ジッドゥ・クリシュナムルティ

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ジッドゥ・クリシュナムルティ、1920年代の写真

ジッドゥ[* 1]・クリシュナムルティ英語:Jiddu Krishnamurti [Kṛṣṇamūrti], 1895年5月12日 - 1986年2月17日)は、インド生まれの宗教的哲人、精神教師、教育者、神秘家[1]、ヨーギー[1]

人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた[2]。すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つという彼の考えは、仏教縁起説と同様であり、我執を問題とし、あるがままの観察による我執からの解放を目指すという点でも、仏教と基本的なスタンスは共通している[2]。インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得た[2]

生涯[編集]

少年期[編集]

クリシュナムルティは1895年5月12日、南インドのマドラス(現在のチェンナイ)近郊に位置するマダナパルという小さな町でバラモンの家系に生まれた。父はジッドゥ・ナラニア(ナリアニア)、母はサンジーヴァンマである。第8子であったため、慣習に従い8番目の神、クリシュナ神からその名をもらい、「クリシュナムールティ」と名づけられた[* 2][要出典]出生時の占星術では、多くの困難に出会うが偉大な教師になると判じられたという。ナラニアは大英帝国統治下の税務に関する公務員で、多忙であり、母が子供たちの世話を主に担った。母は信心深く優しい人物で、霊媒であったと考えられており、ヴィジョンを見、人間のオーラを見ることができ、亡くなったクリシュナムルティの姉をしばしば見たと言われる。クリシュナムルティは母の素質を受け継ぎ、彼自身も姉を見たとされる。11人の兄弟がいたが、生き延びたのは6名で、クリシュナムルティ自身がのちに言及しているのは弟のニトヤナンダだけである。バラモンの伝統的な家庭で、礼拝堂にはインドの神々と共に神智学協会アニー・ベサントの写真が飾られ、母にベサントや輪廻についての話を聞き、またインドの聖典を読んでもらった。クリシュナムルティは父の仕事の関係で何度も転校して育った。ニトヤナンダは非常に聡明だったが、クリシュナムルティはそうではなく、しかも病気で1年遅れていたので、学校は楽しいものではなく、勉強に興味を持てなかった。そのため教師には知的に遅れていると思われていた。しかし機械には強い興味を持っていたという。父ナラニアは1881年に神智学協会に入り、公務員退職後は神智学協会に再就職し、アディヤールの本部のそばに住んだ。母サンジーヴァンマは彼が10歳だった1905年に死去したが、彼という人物に母の影響は大きかった。[1]

神智学協会に引き取られる[編集]

クリシュナムルティとレッドビーター

父親は神智学協会で事務職をしており、家は貧しかった。14歳の頃、神智学協会の幹部チャールズ・W・レッドビーター[* 3]がクリシュナムルティを見出した。レッドビーターが霊視で薄汚れた少年だったクルシュナムルティの神々しいオーラに気づいたとされ、彼の中にはキリストと同じ霊が宿っていると考え、父の同意を得てクリシュナムルティと弟のニトヤナンダを同協会に引き取った。

ヨーロッパの神智学協会に連れて行かれ、クリシュナムルティはロード・マイトレーヤ弥勒菩薩)と呼ばれる世界教師(救世主)の「乗り物[* 4]」(器)となるべく、レッドビーターのもとで英才教育を受けた。この訓練と教育は、インド的なものを排しイギリス紳士を目指すというもので、言葉は英語のみで、母語だったテルグ語ヴェーダの言葉も忘れていった。レッドビーターはクリシュナムルティに住み着いていると考えた霊にアリュキュオネと名付け、その人物の以前の人生を霊視したとして、紀元前4万年にはアニー・ベサントとレッドビータは夫婦で、アリュキュオネは彼らの子どもだった、ロード・マイトレーヤに仕える「奉仕者集団」という不滅の霊の集団がいるといった話を会報で連載し、協会内で広く読まれた[4]。レッドビーターがクリシュナムルティに夢中になるほどアリュキュオネの過去生の話は昔にさかのぼっていったが、彼の弟子がこれが霊視ではなく創作である証拠を見つけ、神智学出版社を説得して本の出版を中止させた[4]。クリシュナムルティは霊能力で神智学の霊的指導者マハトマ・マスターのクートフーミと交信できたと言われ、クルシュナムルティのアストラル体は体を離れ、毎晩レッドビーターとヒマラヤ山中のクートフーミから指導を受けたという。[5][6]この交信はレッドビーターの指導の下、1910年に『大師のみ足のもとに』としてまとめられ、多くの言語に翻訳されクリシュナムルティへの関心を高めた[7]

