チャールズ・マンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
チャールズ・ミルズ・マンソン
Charles Milles Manson
MansonB33920 8-14-17.jpg
生前のマンソン(2017年
生誕 1934年11月12日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ
死没 2017年11月19日(2017-11-19)(83歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ベーカーズフィールド
職業 カルト指導者
罪名 殺人、共謀
刑罰 終身刑
有罪判決 殺人罪共謀罪

チャールズ・ミルズ・マンソン(Charles Milles Manson、1934年11月12日[1] - 2017年11月19日)は、アメリカカルト指導者であり犯罪者。1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるヒッピーコミューンを率いて集団生活をしていた。[2][3][4]1969年のテート・ラビアンカ殺人事件で悪名高い。

人物概要[編集]

ファミリーができあがり始めた当時のマンソンは、さまざまな犯罪行為のために矯正施設で人生の半分を過ごした。殺人を犯す前の時期の彼はミュージシャンを志しており、ザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソンとは人を介してつながりがあった。マンソンによって書かれ演奏された曲が数曲レコーディングされており、ガンズ・アンド・ローゼズマリリン・マンソンを含む歌手たちが、数十年にわたって彼の歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリスト、ブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。

1969年に女優のシャロン・テートラビアンカ夫妻Leno and Rosemary LaBianca)ら5人を、自身の信者に教唆して殺害させたことで、共謀罪を宣告された。共謀という目的の促進のため、彼の仲間の共謀者たちが犯した犯罪により、メンバーそれぞれが共謀罪として有罪となり、マンソンは連帯責任の規則で殺人罪による有罪判決を受けた[5][6]

カリフォルニア州の最高裁判所にて、1972年にマンソンに対する死刑が決定したが、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された[7]。カリフォルニア州では、最高刑として死刑が復興したが、コーコラン刑務所(California State Prison)に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

売春婦をやっていた16歳の家出少女であるキャスリーン・マドックスと、カール・スコットという男の間に生まれる。[8]母親から育児放棄されたため、数か月の間、戸籍もない名無しの赤ん坊として過ごしていた期間もあったが、生を受けてから数か月後には「チャールズ」と名付けられ、その当時に母が気まぐれで結婚していた男性の姓である「マンソン」を貰い受ける。

5歳の頃に、母親とその兄(マンソンの伯父に当たる人物)がガソリンスタンドを襲撃した事によって逮捕され、懲役5年の実刑判決を言い渡されたため、祖父母の家に引き取られ育てられた。しかしその後、親戚を転々とし、最終的に12歳であると孤児院に入れられた。孤児院を脱走して母に再会するが見放され逃亡途中に夜盗で現行犯逮捕された。慈善ホームに入れたがすぐに脱走し犯罪を繰り返しては施設に出入りした。16歳で救護院に表面的には模範囚として振舞いつつも他の囚人に重傷を負わせ少年院に送られた。1954年に19歳で仮釈放されウエイトレスと結婚し子供が生まれたが、自動車泥棒で逮捕され別れた。刑務所ではセラピーを受け人を操る才能に磨きをかけ元ギャングからギターを習った。刑期を終えたマンソンが出獄してきたのは、1967年3月21日で小銭とギターだけをもってもバスでサンフランシスコにむかった。

カルト指導者[編集]

1960年代後半のサンフランシスコは、ヒッピー文化に浮かれていた。町には長髪の若い男と若い女があふれていた。若者たちはベトナム徴兵を忌避することに熱をあげ、ハイト・アシュベリー地区では、LSDとコカインを楽しむヒッピー文化が盛んだった。マンソンは街角で歌いながら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと知り合い彼女のアパートで同居するようになる。言葉巧みに若い女たちに同情して、ドラッグも与えて心を掴みアパートで連れていき同居した。1968年にロサンゼルスのハリウッドに数十人のメンバーと移りドラック売買、物乞い、クレジットカード泥棒で生計を立てながら言いなりになった女を使ってて男もメンバーに加えた。

