共産主義者同盟赤軍派

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共産主義者同盟赤軍派(きょうさんしゅぎしゃどうめい せきぐんは、略称:赤軍派)は、1960年代から1970年代にかけて存在した日本の新左翼党派の一つ。武装蜂起を主張して大菩薩峠事件よど号ハイジャック事件を起こし、連合赤軍日本赤軍などの母体ともなった。拠点校は同志社大学。結成当初は約400人規模であった。

組織[編集]

革命軍の提起[編集]

1970年安保闘争を目前にした共産主義者同盟の最左翼。母体は、通称「関西ブント」と呼ばれる、一時期、共産主義者同盟(ブント)の全国指導権を掌握した関西地区のブント(ブント版の「関西復権」と揶揄された)である。

1969年9月2日に革命には軍事が不可欠であり、革命は「革命戦争」により勝ち取られるという立場から、塩見孝也ら30名のメンバーにより神奈川県城ヶ島で結成。9月3日、関東学院大学金沢キャンパスに集結。9月4日に葛飾公会堂で初の決起大会を開いた。9月5日の日比谷野外音楽堂で開催された、全国全共闘結成集会に「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに公然と大衆の前に姿を現し、「秋の前段階蜂起」、「世界革命戦争」、「世界赤軍建設と革命戦争」などを主張した[1]

最盛期には本部を同志社大学におき、他に関東学院大学などに拠点があった。同じく武装闘争を主張し、軍事部門として共産主義突撃隊の形成を主張する共産主義者同盟主流派の戦旗派と対立し、さらに赤軍派の軍事主義を批判する共産主義者同盟の最右翼の叛旗派情況派とも対立した。

世界革命戦争[編集]

赤軍派の主要理論は、日本における革命により、世界革命の司令部としての党と軍隊を形成し、世界革命の最高司令部である革命日本と、革命の敵の総本山である帝国アメリカとの間で、「環太平洋革命戦争」を遂行するというものであるが、石原莞爾の「世界最終戦論」の影響があるとされる。その実現のためにPBM作戦が練られた。

1969年に、大阪東京で一連の交番襲撃を「大阪戦争」「東京戦争」と称して行う。首相官邸襲撃を行う予定であったが大菩薩峠での訓練を急襲され未遂に終わる。また、1970年2月22日の千葉県市原市辰巳台郵便局を皮切りに7件の「M作戦」を実行し始めていた。

前段階武装蜂起と国際根拠地[編集]

革命に先行する武装蜂起と一時的な政権掌握という「赤軍版二・二六事件」とも形容出来る「前段階武装蜂起」の理論に基づく大菩薩峠方面での軍事訓練を警察に察知され、予定されていた「第三中隊」「第七中隊」その他の決起部隊が一網打尽となる(大菩薩峠事件)。

逮捕劇の舞台となった「福ちゃん荘」は比較的便もよく、後に皇太子が利用するなど比較的知られた山荘であり、基地として不適なため詰めの甘い選定であった。国内での非合法闘争の後方基地としての海外のベースが必要であるとする海外亡命抗戦論とでも言うべき「国際根拠地論」に基づき、「B作戦」の一環として、田宮高麿のグループ(よど号赤軍)は1970年によど号ハイジャック事件を起こす。北朝鮮へ向ったのは北朝鮮を支持していたわけではなく、単に「敵の敵」であり「最寄の反米国家」、「指導者をオルグすべき労働者国家」だったからにすぎないといわれる。

一連の事件により、結成以来の議長の塩見孝也上野勝輝花園紀夫(早大)、高原浩之(京大)ら赤軍派幹部は一網打尽となり、組織は壊滅に近い状態になった。この後も、200名を越えるメンバーやシンパが微罪逮捕で検挙され「赤軍罪」という言葉まで生まれた。

海外亡命としての日本赤軍[編集]

やはり国際根拠地論に基づきパレスチナに向った重信房子のグループは当初赤軍派アラブ委員会(アラブ赤軍)を称し、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と合流して活動を開始し、一連のハイジャックなど、「P作戦」の国際的展開とでも言うべき活動を行い、「日本赤軍」として独立する。

連合赤軍へ[編集]

一方、国内に残った赤軍派のメンバーは、それまでの指導部がすべて獄中にあるため独自の動きが困難になっていたが、「M作戦」の指揮をとっていた中堅の森恒夫が獄外メンバーの指導的地位を掌握する。赤軍派とは本来、基本的にイデオロギー上にかなり違いがあり、「のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東主義の小党派である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会との提携を始めた。当初は、革命左派が以前に武器奪取を目的とした上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦の追悼集会を合同で開いたり、革命左派が真岡銃砲店襲撃事件で強奪した武器の「援助」をうけて(実態としては購入して)M作戦に使うなど、あくまで別の組織としての提携活動であった(元々「連合赤軍」とは、両党派の“軍事部門”のみの連合体を指す名称であった)が、1971年12月、遂に両組織主流派幹部は統合し、連合赤軍中央委員会を名のった。

前身が共に追われる身の武闘派から成る連合赤軍は、活動拠点を山中のキャンプに移していった。しかし、12人の同志を殺害する山岳ベース事件で組織が弱体化し、あさま山荘事件1972年)で抵抗を試みるも、主力部隊は逮捕され壊滅した。なお、キャンプに参加しなかった者や獄中に在った者の一部は国外に逃れ、日本赤軍に参加する。

その後の赤軍派[編集]

連合赤軍の解体以後、事態の総括をめぐって赤軍派の内部で激しい論争が生じ、赤軍派はいくつかの党派へと分裂する。主流となったのは獄中にあった塩見孝也らを中心とする共産主義者同盟赤軍派(プロレタリア革命派)である。同派は塩見の独善的な組織運営などに反発する島根大学のグループが主導権を掌握し、寄せ場などでの労働運動に力を入れ活動を行っていたが、1990年代に入り活動が停滞し、自然消滅した。かつてのメンバーは現在でも山谷NPOを結成して活動しているとされる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]