1909年にクリシュナムルティは神智学協会の会長であったアニー・ベサントと会い、彼女はクリシュナムルティとニトヤナンダの後見人になった。ベサントが長く自分の子どもと離れていたこと、クリシュナムルティが母を亡くしていたこともあり、クリシュナムルティとベサントはこの時代には母子のような親しい関係を築き、のちに教義上・政治に関して意見が分かれても、ベサントが死ぬまで二人の愛情に変わりはなかった[7][1]。レッドビータ―に発見されて5か月後の1910年に神智学協会の心霊的な体験である「第一秘伝」を受けたとされる[1]

レッドビータ―はインド人の少年を見出して教育を与えていたが、判断を間違えないためと称して観察している少年と肛門性交をすること好んでおり、なにかと悪評が絶えなかったため、クリシュナムルティの父ナラニアは、息子たちが彼のそばにいることを不安に思ってベサントに扶養権を渡したことを後悔した[8][9]。ナラニアはベサントに訴えたが彼女は無視し、兄弟を少数の選ばれた少年たちとだけ過ごすようにし、レッドビーターやジョージ・アルンデール英語版らに教育させた。生活のあらゆる面を細かく管理し、栄養価の高いイギリス料理をすばらしいと信じて兄弟に食べさせたが、くどい料理を食べなれていない兄弟に合わず消化不良を起こし、長年二人を苦しめることになった[9]。レッドビーターの望みで神智学関係者がクリシュナムルティに過剰な敬意を示し、遊ぶ少年たちが選ばれ、彼が集会に現れると全員起立し最敬礼するなど、組織的に特別に扱われていた[1]。ベサントがクリシュナムルティに仕える選ばれたメンバーからなる「黄色いショール団」、そこからさらに選別された「紫の教団」を作ったが、彼らの黄色いショールや紫のリボンといった特別さの演出は失笑を買っていた[8][9]

ヨーロッパ遊学時代[編集]

ニトヤナンダ、ベサント、クリシュナムルティ(1911年、ロンドン)

1911年にベサントはクリシュナムルティとニトヤナンダを連れて渡英した。これには父の許可が必要だったため、ナラニアはレッドビーターの悪影響から息子たちを守ろうと、彼と引き離しておくことを条件に渡英を許可した[9]。ベサントがクリシュナムルティを世界教師の器に選んだことには批判も多かったが、彼女の確信は揺らがなかった。ベサントは、「黄色いショール団」「紫の教団」を支える団体として、16歳のクリシュナムルティを長とする「東方の星教団英語版」(当初は「昇る太陽の教団」のちに改名[10][9])を設立したが、ドイツ神智学協会のルドルフ・シュタイナーなど、反発して協会を離れる人もいた。

帰国すると、昇る太陽の教団の会合で、クリシュナムルティのもと大勢の人が神秘体験のようなものを経験する事件があった[11]。ベサントは世界中が同胞であるとみなしていたが、あくまでその中心はイギリスのロンドンだと考えるような保守主義者であり、不思議なことに未来の救世主にオックスフォード大学ケンブリッジ大学を卒業してほしいと考えていた[11]。1912年にベサントはオックスフォード大学入学準備のためにふたたび兄弟を連れて渡英した。父ナラニアは昇る太陽の教団での騒動を見て、さらにレッドビーターが息子たちの近くにいる証拠をつかみ、神智学協会を白人の文化押しつけと考える過激なヒンドゥー主義者の後押しを受け、養育権を取り戻すために、子供を神の化身に仕立てたこと、同性愛の対象にしたことの責任問題を問うて訴訟した[11]。ベサントは養育権を取り上げたことを特に悪いと思っておらず、大義は自分にあると信じており、資金も潤沢で法律の知識もあったため、父親は敗訴した[11]。クリシュナムルティは、国や家族との絆を失い、義務をなくして自由になると同時に、深く苦しむことになった[11]。エミリー・ルティエンスら協会関係者の女性たち、強い意志と資金力を持つ独身女性たちが熱心に彼に仕え、西洋式教育を施した。クリシュナムルティの面倒を見、時に奪い合う彼女たちは、母親がわりでもあったが、彼にとって負担でもあった[12]

