ウィリアム・S・バロウズ
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ウィリアム・S・バロウズ William S. Burroughs | |
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![]() 69歳の誕生日を祝うバロウズ(1983年) | |
ペンネーム | William Lee |
誕生 |
William Seward Burroughs II 1914年2月5日 ![]() ミズーリ州セントルイス |
死没 |
1997年8月2日(83歳没)![]() カンザス州ローレンス |
職業 | 作家 |
言語 | 英語 |
国籍 | アメリカ |
最終学歴 | ハーバード大学 |
ジャンル | ポストモダン文学、風刺 |
文学活動 | ビート・ジェネレーション |
サイン |
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ウィリアム・シュワード・バロウズ二世(William Seward Burroughs II、1914年2月5日 - 1997年8月2日)は、アメリカ合衆国の小説家。1950年代のビート・ジェネレーションを代表する作家の一人。1960年代にJ・G・バラードらによってニュー・ウェーブSFの輝く星として称えられた。その後も、パフォーマンス・アーティストのローリー・アンダーソンや、ロックミュージシャンのカート・コバーン(ニルヴァーナ)らによって、最大級の賛辞を受けている。私生活では、ウィリアム・テルごっこをして誤って妻のジョーン(1923〜51)を射殺したり、同性愛の男性にふられて小指を詰めたりするなど、何かとエピソードに事欠くことがなかった。
来歴[編集]
1914年、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに生まれる。ニューヨーク州生まれの祖父ウィリアム・シュワード・バロウズ1世はキー入力式歯車式加算機を安定駆動する油圧装置を発明した発明家で、バロース加算機社(創業からちょうど100年目に当たる1986年に、バロース社がスペリー社を買収し、世界第2位のコンピュータ企業ユニシス社となった)を設立したことで知られる。しかし彼は43歳で早世し、残された息子たちは遺産管理人のアドバイスに従い、相続した株式や特許の全てを売却してしまう。そのためその後のバロース社の株価高騰(株式は1929年の大暴落前には当時の価値で20万ドルに上るものであったという)の恩恵に浴すことはなかった。とはいえ女中を雇えるほどの裕福さは続いた(悪夢に悩む幼き頃のバロウズに、この女中は「阿片を吸うと良い夢が見られるのよ」と言い、それを聞いたバロウズは、「大きくなったら阿片を吸うんだ!」と答えたという)。
バロウズの父モーティマー(1885〜1965)はガラス工場を経営するありふれた中小企業主だった。その息子であるバロウズはアメリカ中西部で退屈な少年時代を送った。高校時代は魚釣り、狩猟、ハイキングを好み、そして何よりも本をよく読んだ。学校には全く馴染めず、唯一の友人との友情も、悪戯紛いの悪事が露呈したことによって破綻してしまう。その後は名門であるハーバード大学に入学する。英文学を専攻し、T・S・エリオットを研究した。もっとも、英文学を専攻したのは、単にそれ以外に興味を持てる学科がなかったからというだけの消極的理由によるものだった。また、学業にあまり熱心でなかったバロウズがハーバード大学に入学したのは、母親ローラ(1888〜1970)の期待に応えるためとも言われる。1936年に、いわく「まずい成績で」大学を卒業してから、毎月受け取ることになった信託財産(仕送り)(2003年における山形浩生による解説によれば、受け取っていたのは金額にして200ドル、山形の執筆当時の感覚で言えば20–30万円に相当するという)のおかげで、バロウズ自身、当初は働く必要は何もなかったと明言している。しかし徐々にかさむ麻薬代を工面するために、初めて働く必要に迫られることになる。
当時は世界恐慌の真っ直中で、ハーバード大卒という華々しい学歴も役に立つことがなかったこともあり、第一次世界大戦の傷跡がいまだ色濃く残るヨーロッパへと旅行に出掛ける。旅先ではウィーンの医学校に入学した。そこで知り合ったユダヤ人女性イルゼ・クラッパー(Ilse Klapper)との偽装結婚によって彼女のアメリカ(ニューヨーク市)への国外逃亡の手助けをしている。時勢は徐々に、しかし確実に二度目の世界大戦へと向かいつつあり、ナチスとその反ユダヤ主義の不穏な影が急速な広がりと共に迫って来ていたまさにその当時であった。ウィーンはもはや既にユダヤ人にとって安全な場所ではなくなっており、事実オーストリアはこの翌年、ナチスによってドイツに併合(アンシュルス)されることになる。理由はともかくバロウズも、肝心の医学校には結局6ヶ月間しか通うことがなかった。しかしながら、医学への興味と関心は失われることがなく、生涯に渡る趣味として学び続けた。また、ウィーンの医学校での出会いから始まったイルゼとの友情はその後も長年に渡り続くことになる。
