劇画

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劇画(げきが)は、漫画の表現技法、もしくは漫画のジャンルの一つである。

概要[編集]

「劇画」という名称は辰巳ヨシヒロの考案によるものであり、劇画工房の誕生以降の劇画ブームによってに世間一般に名称が定着した。

劇画とは、それまでの漫画から一線を画した漫画表現の手法であり、子供向けの漫画と分類されるために作られた青年向け漫画のジャンルでもある。従来の漫画はあくまで子供向けであり、自分たちの作品がそのような評価を受けることを辰巳らは極端に嫌っていた。貸本劇画の読者層は労働者階級の若者であり、また劇画工房のメンバーも同じような階層の若者であった。作風としてはハリウッド映画ハードボイルド小説の影響が大きい。

劇画の歴史[編集]

劇画の誕生[編集]

劇画という名称は1957年末に名古屋の貸本出版社「セントラル文庫」から出版された漫画短編集『街 12号』に掲載された辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」で初めてその扉ページに使用されたとされる。以降、辰巳は新しい漫画のジャンルとして「劇画」という名称を積極的に使い始める。

そのころ、大阪の「日の丸文庫」で貸本漫画を描いていた漫画家らは原稿料の不払いに悩んでいた。そこで漫画家同士で団結して出版社との交渉に当たる目的で石川フミヤスK・元美津桜井昌一山森ススム佐藤まさあき岩井しげお鈴木洸史らの7人で漫画制作集団「関西漫画家同人」が結成された。

1959年1月5日、辰巳ヨシヒロと「関西漫画家同人」所属のうち石川、元美津、桜井、山森、佐藤の5人が大阪の辰巳の実家で会合を持った(連絡が取れなかった岩井、鈴木は不参加)。その際、山森の「自分たちにも『劇画』という名称を使わせてほしい」との要望を受け、辰巳が個人的に使用していた「劇画」を日の丸文庫の漫画家仲間の間で共用することになった[1]

劇画工房[編集]

1959年辰巳ヨシヒロが中心となり「関西漫画家同人」の所属の石川フミヤスK・元美津桜井昌一山森ススム佐藤まさあき、そしてさいとう・たかをら7人で劇画制作集団「劇画工房」が結成されるた。さいとう・たかをは当初「説画」という名称にこだわっていたが、辰巳の説得に折れて参加することになった。結成時の話し合いに同席していた松本正彦もまた、自らの付けた名称「駒画」にこだわり参加を渋っていたが、4月になってようやくに加入、後に8人体制となる。

活動に先んじて「劇画工房ご案内」という7名の連名による挨拶状(はがき)150枚が、新聞社、出版社や漫画家に向けて送付された。劇画宣言と呼ばれる。この宣言文の宣伝効果は絶大で、漫画業界に「劇画」という言葉が定着する。手塚治虫の元にも届けられ、手塚は後に自伝「ぼくはマンガ家」でこの挨拶状を取り上げている。

この新しいジャンル「劇画」は貸本漫画読者の間でたちまち人気となり、『影』(日の丸文庫)、『街』(セントラル文庫)、『摩天楼』(兎月書房)等、劇画短編集が多数出版され貸本漫画の黄金期が始まる。 ところが、1959年8月「劇画工房」メンバーは東京の辰巳ヨシヒロ宅に急遽招集され、そこで辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、松本正彦の3人が「劇画工房」からの脱退を表明、後に解散となる。

劇画ブーム[編集]

1965年、当時のトップ漫画家であった手塚治虫がいわゆる「W3事件」で「週刊少年マガジン」の連載を降板するという事件が起こった。編集長の内田勝は手塚の抜けた穴を埋めるべく、貸本劇画で活躍していた劇画家に執筆を依頼。これらの劇画は読者の高い支持を得て、以降、マガジンは劇画路線を推進していくことになる。

劇画の人気を見てとった他の出版社からも次々と劇画雑誌が創刊される。1966年創刊の「コミックマガジン」(芳文社)を皮切りに、1967年創刊の「週刊漫画アクション」(双葉社)と「ヤングコミック」(少年画報社)、1968年創刊の「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)などが挙げられる。 それらの雑誌には、貸本から商業雑誌に移行後もヒットを飛ばした、さいとう・たかをや佐藤まさあき、彼らのスタッフだった川崎のぼるや、池上遼一南波健二小池一夫、劇画調に作風を変化させた永島慎二白土三平つげ義春、新世代の梶原一騎宮谷一彦バロン吉元池上遼一上村一夫らが執筆し人気を博した。