クリシュナムルティはイタリアでレッドビータから「第二秘伝」を受けた。ベサントはインドに戻り、二人は1922年までヨーロッパで過ごした。学校でいじめにあったため、家庭教師のもとで学び、1914年に第一次世界大戦がはじまった。インド人部隊が大英帝国のもとで戦っていたが、イギリス人のインド人への偏見は強く、疎外感にさいなまれながら寂しい生活を送った。受験勉強を続けたが、どこにも合格せず、戦後はパリで勉強を続けた。ヨーロッパでは神智学の霊的マスターたちとの交流もなく、神智学への興味も失っていった。[1]

神秘体験[編集]

左から近代神智学の祖ヘレナ・P・ブラヴァツキー、神智学協会4代目会長C・ジナラージャダーサ英語版、2代目会長ベサント、レッドビーター、クリシュナムルティ、初代会長ヘンリー・スティール・オルコット

1921年にインドに戻り、家族や友人に再会し、霊的マスターたちとの交流も再開した。1922年にアメリカのカリフォルニアのオジャイに移り、家族が神智学協会に関わっていた19歳のロザリンド・ウィリアムズと出会った。ロザリンドは結核を患っていたニトヤナンダの看護を頼まれ、親しく過ごした。クリシュナムルティはここで瞑想修行を行い、1922年に重要な神秘体験・宗教体験が始まった。[2]すべてのものが自分であるという体験、ブッダやマイトレーヤ、クートフーミを見る体験をし、この前後には激痛を伴う肉体的な現象があり、のちに「ザ・プロセス」と呼ばれた。発作のような一種の錯乱状態[* 5]が収まると「生の泉の源泉」に触れ、深い慈愛に包まれる心地があったという[14]。ロザリンドはザ・プロセスに立ち会い、その様子を書き残している。クリシュナムルティは幾度も亡き母の姿を見、ロザリンドに母のイメージを重ねて、彼女に母にするように話しかけることもあった。ニトヤナンダがベサントに送った手紙の内容からは、ブッダやマイトレーヤの幻を除けば、この体験はクンダリニーの覚醒の古典的な表現であるという見解もある。[1]3年で一応治まったが、その後も断続的に続いた[14][2]

弟の死と思想形成[編集]

ニトヤナンダの健康は回復せず、クリシュナムルティは苦楽を共にし、深い絆で結ばれた弟の回復を霊的マスターたち(のヴィジョン)に願い、良くなると言われたと感じ、安堵した。しかし、アルンデールがマスターが弟の全快を保証したと伝えた直後に、1925年に27歳で死去した[15]。クリシュナムルティは、今となっては自分と子供時代をつなぐ唯一で、忌憚なく話せるただ一人を失い、その孤独は決定的なものになった[15]。小林一正は、クリシュナムルティは悲しみの中で現実に直面し、立ち直った時には彼の思想は変わっていたと述べている。[1]ピーター・ワシントンは、弟の死でアルンデールに対する不信感と、マスターは神智学で言われているようなものではないという疑念を強くしたが、この世に霊的な力があり自分は選ばれているという確信が揺らぐことはなく、自身の宿命に対する確信を強め、神智学と距離を取ることを加速させたと述べている。[15]

1925~29年に、彼の教えはメシアを待望する信者たちの考えに異を唱えるようなものになり[16]、1927年中頃には現在知られるクリシュナムルティの思想が形作られた[2]。弟の死以降、マスターたちを実体ある存在として語ることはなくなり、神智学協会の権威も、教義も、秘教的な方法も認めず、自由を求め、自由について語るようになっていた。[1]この時期に達した境地を、彼自身は「解放」「融合」と表現している[2]。「解放」の結果として「融合」がもたらされ、条件付けからの解放、伝統の否定が説かれるようになった[2]。仏教学者の玉城康四郎によると、彼の根本立場は「ありのままを経験し、経験したままを観察する、それによって、本能的かつ自然的に分断されている人間の根本見解を全体の世界に復帰せしめようすることである。それがすなわち、全ての過去に死してただ現在のみに生きることであり、真の創造である」というものであった[14]。すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと説いた彼の思想は、仏教の縁起説と同様であり、我執を問題とし、あるがままの観察による我執からの解放を説き、伝統を否定するという点でも仏教とスタンスを同じくしている[2]。ピーター・ワシントンは、精神的なよりどころを自己の内部に探すクリシュナムルティの思想は、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタにも見られるもので、深い探求の果てに先祖の苦行者たちの禁欲的な方法に回帰していたのだろうと評している[17]