帰国後はシカゴでアルフレッド・コージブスキーの一般意味論のセミナーを受講し、また柔術を学んでもいたという。次いでコロンビア大学大学院で心理学と人類学の講義を2年間受け、そのまま母校のハーバード大学大学院で人類学の講義をさらに2年間受けた。またこの間に3年ほど、真剣に精神分析治療を受け、最終的に彼は抑圧と不安から解放され、自分で自分が生きたいように生きられるようになる(あるいは救いと解放を得る)ことに成功する。ちなみにこの治療に当たった精神分析医は、最後までバロウズの「性的指向」(彼は同性愛者あるいは両性愛者であった)を執拗に問題視し、「治療」の試みを諦めることがなかったが(当時、同性愛は治療可能な精神疾患の一種だと考えられていた)、バロウズはそれを意に介することなく治療を終えている。
その後は住む場所を転々としながら仕送りに頼りながら生活する。ニューヨークに住んでいた時にビート世代の詩人アレン・ギンズバーグや、作家ジャック・ケルアックらと知り合うことになる。1949年からメキシコ・シティに住み、1953年にデビュー作『ジャンキー』(Junkie: Confessions of an Unredeemed Drug Addict)を発表する。しかしながらアメリカの文学界における反響は皆無で、一時は作家として生きていくことを諦めた。1953年、モロッコのタンジールに移住し、同時に15年以上浸ったドラッグと決別する姿勢を見せ始める。1959年、ギンズバーグらの熱心な勧めと手助けにより、書き溜めた文章を元に構成した小説『裸のランチ』を発表する。その内容は猥褻かつグロテスクなものであり、アメリカ政府から発禁処分を受けるはめになる。しかしこのことがかえって話題となり、実験小説の雄として祭り上げられた。
一度はドラッグから完全に足を洗っていたバロウズだが、65歳(1979年)になって再びヘロイン依存症に陥ってしまう(これには彼の元に感心しかねる “贈り物” を持参してくる熱心なファンの影響があったとも言われている)。このため、1997年に83歳で亡くなった時にはメサドンによる維持療法を受けていた。
文章をバラバラに刻んでランダムに繋げる「カットアップ」という実験的な手法の発明者であり、この手法を駆使した作品を何作か発表しているが、1980年代に入ってからはストーリー性を重視したスタイルに移行している。『裸のランチ』は、1992年にカナダの映画監督デヴィッド・クローネンバーグにより映画化された。ただ、作品は原作を忠実になぞったような性格のものではなく、あくまでバロウズの作品を元に、クローネンバーグによって新たに再構成された、オリジナル作品というべき内容になっている。
晩年のバロウズは、神格化され、多数の映画にカメオ出演した。作品の邦訳は、鮎川信夫、諏訪優、飯田隆昭、山形浩生、柳下毅一郎らによって行われている。また、近年、演出家・劇作家の夏井孝裕が『裸のランチ』を演出するなど、若い世代のアーティストにも影響を与え続けている。
エピソード[編集]
- 1960年代~1970年代以降、バロウズの作品はSF界にも注目されており、J・G・バラードやジュディス・メリルはバロウズ作品を「理想的なSF」と呼んだ。また、山野浩一がセレクションした「サンリオSF文庫」にも作品が収録されている。また、近年の翻訳者である山形浩生や柳下毅一郎はSFファンあがりであり、両人とも東京大学在学中に、『バロウズ本』という詳細なバロウズ研究同人誌を発行して注目された。また、「関西海外SF研究会(KSFA)」というファングループは、バロウズの作品から名前をとって、『ノヴァ・エクスプレス』という同人誌を発行していた。
- フィリップ・K・ディックの作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が映画化される際、関係者がたまたま手にとったバロウズの著作『ブレードランナー』の語感が良かったので、映画の題名は『ブレードランナー』となった(内容は全く無関係)。
主な著作[編集]
小説および長編[編集]
- 『ジャンキー』 Junkie: Confessions of an Unredeemed Drug Addict 1953年
- 『裸のランチ』 The Naked Lunch 1959年
- 鮎川信夫訳 河出書房新社(人間の文学19)1965年 のち同社(モダン・クラシックス)1971年 のち同社(河出海外小説選16)1978年 のち同社新装版 1987年 のち同社完全版 1992年 のち同社(河出文庫)2003年
- 『ソフト・マシーン』 The Soft Machine 1961年
- 山形浩生、曲守彦訳 ペヨトル工房 1989年
- 山形浩生、柳下毅一郎訳 河出書房新社(河出文庫)2004年
- 『爆発した切符』 The Ticket That Exploded 1962年