ロック・バンド「ザ・ビーチ・ボーイズ」のメンバー、デニス・ウィルソンは、は、ヒッチハイクでファミリーの少女を乗せマンソンに紹介された。親しくなったファミリーは彼の屋敷に居候することとなる。紹介されたミュージシャンでプロデューサーのテリー・メルチャーのプロデュースでによってマンソンはシンガー・ソングライターとしてデビューする予定だったが結局テリーが約束を守らずにマンソンのデビューの夢は流れた。

1968年5月、ウィルソンが転居したため彼の屋敷から出たマンソン一行はカリフォルニア州チャッツワースにある西部映画撮影用のスパーン牧場を知り、この地のオーナーである盲目の老人、ジョージ・スパーンから馬の世話と日々の雑用をするかわりにファミリーが移り住むことを認めさせた。ここでは量販店から廃棄食料を調達し、たいていの時間はドラッグで陶酔するかセックスをして過ごしていた。マンソンは、間もなく黒人たちが蜂起して白人に戦争を仕掛け、白人を全滅させて世界を支配するという荒唐無稽な終末戦争論に取り憑かれていた。この黒人対白人戦争が勃発するその日のことを、マンソンは“ヘルター・スケルター”と呼んだ。カリフォルニア州中部のデスヴァレーに、巨大な地下世界につながる穴があり、この穴の中で、ファミリーたちは終末戦争の間、暮らすのだという幻想に取り憑かれていた。ファミリーに”ヘルター・スケルター”への備えを呼びかけた。戦争があると思うと、ファミリーたちは興奮して、武器や車両を蓄えて、射撃訓練にも励んだ。ついにはマンソンが殺せと言えば人殺しも辞さない殺人集団へと変貌していくことになる。

1969年7月、自宅に2万ドルの遺産を隠しているという噂があったゲイリー・ヒンマンという麻薬の売人で音楽教師の元をマンソン・ファミリーのメンバーであるボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブルンナーの3人訪れた。金が見つからなかっためボーソレイユはマンソンの命令で、ヒンマンをナイフで刺し殺しヒンマンの血で、壁に「政治豚(Political Pig)」と書きなぐり、黒人解放組織ブラックパンサー党の仕業に仕立て上げた。

まもなくボーソレイユが車両窃盗、メアリー・ブルンナーもクレジットカードの不正利用で逮捕された。

これに危機感を持ったマンソンは数件の残忍な殺人事件を計画し、ファミリーのメンバーにテックス・ワトソン、スーザン・アトキンズ、パトリシア・クレンウィンケル、リンダ・キャサビアンに実行を命じた。これがマンソンを象徴する有名なテート・ラビアンカ殺人事件である。1969年8月9日ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートと元婚約者で世界的なヘア・スタイリストのジェイ・セブリング、夫ポランスキーの親友ヴォイテック・フライコウスキーとその恋人でコーヒー財閥の相続人アビゲイル・ニォルジャーが自宅で惨殺され、数日後、同じ手口でスーパーマーケットチェーンのオーナーだったラビアンカ夫妻で殺された。

逮捕[編集]

Manson's
サン・クエンティン州立刑務所でのマグショット(1971年撮影)

この事件から一週間も経たぬうち、警察が車両窃盗の疑いでスパーン牧場にガサ入れを行って、マンソンは他のメンバーたちと共に逮捕された。ただしこの時点で警察は、マンソン・ファミリーを殺人事件の容疑者だとは見なしていなかった。しかも、証拠不十分で全員釈放となっている。

捜査が急展開を迎えたのは、10月になってからだった。ヒンマン殺しのボーソレイユの恋人であるキティ・ルートシンガーが逮捕され、自分の無実を証明するためにファミリーの悪行を白状したのだ。そして、別の軽犯罪で逮捕されていたサディが、テート事件の真犯人は自分だと同房囚に自慢した。この同房囚が看守にタレこんで、ここから芋づる式に実行犯やマンソンの逮捕に繋がった。

