

天正10年(1582年)、信君は三河国の徳川家康と通じ、同年3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して武田氏から離反し、戦後に本領を安堵されるが、同年6月の本能寺の変に際して上方で横死した。勝千代は正式に穴山家の当主となる。梅雪と別行動を取って九死に一生を得た徳川家康は三河に戻ると、河内領と勝千代の保護のために岡部正綱を派遣して、穴山氏は徳川氏の従属下に置かれることになる。その後、武田遺領をめぐり徳川氏と相模国後北条氏が争った天正壬午の乱において河内領は徳川氏によって抑えられており、穴山家臣も徳川方として武田遺臣の懐柔に務めている。

同年8月に勝千代は家康から河内領と江尻領のほか駿河山西や河東須津(ともに静岡県富士宮市)を安堵される。江尻城番には本多重次松平家忠天野康景らが、河内領は菅沼定政が守備しており、政務は徳川家臣団により行われていたと考えられている。勝千代期の文書は23通(有年号19、無年号4)あるが、信君期の支配を確認する継目安堵文書が大半で、信君期の安定的支配の継続を望んだ家康の意向が指摘されている。

天正15年(1587年)には疱瘡により死去、享年16。嗣子が無かったため、穴山家は断絶した。家康はその後、自らの5男である信吉に武田(穴山)家の名跡を継がせた。墓所の最恩寺には信治の肖像画(絹本着色穴山勝千代画像、県指定文化財)も所蔵されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 信君文書とみなされている。

出典[編集]

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  1. ^ 天正7年12月9日田口次郎右衛門尉宛勝千代朱印状[注釈 1]

出典[編集]

  • 黒田基樹「穴山氏の河内領支配」『山梨県史』第八章第五節」
  • 佐藤八郎「富沢町福士最恩寺所蔵穴山勝千代画像始末記」『甲斐路創立三十周年記念論文集』
  • 須藤茂樹「甲斐武田氏の滅亡と穴山氏-穴山勝千代孝」『甲斐路創立五十周年特集号』
  • 柴裕之「徳川領国下の穴山武田氏」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年
先代:
穴山信君
甲斐穴山氏
第8代:1580年 - 1587年
次代:
断絶