東方の星教団解散・神智学協会からの離脱[編集]

クリシュナムルティは崇拝者に囲まれたが、その状態を喜んでいなかった。彼は「真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえない」と考えていた。1919年からの10年間、神智学協会はスキャンダルがありながらも、サマー・キャンプとクリシュナムルティの魅力によって、小型の国際連盟のようなものとして若者の人気を集めた[18]。1925年に、クリシュナムルティはベサントのもとに人をやって(伝える間本人は車の中で待っていた)、使徒や霊門通過といった神智学協会のやり方を受け入れないと伝え、これを聞いたベサントは急激に衰えていったという[15]1929年8月2日34歳で、3,000人あまりの団員がいた「東方の星教団」を解散した。この解散にあたり、クリシュナムルティは「宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」という旨の宣言を行っている。この折の、「真理はそこへ至る道のない土地である(Truth is pathless land)」というフレーズがよく知られている。

「東方の星教団」を解散したクリシュナムルティは、1930年に神智学協会を離れた。1931年に、クリシュナは少年時代、青年時代の記憶、特に神智学協会入会に関する記憶を失っていることに気付いた[19]

独立した霊的指導者としての活動[編集]

ベサントはうろたえながらも、クリシュナムルティを個人的に愛し続け、心霊的な面で尊敬を向けていた[20]。ベサントは自身とクリシュナムルティのために高額の報酬を伴う講演旅行を手配し、二人はアメリカ・ヨーロッパを飛び回り、学校建設などに資金を出せる裕福な崇拝者たちを魅了した[20]講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声を轟かせた。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。[要出典]クリシュナムルティの著作による収入は莫大なものになり、彼は大実業家になりつつあった[20]。最も親しい友で神智学のライバルだったD・ラージャゴパルが、資金面の処理、こまごました講演旅行の手配、出版事業の面倒を見た[20]。クリシュナムルティとラージャゴパルを役員にクリシュナムルティ著作有限会社(KWINC)という信託会社が作られ、クリシュナムルティの支払いはここか後援者が行っていた[20]。クリシュナムルティ著作権有限会社は何百万ドル、あるいは何千万ドルもの巨額の寄付金を集めた[21]。彼は厳密には個人資産をほとんど持っていなかったが、生涯有名人や金持ちと交際し、華やかで贅沢な生活を送った。クリシュナムルティ自身は、富に囲まれた生活が必ずしも豊かなわけでなく、贅沢な生活をしなくてもかまわないと述べていた[21]

クリシュナムルティの思想は、ニューエイジャーたちからニューエイジの思想と合致していると受け取られ、人気と崇拝を集めた[22]。ニューエイジに共感している物理学者・生物学者・心理学者たちとも対話を重ねた。学問の各分野は人工的に領域が設定されているが、実際はつながり合った全体であるという立場から、科学との関係を深め、ニュー・サイエンスの騎手デヴィッド・ボームと何度も対談した[14]。とはいえ、クリシュナムルティは「愛こそすべて」と主張するよう感傷的なニューエイジの感性を嫌っており、同じくニューエイジで人気だったインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとも距離を置いていた[22]

1930年代から40年代まで彼を実務面で大いに支えたD・ラージャゴパルと、その妻ロザリンド・ラージャゴパル英語版(旧姓 ロザリンド・ウィリアムズ)[* 6]、二人の娘ラーダと家族のように暮らした[20]。多忙なラージャゴパルに代わりラーダに父のように親しく接し、第二の父であった。クリシュナムルティはインド、イギリス、アメリカで、彼の哲学を実践する学校を作る事業に関わった[16]。ロザリンド、アニー・ベサントオルダス・ハクスリーと共に、カリフォルニアにHappy Valley Schoolという私立学校を設立する事業にも加わり、ロザリンドは1日18時間も働いて学校を運営した(1946年設立、のちベサント・ヒル・スクール英語版に改名)。クリシュナムルティは関わった学校で、公的な役割を担うことは拒み、定期的に訪問しては学生や教師たちと話した[22]

