ビート・ジェネレーション
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ビート・ジェネレーション(英: Beat Generation)は、1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称。ビートニク(Beatnik)と呼ばれる事もある。生年でいうと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。
最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグそしてウィリアム・バロウズを初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られるようになった。またポエトリー・リーディングの活動も有名である。
語源[編集]
ビート・ジェネレーションという語は、1948年前後に「ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる非遵法者の若者たち」を総称する語として生まれた。1952年にニューヨーク・タイムズ誌に掲載された、小説家のジョン・クレロン・ホルムズ のエッセイ『これがビート・ジェネレーションだ』(This is the Beat Generation)と、彼の小説『ゴー』(Go)が、この語が一般のメディアに出た最初で、この言葉を思いついたのはジャック・ケルアックだといわれる。
初期は、主にハーバート・ハンケの一味を指し、「人生に疲れた奴ら」(tired)や「どん底人生を送る奴ら」(down and out)という負の意味しか持たなかったが、後にジャック・ケルアックが、「アップ・ビートで行こうぜ!」(upbeat)、「幸せをあなたに!」(beatific)、「ノリノリだぜィ」(on the beat)と正の意味をもたせるようになった。
歴史[編集]
- 1914年 - ウィリアム・バロウズ生誕。
- 1922年 - ジャック・ケルアック生誕。
- 1926年 - アレン・ギンズバーグ生誕。
- 1944年 - デヴィッド・カーメラー死亡事件の被疑者ルシアン・カーの共通の知人であったギンズバーグ、バロウズ、ケルアックがニューヨークで出会う。バロウズとケルアックはこの事件を題材に『そしてカバたちはタンクで茹で死に』を共著し、1945年に完成するが未発刊。この作品はバロウズの死後にアンソロジーの一編として発刊された。ケルアックはこの事件の重要証人として拘留中にエディー・パーカーと結婚。バロウズもまたジョーン・ボルマーと同棲を始め、そこにケルアック夫妻が転がり込んできて、アパートの一室での奇妙な共同生活が始まるが、それはすぐに崩壊する。ケルアックは数ヶ月でエディー・パーカーとの結婚生活が破綻し、バロウズもまたハーバート・ハンケの影響でモルヒネ常習者になった。ケルアックはギンズバーグの家に転がり込んだ。
- 1945年 - ギンズバーグが既に放校処分になっていたケルアックを部屋にかくまった件と寄宿舎の窓に過激な言葉を書き付けた件で、コロンビア大学を放校処分になる(のちに復学)。
- 1946年 - バロウズがボルマーと彼女の娘とともに、テキサス州のニューウェーベリーに転居する。ニール・キャサディ、ケルアックと出会う。ケルアック、『町と街(The Town & The City)』を書く。ケルアックの父が死去。
- 1947年 - ギンズバーグ、ケルアック、キャサディ、コロラド州のデンバーでともに一夏を過ごす。キャサディ、キャロライン・ロビンソンと出会う。ギンズバーグとキャサディがギンズバーグ家を訪問。バロウズ、二ヶ月ニューヨーク、ダカール(セネガル)を旅行。ケルアック、サンフランシスコを小旅行。バロウズとボルマーの間に第一子が誕生。
- 1948年 - バロウズがケンタッキー州レキシントンのアメリカ合衆国麻薬患者更生センターに一時的に入所する。ジョン・クレロン・ホルムズ、ケルアック、ギンズバーグに出会う。ギンズバーグ、コロンビア大を卒業。臨時の仕事としてウィリアム・ブレイクのヴィジョン[要曖昧さ回避]に関する書籍の研究に着手する。ケルアック、キャサディと旅行。
- 1949年 - ケルアック、キャサディ、ルゥアン・キャサディ、アル・ヒンクルがルイジアナ州にバロウズを訪ねる。バロウズ、麻薬と拳銃の不法所持で逮捕され、メキシコシティに移送。のちに定住し、メキシコシティ大学で学び始める。ギンズバーグ、ハンケによって盗品が部屋に蓄えられていたこと/それを隠蔽しようとしたことで逮捕され、ニューヨーク州立精神病院に8ヶ月入院させられる。ここでカール・ソロモンに出会う。出所後、ニュージャージー州で父親と同居し、そこでウィリアム・カーロス・ウィリアムズと出会う。
- 1950年 - バロウズ、『ジャンキー』(Junkie)に着手。原稿をたびたびギンズバーグに送る。ケルアック、『町と街』(The Town & The City)が出版され、作家デビュー。ジョーン・ハーバティと結婚するが半年で破局。デンヴァーで傷心旅行ののち、キャサディとともにメキシコ・シティにバロウズを訪ねる。キャサディ、ケルアックとバロウズの影響を受け、『ジョーン・アンダーソンへの手紙』(Joan Anderson Letter)を書く。完成するが未発刊。
- 1951年 - ギンズバーグ、ケルアック、ニューヨークでグレゴリー・コーソに出会う。ケルアック、『路上』(On The Road)を書く。バロウズ、過失による発砲でボルマーを殺害。ケルアック、仏教に興味を持ち始める。
- 1952年 - ケルアック、『コーディの幻想』(Visions Of Cody)を完成し、キャサディ、ロビンソンとサンフランシスコで共同生活を始める。ジャン・ケルアック生誕。メキシコ・シティにバロウズを訪ね、ともに一夏を過ごし、ケルアックは『ドクター・サックス』(Dr.SAX)、バロウズは『おかま』(Queer)を書く。バロウズはメキシコ政府から「危険外国人滞留者」と通告を受け、メキシコを離れ、放浪の旅に出る。
- 1953年 - バロウズ、中央アメリカ・南アメリカを旅行。旅先でギンズバーグと往復書簡を交わす。『ジャンキー』(Junkie)が出版され、作家デビュー。作家の肩書きを得て初めての作品『ルーズベルト就任顛末記』[1](Roosevelt After Inaugration)を書く。ケルアック、ニューヨークで『マギー・キャシティ』(Maggie Cassidy)、『地下街の人びと』(The Subterraneans)を書く。ギンズバーグ、ケルアック、バロウズ、短期間ニューヨークで共同生活。ギンズバーグとバロウズ、アイリーン・リーとアラン・アンセンの協力を得て、旅行の際の往復書簡『麻薬書簡』(The Yage Letters)を編纂する。バロウズ、モロッコのタンジールに移住。麻薬中毒患者の記録『裸のランチ』(Naked Lunch)を書き始める。ゲイリー・スナイダーがカリフォルニア大学バークレー校に入学する。
- 1969年 - ジャック・ケルアック死去。
- 1997年 - アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ死去。
- 2001年 - グレゴリー・コーソ死去。
代表的な作品[編集]
映画[編集]
参考文献[編集]
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- アーサー&キット・ナイト 『The Beat Vision』
- 現代詩手帖 1988年1月増刊号
- 佐野元春 『THIS』
関連項目[編集]
- ヒッピー
- ニール・ヤング
- ジョン・レノン
- ボブ・ディラン
- グレイトフル・デッド
- ジャニス・ジョプリン
- ジミ・ヘンドリックス
- ジェファーソン・エアプレイン
- ティモシー・リアリー
- ラルフ・ネーダー
- ケン・キージー
- ジャズ
- カウンター・カルチャー
- ゲーリー・スナイダー
- ニール・キャサディ
- いちご白書
- イージー・ライダー
- 俺たちに明日はない
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脚注[編集]
- ^ 山形浩雄訳『現代詩手帳』1997年11月。pp10-26