労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。 貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。よど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。

ブームの終焉[編集]

だが、1972年あさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、革命をテーマに若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。 劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。 ヤングコミックの編集者であった岡崎英生によると劇画雑誌の衰退は、三流劇画誌(エロ劇画誌)の流行や、1979年6月に創刊された「週刊ヤングジャンプ」(小学館)や1980年7月に創刊の「週刊ヤングマガジン」(講談社)といった新しい青年漫画雑誌の影響が大きいとしている[2]ニューウェーブ漫画を含む、劇画の手法を取り入れた新しい漫画の登場で、従来型の劇画は淘汰されていった。

劇画の現在[編集]

劇画ブーム後も生き残ったベテランや、その後デビューした劇画家によって今も作品は描かれているが、「ジャンルとしての劇画」は低迷している。 1995年には辰巳ヨシヒロが自伝漫画である『劇画漂流』を発表。自らの経歴を振り返ると共に、ブーム以降に誤解された劇画のイメージを回復させるべく活動した。

劇画の表現技術[編集]

劇画の技術的な手法としては、カメラワークを使ったコマ割りが挙げられる。俯瞰煽りで三人称視点を取り入れたダイナミックな視点からの描写(それまでの漫画の視点はほぼ正面固定だった)、人物のアップによる内面心理描写(それまでの漫画の世界では人物のアップは手抜きと見なされていた)などがある。また、太字で強調された擬音や、効果線集中線を使った演出、同じシーンを連続的にコマに描くことによって時間経過を圧縮する演出なども劇画工房の開発によるものである。

劇画工房はハリウッド映画を参考にこれらを漫画技法として開発したのであり、このような革新的な表現が許されたのは、彼らが主に執筆していた日の丸文庫の「表紙以外は自由に描かせる」という放任主義の成果、日の丸文庫の専務で漫画編集をしていた山田喜一が映画に対して理解が深かったおかげとされる。

これらの技法はすぐに模倣されて漫画の一般的な技法として定着し、劇画の独自手法として見なされなくなってしまったため、世間一般には後の劇画雑誌ブームの際に流行した「描線の多いリアルタッチな画風の漫画が劇画である」というステレオタイプなイメージが残った。

漫画的な絵(左)と劇画的な絵(右)(ステレオタイプなイメージ)

さいとう・たかを曰く、「本来、絵は劇画の条件には含まれていない、デフォルメされた絵、少年・少女向けの絵でも構わないもの」であった。ところが「劇画黎明期を支えた面々が第一線から消え、さいとうのみが残ってしまったため、さいとう調の絵が「劇画」だと世間が誤解し、定着してしまった」という[3]。事実、辰巳ヨシヒロや松本正彦の絵はシンプルである。


出典[編集]

  1. ^ 佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして - 誰も書かなかった「劇画内幕史」』p112
  2. ^ 岡崎英生『劇画狂時代』p286-287
  3. ^ 松本正彦 『劇画バカたち』 青林工藝舎、2009年 さいとうたかをインタビューより

参考文献[編集]

  • 手塚治虫『ぼくはマンガ家』毎日新聞社、1969年
  • 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛け人だった』エイプリル・ミュージック、1978年
  • 佐藤まさあき『劇画私史三十年』桜井文庫、東考社、1984年
  • 佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして - 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、ISBN 978-4163523200
  • 岡崎英生『劇画狂時代』飛鳥新社、2002年
  • 辰巳ヨシヒロ『劇画漂流 上巻』青林工藝舎、2008年、ISBN 978-4883792733
  • 辰巳ヨシヒロ『劇画漂流 下巻』青林工藝舎、2008年、ISBN 978-4883792764
  • 辰巳ヨシヒロ『劇画暮らし』本の雑誌社、2010年、ISBN 9784860112103
  • 松本正彦『劇画バカたち!!』青林工藝舎、2009年、ISBN 978-4883792849
  • 青林堂(編)『創刊50周年「ガロ」という時代』青林堂、2014年、ISBN 978-4-7926-0500-1
  • 秋山高廣『再び大阪が まんが大国に甦る日』ブレーンセンター、新なにわ塾叢書、2014年、ISBN 978-4833907064

関連項目[編集]