矢部家定

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矢部家定
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 広佳、光佳、康信、通称:善七郎
主君 織田信長豊臣秀吉
氏族 矢部氏
雲林院祐基[1]
養子:定政本郷泰茂次男)

矢部 家定(やべ いえさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。

生涯[編集]

信長側近として[編集]

出身は尾張国とも伊勢国とも言われる。織田信長に仕え、長谷川秀一と共に若年より諸事に用いられた[2]

初見は元亀元年(1570年)、姉川の戦いに勝利した信長が若狭国に進出した同年11月に若狭国人本郷泰茂の織田家への降伏を家定が仲介したところに始まる[3]

初期の頃は信長側近として主に京洛で政務にあたっていた。元亀3年(1572年)10月7日、妙心寺寺領の安堵を奉行の島田秀満村井貞勝室町幕府御供衆上野秀政に報告[4]天正2年(1574年)4月9日、信長の松尾大社への書状に副状を発給する[5]などの働きが見える。

また、早くもこの頃から側近として地方の家臣に対する命令権を持ち得ていたようで、天正3年(1575年)10月28日には尾張津島の宿老らに蓮台寺から年貢を徴収しないように命じている[6]。政務の他にも天正元年(1573年)11月23日の妙心寺茶会などの行事に堀秀政らと共に信長に近侍して出席したりなどしている[7]

織田家奉行衆の一員[編集]

年を経るにつれて家定は従来の京での信長の秘書のような仕事に加えて、京を離れての各種奉行仕事も多くなり、多忙な日々を送ることになる。

天正5年(1577年)10月5日、信長を裏切った松永久秀の人質を成敗する奉行を福富秀勝と共に務める[8]。天正6年(1578年)元旦には礼に安土城に集まった諸将に信長より三献の盃が下されたが、家定は大津長昌らと共に晩酌の役をした[9]。同年6月には播磨国神吉城攻めの検使[9]、同年10月に謀反の兆しを見せる摂津国有岡城荒木村重の説得を福富秀勝・佐久間信盛・堀秀政と共に行い[10]、更に同年11月には有岡城の戦いの検使を務めた[11]

天正7年(1579年)5月27日の安土宗論では浄厳院警固役の一人[9]。翌5月28日には信長が安土宗論の後始末を村井貞勝に命じた黒印状に副状を発給した[12]。同年12月13日、蜂屋頼隆らが奉行を務める荒木村重一族焼殺の検使役[9]。天正8年(1580年)3月1日には有岡城の城番として摂津に派遣されたが、同月13日には安土へと戻っており上洛した後北条氏の使いに土産代を遣わせている[9]。同年8月1日、使者として摂津に派遣され顕如らに石山本願寺退去を急ぐように命令し[13]、同月2日には顕如らが退去した石山本願寺受け取りの検使を務めた[9]。そして同月20日には大和国に派遣され、滝川一益と共に城郭破却の任にあたっている[14]

天正10年(1582年)1月5日に行われた「左義長」では家定と菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の四人が小姓衆・馬廻衆を率いて凱旋した[9]。同年2月より行われた甲州征伐には信長に近侍して3月中に出馬。家定と菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・福富秀勝の五人が馬廻を率いて4月に甲斐国入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘は無かった[9]。その為、家定の仕事は3月14日に信忠の使者により届けられた武田勝頼の首級を信長の元に持参した事と、同月20日に森成利と共に降服した小笠原信嶺の知行安堵を行う[9]などの仕事のみであった。

甲斐から帰国後の同年5月、信長は四国攻めを宣言し、織田信孝を大将とする四国討伐軍が編成された。これに伴って家定は淡路国平定を信長に命じられたと『武家事紀』は記しているが、淡路は天正9年(1580年)に既に羽柴秀吉らの手によって平定されており[9]、家定の与えられた「淡路での任務」は以前担当したことのある城郭破却などの政務の事であると思われる。

信長死後[編集]

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変明智光秀によって信長が討たれた時、家定の所在は明らかではない。しかしながら淡路行きの準備をしていた為か、京からは離れた場所に居たようで本能寺や二条御所には入らず、難を逃れた。のち中国大返しで畿内に驚異的な速度で戻った羽柴秀吉の軍に合流し、6月13日の山崎の戦いに参加[15]

以後は秀吉に従って天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参戦。生駒親正山内一豊らと共に尾張は柏井[16]の砦を守備している[17]。天正15年(1587年)の九州征伐にも参加した[18]

死亡時期についての謎[編集]

これから後、家定の名前は良質の史料では全く確認が取れなくなり、天正18年(1590年)の小田原征伐の時点では既に交名に名前がなく、小田原以前に没していた可能性がある。他に『太閤記』では小田原後も生きていたものの、秀吉政権下で冷遇され、竹を切り、釘を売って生きていたが、惨めさに耐えかねて切腹して果てたという。ただ、前述のように一切の記録が途切れており、そうした事実は確かめられない。

また、久波奈名所図会の上巻によれば慶長16年5月1日1611年6月11日)に京都の大徳寺内で切腹して果てたという記述も残るが、他の史料で裏付けが取れない上にあまりにも空白期間が長く、そのまま信用する事は出来ない。

その後の矢部氏[編集]

家定に実子は無く、かつて降伏を仲介した若狭の国人、本郷泰茂の二男を養子として迎え、子は定政を名乗り名籍を継いだ。定政は1万石を領する大名となっていたが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に味方し、戦後改易された。

脚注[編集]

  1. ^ 『勢州軍記』
  2. ^ 『武家事紀』。従って織田家中でも初出の時点から比較的若い層の家臣であったと思われる。
  3. ^ 『福井県史』など
  4. ^ 『妙心寺文書』
  5. ^ 『東文書』
  6. ^ 『張州雑志』
  7. ^ 『宗及自會記』
  8. ^ 『兼見卿記』
  9. ^ a b c d e f g h i j 信長公記
  10. ^ 『隆佐記』
  11. ^ 『森田博之氏文書』
  12. ^ 『知恩院文書』
  13. ^ 『信長文書』
  14. ^ 『松雲公採集遺編類纂』
  15. ^ 『松雲公採集遺編類纂』
  16. ^ 現在の愛知県春日井市柏井町。
  17. ^ 『浅野家文書』
  18. ^ 当代記

出典[編集]

  • 『戦国人名事典』 新人物往来社
  • 『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館