クリシュナムルティはその使命のために、女性と関係を持たず結婚もしないだろうと周囲に期待されていた。のちに代理娘のラーダは、クリシュナムルティは37歳の頃からロザリンドと不倫関係にあり、ラージャゴパルが真相を知ったのは30年後だったと告発した。ラーダによると、クリシュナムルティが若く美しい未亡人ナンディーニ・メータと出会い、ふたりが愛人関係にあると考えたロザリンドは、それまでの不倫関係を夫に打ち明けたという。3人の関係の真偽は確認できないが、彼らの愛憎と仕事関係はもつれ、破綻していった。[* 7][23][13]公式伝記作家のメアリー・ルティエンスは、ラージャゴパル一家はクリシュナムルティを必要としていたが、彼が別離を決意するほどいじめていたと主張した[24]。ピーター・ワシントンは、ラージャゴパル夫妻はクリシュナムルティがいなくとも金銭面で豊かであり、性格的にこうした関係を許容するほど無邪気にも愚かにも見えず、ラーダの言うような関係が30年も続いたとは考えにくい、3人は単純な三角関係ではなく過去から続く複雑な思いと仕事・思想が絡み合っていたと述べている[25]。ラージャゴパル夫妻は1961年に離婚した[26]

神智学協会から独立して以後、56年間に渡って執筆、講話を続けた。組織と権威を否定したが、多くの人々を惹きつけ、「絶対的自由を達成した超人的宗教家」と考えられることもあるなど、ある意味で権威となり、組織を作り、支持者たちの支えによって独立した霊的指導者として生きた[16][27]

クリシュナムルティは、ラージャゴパルが取り仕切っていたクリシュナムルティ著作有限会社(KWINC)と1968年に決別し、仕事の管理体制を整えクリシュナムルティ財団が作られた[16]。クリシュナムルティ著作権有限会社とクリシュナムルティ財団は資産に関して争い、1974年に決着したが、その後も告訴と反訴が20年続いた[28]。クリシュナムルティ財団は彼の死後も著作の管理などを行い、思想の普及を目指している[16][29]

晩年と最期[編集]

晩年の20年はラージャゴパルとロザリンドとのいさかいも落ち着き、1945年から亡くなるまで精神教師として世界中を精力的に飛び回った[28]

クリシュナムルティと敵対したアルンデールも亡くなり、神智学協会も世代交代し、クリシュナムルティは協会と和解した[22]。ずっとアディヤールへの訪問は続けていたが、47年ぶりに神智学協会本部に足を踏み入れた。この頃には協会の勢力も衰え、家族的なものになっていた。クリシュナムルティは協会の名誉会員になり、彼の書物が神智学協会で再び配られるようになった[30]

ニューヨーク財界の娘だったメアリー・ジンバリストは、映画プロデューサーの夫が亡くなり未亡人になった後、クリシュナムルティと誰よりも親しく接し行動を共にした[14]。1970年、75歳のクリシュナムルティはジンバリストに向かって、他の場所より多く語ったインドでさえ、自分の話を聞いて変化した人はおらず、人々は自分の教えを十分に活用していないし、真剣になっていないと述べていた[14]

クリシュナムルティは、死の恐怖は観察する主体と観察される死が分裂しているためで、そのような死の恐怖は「観念」でしかないと語っていた。その一方、玉城康四郎は、70代・80代のクリシュナムルティの友人や自身がの危険にあるときの発言は、世俗的であり、死へのこだわり方は常人と変わらず、人に説いていた死の見解とは大きく異なっている、と指摘している。[14]

クリシュナムルティの最期については、メアリー・ルティエンス[* 8]の伝記『クリシュナムルティ・開かれた扉』によると、1985年の暮れより発熱、体重減少などの体調不良が続き、なかなか原因が判明しなかった。翌1986年1月23日の精密検査の結果、末期の膵臓癌が発見され、死期が迫っていることが明らかになった[* 9]。クリシュナムルティ学校や出版の死後の体制等、死ぬまでに整理しておくべき問題に対処し、1986年2月17日にカリフォルニアで死去した。

作品[編集]

en:Jiddu Krishnamurti bibliographyおよびen:List of works about Jiddu Krishnamurtiも参照

著作の主な日本語訳[編集]