マンソンは取り調べや裁判では、殺人を指示したことを認めず自分に心酔したメンバーが勝手に暴発しただけだと主張した。ともに裁判を受けた3人の女性信者も従ったが、事件に罪悪感を感じていたリンダ・キャサビアンは、検察側証人として証言しマンソンを激怒させた。公判中は検察や証人、世間を嘲弄しマスコミから注目を集めた。

マンソンは自ら殺害を実行することはなく、テート・ラ・ビアンカ殺害事件に関しても実行犯は3人の女性信者で全員が終身刑となり現在もマンソン自身にも1971年4月19日に死刑判決が下された。しかし続く1972年2月にカリフォルニア州では死刑制度が一時的に廃止されたため、これは自動的に終身刑に減刑された。後年同州の死刑制度は復活したが、マンソンには影響が及ばず、カリフォルニア州刑務所で服役していた。

獄中では、最後まで罪を認めず反省や後悔、謝罪はなかったが、悪のカリスマとしてファンレターが大量に届き作詞、作曲に励んだ。1981年、獄中のマンソンは事件後初のテレビインタビューに応じ、たびたびマスコミから取材された。

服役中にたびたび仮釈放申請が出され、そのたびにマスコミの関心を集めている。2007年仮釈放に通算11回目の申請を行ったが、「依然として他者に理不尽な危険を及ぼしており、接触する人間に危害を加える恐れがある」として却下された。また、2012年には通算12回目の仮釈放の申請を行ったが却下されている。

2014年11月、9年前からマンソンと交流を続けてきた26歳の女性が、自分はチャールズ・マンソンの妻だとCNNインタビューに答えており、獄中結婚の手続きに入ったことが報じられた[9]が、女性がマンソンの遺体をガラス張りのショーケースに納めてロサンゼルスで陳列し、大儲けしようと企んでいたことが発覚し、婚約は解消された[10]

晩年[編集]

2017年1月1日、胃腸出血の為、カリフォルニア州の刑務所からベーカーズフィールドのマーシー病院に緊急入院した。ある情報筋は、ロサンゼルス・タイムズにマンソンは重病であると語った[11]。彼は1月6日までに刑務所に戻った。彼が受けた治療の内容は開示されなかった[12]。2017年11月19日カリフォルニア州ベーカーズフィールドの病院にて急性心筋梗塞で死去[13]。83歳没。

サブカルチャーとの関連[編集]

マンソンの裁判と有罪判決以来、マンソンの名とそのイメージはアメリカン・ポップ・カルチャーにおける汚点として広く知れ渡った。そのイメージは多くの音楽家や芸術家によって用いられ、マリリン・マンソンは悪のシンボルとしてその名を用いた。

成功することはなかったがマンソン自身は音楽家であり、いくつもの歌を作っている。殺人事件が明るみに出る以前、彼はザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソンを始めとする著名な音楽家と友人関係にあった。マンソンによれば、ビートルズの楽曲『ヘルター・スケルター』は、マンソンの画策した同名の黙示、人種間の戦争(Race war)、殺人を引き起こすことを想定した曲であるという。彼に関連するロックと、大衆文化による悪名を得た当初から、マンソンは狂気、暴力、そして恐怖の象徴となった。最終的に、この単語はマンソン裁判の担当検事で、後に作家となったヴィンセント・バグリオーシVincent Bugliosi)が書いたマンソンの殺人についての著書『ヘルター・スケルター(Helter Skelter (book))』の題名に使われた。これは1976年に『ヘルター・スケルター』(Helter Skelter)としてテレビ映画化され、スティーヴ・レイルズバックがマンソンを演じている。2019年にはこの事件をモチーフとした映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開された。監督はクエンティン・タランティーノ、出演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピット[14]。マンソンはデイモン・ヘリマンが演じている。

備考[編集]