- 『ノヴァ急報』 Nova Express 1964年
- 諏訪優訳 サンリオ(サンリオSF文庫)1978年
- 山形浩生訳 ペヨトル工房 1995年
- 『ダッチ・シュルツ 最期のことば』 The Last Words of Dutch Schultz 1970年
- 山形浩生訳 白水社 1992年
- 『猛者(ワイルド・ボーイズ)―死者の書』 The Wild Boys A Book of Dead 1971年
- 山形浩生訳 ペヨトル工房 1990年
- 『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』 Cities of the Red Night 1981年
- 飯田隆昭訳 思潮社 1988年
- 『デッド・ロード』 The Place of Dead Roads 1983年
- 飯田隆昭訳 思潮社 1990年
- 『内なるネコ』 The Cat Inside 1986年
- 山形浩生訳 河出書房新社 1994年
- 『ウエスタン・ランド』 The Western Lands 1987年
- 飯田隆昭訳 思潮社 1991年
- 『トルネイド・アレイ』 Tornado Alley 1989年
- 清水アリカ訳 思潮社 1992年
- 『ゴースト』 Ghost of Chance 1991年
- 山形浩生訳 河出書房新社 1996年
- 『夢の書 わが教育』 My Education: A Book of Dreams 1995年
- 山形浩生訳 河出書房新社 1998年
短編集[編集]
- 『おぼえていないときもある』 Exterminator! 1973年
- 『バロウズという名の男』 The Adding Machine: Collected Essays 1985年
- 山形浩生訳 ペヨトル工房 1992年
共著[編集]
ディスコグラフィ[編集]
- 『ザ・プリースト ゼイ・コールド・ヒム』 the "Priest" they called him
(参考:I TRE MERLI"、YMOのアルバム中、2曲にバロウズが声を提供)
フィルモグラフィ[編集]
出演(劇映画)[編集]
- 『チャパクア』Chappaqua (1966年)
- 『デコーダー (映画)』Decorder (1983年)
- 『映画を探して』It Don't Pay To Be An Honest Citizen (1984年)
- 『ワンナイト・オブ・ブロードウェイ』Bloodhounds Of Broadway (1988年)
- 『ドラッグストア・カウボーイ』Drugstore Cowboy (1989年)(トム・マーフィ神父役)
- 『ツイスター/大富豪といかれた家族たち』Twister (1990年)
- 『WAX 蜜蜂テレビの発見』Wax or the discovery of television among the bees (1991年)
出演(ドキュメンタリー映画)[編集]
- 『バロウズ』Burroughs: The Movie (1984年)
- 『ケルアックに何が起こったのか?』What Happened To Keruac? (1985年)
- 『ローリー・アンダーソン 0&1 トップ』Home of the Brave (1986年)
- 『ヘビー・ペッティング』Heavy Petting (1988年)
- 『アインシュタインの脳』Einstein's Brain (1994年)
- 『SEPTEMBER Songs 9月のクルト・ヴァイル』September Songs (1995年)
- 『シェルタリング・スカイを書いた男 ポール・ボウルズの告白』Let It Come Down: The Life Of Paul Bowles (1998年)
- 『ビートニク』The Source (1999年)
- DVD
- 『ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』 (2007年)
- 『路上の司祭』 (2007年)
- Video
関連映画[編集]
- 『バロウズの妻』(2000年)
関連書[編集]
- 山形浩生『たかがバロウズ本。』大村書店 2003年2月(山形のホームページの中にある『たかがバロウズ本』サポートページ で全文公開されている)
関連項目[編集]
- ハーバード大学の人物一覧
- キャシー・アッカー - 女版バロウズと呼ばれた、アメリカの作家。
脚注[編集]
- ^ Chandarlapaty、R。、"Woodard and Renewed Intellectual Possibilities"、Seeing the Beat Generation (Jefferson、NC: McFarland & Company、2019)、pp。98–101。
- ^ ジャック・ケルアックとの共著
- ^ アレン・ギンズバーグとの共著。