  • 大師のみ足のもとに/道の光 (神智学叢書) 』(At the Feet of the Master) 田中恵美子訳 竜王文庫、(1998)(日本語版に同時収録された「道の光」の著者はメイベル・コリンズ)
  • 『自我の終焉―絶対自由への道』 根木宏、山口圭三郎訳 篠崎書林
  • 『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より〈1-4〉』  大野純一訳 春秋社
  • 『クリシュナムルティの神秘体験』 おおえまさのり監訳 中田周作訳 めるくまーる
  • 『クリシュナムルティの日記』 宮内勝典訳 めるくまーる
  • 『最後の日記』 高橋重敏訳 平河出版社
  • 『自己の変容』 松本恵一訳 めるくまーる
  • 『英知の教育』 大野純一訳 春秋社
  • 『自由とは何か』大野純一訳 春秋社
  • 『瞑想と自然』 大野純一訳 春秋社
  • 『学びと英知の始まり』 大野純一訳 春秋社
  • 『生の全変容』 大野純一訳 春秋社
  • 『未来の生』 大野純一訳 春秋社
  • 『クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)』 大野純一訳 平河出版社、第十六版 (2000)、ISBN 978-4892030468
  • 『生の全体性』 大野純一、聖真一郎、共訳 平河出版社
  • 『真理の種子』 大野純一訳 めるくまーる
  • 『人類の未来』 渡辺充訳 JCA出版
  • 『瞑想』 中川吉晴訳 UNIO
  • 『恐怖なしに生きる』 有為エンジェル訳 平河出版社
  • 『あなたは世界だ』 竹渕智子訳 UNIO
  • 『子供たちとの対話 - 考えてごらん』 藤仲孝司訳 平河出版社、(1992)、ISBN 978-4892031991
  • 『ザーネンのクリシュナムルティ』 ギーブル恭子訳 平河出版社
  • 『私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『花のように生きる - 生の完全性』 横山信英訳 UNIO
  • 『知恵のめざめ - 悲しみが花開いて終わるとき』 小早川詔訳 UNIO
  • 『智恵からの創造―条件付けの教育を超えて(クリシュナムルティ著述集 第8巻 1953-1955)』 藤仲孝司訳 UNIO
  • 『明日が変わるとき―クリシュナムルティ最後の講話』 小早川詔、藤仲孝司訳 UNIO
  • 『時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』 渡辺充訳 コスモスライブラリー、(2011)、ISBN 978-4434153952
  • 『しなやかに生きるために―若い女性への手紙』 大野純一訳 コスモスライブラリー(ナンディーニ・メータへの手紙)
  • 『生と出会う―社会から退却せずに、あなたの道を見つけるための教え』 大野龍一訳 コスモスライブラリー
  • 『アートとしての教育―クリシュナムルティ書簡集』 小林真行訳 コスモスライブラリー
  • 『四季の瞑想―クリシュナムルティの一日一話』 大野純一監修 こまいひさよ訳 コスモスライブラリー
  • 『静かな精神の祝福―クリシュナムルティの連続講話 』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『伝統と革命―J・クリシュナムルティとの対話』 大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『愛について、孤独について』 中川正生訳 広池学園出版部
  • 『静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)』 横山信英、藤仲 孝司、内藤晃訳 UNIO
  • 『ブッダとクリシュナムルティ-人間は変われるか?』 正田大観、吉田利子、大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『スタンフォードの人生観が変わる特別講義 あなたのなかに、全世界がある』 中川吉晴PHP研究所、(2013)、ISBN 978-4569810256

DVDブック[編集]

  • 『神話と伝統を超えて〈1〉DVDで見るクリシュナムルティの教え』白川霞監修 大野純一訳 彩雲出版
  • 『神話と伝統を超えて〈2〉DVDで見るクリシュナムルティの教え』白川霞監修 大野純一訳 彩雲出版
  • 『真の革命―クリシュナムルティの講話と対話』 柳川晃緒、大野純一訳 コスモスライブラリー
  • 『英和対訳 変化への挑戦―クリシュナムルティの生涯と教え』柳川晃緒訳、大野純一監訳 コスモスライブラリー

関連項目[編集]

深い交流があった人々[編集]

関係があった組織[編集]

註釈[編集]