  • Jonathan Barnbrookが作成した欧文書体、「MASON」はチャールズ・マンソンに由来する[15]
  • FBI捜査官ロバート・K・レスラーは、服役中のマンソンと対談を行ったことがある。最初は警戒していたが意図が分かると協力的にどのように若者たちを操ったか話した。ワイドショー番組「ザ・ワイドの特番では麻原彰晃との共通点を指摘しともにサイコパスであると主張した。
  • 一時期、隣の監房に心理学者のティモシー・リアリーがおり、アドバイスをしたことがある。
  • マンソンを狂信していた女性信者3人のうち1人でシャロン・テート殺害事件の実行犯スーザン・アトキンスSusan Atkins)は、2009年9月24日に獄死した[16]
  • 息子は少なくとも二人いる。実子でミュージシャンのマシュー・ロバーツは、生まれてすぐ養子に出され、父を知らずに育った。後に自身の手で調べて父のことを知り、悩んだ末に雑誌に告白した[17][リンク切れ]。信者のメアリー・ブルンナーとの間に生まれたもう一人の息子は生前は父親と接触しなかったが死後、彼を正当化した告白をしたことがある[18]

アルバム[編集]

  1. LIE (1967年)
いくつかの楽曲は、後に様々なアーティストによりカバーされる。
2006年5月に再発。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 諸説では11月11日という説もあるが、生年月日が不明瞭なのは母親の記憶が曖昧だからである。
  2. ^ Linder, Doug. The Charles Manson (Tate-LaBianca Murder) Trial. UMKC Law. 2002. Retrieved April 7, 2007.
  3. ^ Bugliosi, Vincent with Gentry, Curt. Helter Skelter — The True Story of the Manson Murders 25th Anniversary Edition, W.W. Norton & Company, 1994. ISBN 0-393-08700-X. Pages 163–4, 313.
  4. ^ Journal of the American Society of Psychosomatic Dentistry and Medicine, 1970. 17(3):99–106”. Smith, David E. and Rose, Alan J., "A Case Study of the Charles Manson Group Marriage Commune". 2007年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年4月11日閲覧。
  5. ^ Prosecution's closing argument Transcript, charlesmanson.com. Retrieved March 31, 2016.
  6. ^ Prosecution’s closing argument Transcript, charlesmanson.com. Retrieved March 31, 2016.
  7. ^ History of California's Death Penalty deathpenalty.org. Retrieved March 28, 2009.
  8. ^ もっとも、キャスリーンは他の男とも関係を持っていたため、マンソンの本当の父親は未だ不明である。
  9. ^ “連続殺人のマンソン受刑者、26歳女性と獄中結婚へ”. CNN.co.jp. (2014年11月19日). http://www.cnn.co.jp/usa/35056793.html 2014年12月28日閲覧。 
  10. ^ “余命わずかか 連続殺人鬼チャールズ・マンソン(83)病院へ搬送”. TechinsightJapan. (2017年11月17日). https://www.excite.co.jp/News/world_clm/20171117/Techinsight_20171117_443994.html?_p=2 2017年11月21日閲覧。 
  11. ^ Killer Charles Manson's failing health renews focus on cult murder saga”. Los Angeles Times (2017年1月4日). 2017年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月4日閲覧。
  12. ^ Winton, Richard; Christensen, Kim (2017年1月7日). “Charles Manson is returned to prison after stay at Bakersfield hospital”. Los Angeles Times. オリジナルの2017年1月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170107085511/http://www.latimes.com/local/lanow/la-me-ln-manson-returned-to-prison20170106-story.html 2017年1月7日閲覧。 
  13. ^ “無差別殺人犯のC・マンソン受刑者、死去 83歳”. AFPBB News. フランス通信社. (2017年11月20日). http://www.afpbb.com/articles/-/3151815 2017年11月20日閲覧。 
  14. ^ “ディカプリオとブラピが共演!タランティーノ新作『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』”. シネマトゥデイ. (2018年3月1日). https://www.cinematoday.jp/news/N0098869 2018年9月2日閲覧。 
  15. ^ Mason™ - Webfont & Desktop font « MyFonts
  16. ^ Susan Atkins dies at 61; imprisoned Charles Manson follower - LA Times
  17. ^ http://10e.org/mt2/archives/200911/250337.php
  18. ^ チャールズ・マンソンの実子が語る「生い立ちと父への思い」”. クーリエジャンボ (2019年8月30日). 2019年12月6日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]