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  1. ^ 実際の発音は「ジドゥー」がより近い。
  2. ^ クリシュナ神は第8子。「ムールティ (mūrti)」にはサンスクリットで形体、権化、姿、人体、立像などの意味がある[3]
  3. ^ 日本では「リードビーター」と表記されていることが多い。
  4. ^ 近代神智学では、霊的指導者マハトマの秘密結社グレート・ホワイト・ブラザーフッドがあり、ナザレのイエスに啓示を与えたマハトマのマイトレーヤ(イエス・キリスト)が、世界教師として弟子の体を使って人間の世界に現れ、人々を導くと考えていた。クリシュナムルティは世界教師が降臨するための乗り物になることが期待されていた。
  5. ^ ラーダ・ラージャゴパルは、「サ・プロセス」は一種のてんかん発作のようなものだったのではないかと述べている。[13]
  6. ^ ロザリンドは結婚前、クリシュナムルティの弟ニトヤナンダを愛していた。
  7. ^ この件は、ラージャゴパル夫妻の娘で、子供時代家族としてクリシュナムルティと共に暮らしたラーダによって、Lives in the Shadow with J. Krishnamurti として出版されている。公開されてないが、ラーダこれを裏付けるクリシュナムルティからロザリンドへの手紙なども残されていると述べている。[13]
  8. ^ 母エミリーと共にクリシュナムルティの熱烈な支持者で、母娘2代にわたって彼に仕え、公式の伝記を書いた。[14]
  9. ^ これは、本人の予感していた死期よりも、かなり早いものであったらしいことが同書に記されている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 小林 1988.
  2. ^ a b c d e f g h i 平井 2003.
  3. ^ 荻原雲来編纂、辻直四郎協力、鈴木学術財団編 『漢訳対照 梵和大辞典 新訂版』 山喜房佛書林、2012年、1054頁。
  4. ^ a b ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 178-181.
  5. ^ Krishnamurti and the World Teacher Project:Some Theosophical PerceptionsGovert Schüller
  6. ^ 氷川雅彦『神智学をめぐる人々: The Secret of Theosophy』 光祥社、2014年
  7. ^ a b ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 181-182.
  8. ^ a b ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 178-179.
  9. ^ a b c d e ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 183-185.
  10. ^ 羽仁礼『図解 近代魔術』 新紀元社、2005年
  11. ^ a b c d e ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 183-187.
  12. ^ ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 187-191.
  13. ^ a b c 大野龍一 クリシュナムルティと二重人格 祝子川通信
  14. ^ a b c d e f g h 玉置 1987.
  15. ^ a b c d ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 360-363.
  16. ^ a b c d e Tingay 2009.
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  21. ^ a b ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 468-469.
  22. ^ a b c d ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 476-477.
  23. ^ Radha Rajagopal Sloss Lives in the Shadow with J. Krishnamurti 1991
  24. ^ ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, p. 471.
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  26. ^ ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, p. 481.
  27. ^ 大野龍一 クリシュナムルティの説く「革命」 祝子川通信
  28. ^ a b ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 480-481.
  29. ^ 高橋ヒロヤス 物質的問題(material question)について J.クリシュナムルティの場合 MUGA特集号 第3巻
  30. ^ ワシントン, 白幡節子・門田俊夫訳 1999, pp. 476-478.

参考文献[編集]

  • Kevin Tingay 『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』 クリストファー・パートリッジ英語版 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館2009年、272-274頁。
  • 平井節代「クリシュナムルティの生涯と思想 : 仏教との比較の観点から」、『龍谷大学大学院文学研究科紀要』第25巻、龍谷大学、2003年12月10日、 193-196頁、 NAID 110001000521
  • 小林一正「J・クリシュナムルティの人間形成 : 思想形成に到る背景の一考察」、『駒澤大学佛教学部論集』第19巻、駒澤大学、1988年10月、 332-342頁、 NAID 120005491318
  • 玉城康四郎「ジッドゥ・クリシュナムルティの根本問題」、『印度學佛教學研究』第35巻、JAPANESE ASSOCIATION OF INDIAN AND BUDDHIST STUDIES、1987年、 502-511頁、 NAID 130003830677
  • ピーター・ワシントン 『神秘主義への扉 現代オカルティズムはどこから来たのか』 白幡節子・門田俊夫 訳、中央公論新社、1999年
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 目覚めの時代』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 実践の時代』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティ 開かれた扉』 高橋重敏訳 めるくまーる
  • メアリー・ルティエンス 『クリシュナムルティの生と死』 大野純一訳 コスモス・ライブラリー

外部リンク[編集]