風の歌を聴け

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風の歌を聴け
著者 村上春樹
イラスト 佐々木マキ
発行日 1979年7月23日
発行元 講談社
ジャンル 小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本
ページ数 202
コード ISBN 4-06-116367-1
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風の歌を聴け』 (かぜのうたをきけ) は、村上春樹の1作目の長編小説

1981年大森一樹の監督で映画化されている。

概要[編集]

1979年4月発表の第22回群像新人文学賞受賞を受けて、同年5月発売の『群像』6月号に掲載された。同年7月23日、講談社より単行本化された[1]。表紙の絵は佐々木マキ。本文挿絵は村上自身が描いた[注 1]。1982年7月12日、講談社文庫として文庫化された[3]。2004年9月9日、文庫の新装版が出版された[4]

タイトルは、トルーマン・カポーティの短編小説 "Shut a Final Door" (「最後のドアを閉じろ」)の最後の一行「Think of nothing things, think of wind」から取られた[5][6]。なお、群像新人文学賞応募時のタイトルは「Happy Birthday and White Christmas」[7]であった。この言葉は表紙の上部に小さく書かれている。

当時の村上春樹と同じく1978年に29歳になった「僕」が、1970年21歳の時の8月8日から8月26日までの18日間の物語を記す、という形をとり、40の断章と、虚構を含むあとがき[注 2]から成る。「鼠三部作」の1作目[注 3]

2005年時点で、単行本・文庫本を合わせて180万部以上が発行されている。

初期の長編2作は講談社英語文庫の英訳版(Hear the Wind Sing』と『Pinball, 1973』)が存在するにもかかわらず、村上自身が同2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価しており、長い間日本国外での英訳版の刊行は一切行われていなかった[8]。しかし2015年8月4日にテッド・グーセンの新訳により、『1973年のピンボール』との合本でHarvill Seckerから出版された。また同日、オーディオブック版もRandom House Audioから発売された[9][10]

2016年7月1日電子書籍版が配信開始。

執筆の背景[編集]

1978年4月1日明治神宮野球場で行われたプロ野球開幕戦(広島ヤクルト戦)を観戦中、村上は突然小説を書くことを思い立つ。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが二塁打を打った瞬間のことだったという[11][12]。当時ジャズ喫茶を経営していた村上は、真夜中に1時間ずつ4か月間かけてこの小説を完成させた。村上にとってまったくの処女作である。

妻である陽子の「つまらない」という感想に従って、頭から全体的に書き直している[13]。また、後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章が書きたかっただけで、あとはそれを展開させただけだったと語っている。村上自身は冒頭の小説を大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという[14]。最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなったとも述べている[15]

村上はエッセイの中でこう述べている。「『風の歌を聴け』という最初の小説を書いたとき、もしこの本を映画にするなら、タイトルバックに流れる音楽は『ムーンライト・セレナーデ』がいいだろうなとふと思ったことを覚えている。そこにはエアポケット的と言ってもいい、不思議に擬古的な空気がある。僕の頭の中で、その時代の神戸の風景はどこかしら『ムーンライト・セレナーデ』的なのだ」[16]

文学賞選考における評価[編集]

文学賞 結果 選評など
第22回群像新人文学賞
(1979年4月発表)
受賞
  • 全員から支持を得て受賞。特に丸谷才一と吉行淳之介からは高い評価を受けた[注 4]
  • しかし講談社の内部では「こんなちゃらちゃらした小説は文学じゃない」[18]という声があり、出版部長にも受け入れられなかったという。
第81回芥川賞
(1979年7月発表)
候補のみ
  • 丸谷才一の選評。「もしもこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあい大きいやうに思ふ」
  • 瀧井孝作の選評。「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。(中略)しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った」
  • 大江健三郎の選評。「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた」
第1回野間文芸新人賞
(1979年12月発表)
候補のみ

あらすじ[編集]

20代最後の年を迎えた「僕」は、アメリカの作家デレク・ハートフィールドについて考え、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら、1970年夏の物語を語りはじめる。

東京の大学に通う僕は、夏休みに港のある街に帰省した。大学で知り合い、付き合っていた女性は春に自殺してしまった。夏休みの間、僕はジェイズ・バーで、友人の「鼠」と、とりつかれたようにビールを飲み続けた。

僕は、バーの洗面所に倒れていた女性を介抱し、家まで送った。彼女は左の小指がなかった。しばらくして、たまたま入ったレコード屋で、店員の彼女に再会した。その後、彼女から電話が来て、何度か会うようになった。一方、鼠はある女性[注 5]のことで悩んでいる様子だが、僕に相談しようとはしない。

小指のない女の子と僕は港の近くにあるレストランで食事をし、夕暮れの中を倉庫街に沿って歩いた。彼女は「一人でじっとしていると、いろんな人が話しかけてくるのが聞こえる」と言う。そしてアパートについたとき、中絶したばかりであることを僕に告げた。

冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋を辞め、アパートも引き払っていた。

現在の僕は結婚し、東京で暮らしている。鼠はまだ小説を書き続けている。毎年クリスマスに彼の小説のコピーが僕のもとに送られる。

登場人物[編集]

作中の書き手であり語り手1948年12月24日生まれ(村上は1949年1月12日生まれ)。大学では生物学専攻。帰省中である。
9月生まれ。「僕」と大学入学の年に出会い、チームを組んだ。屋上に温室のある、三階建ての家に住む。
ジェイ
ジェイズ・バーバーテンダー中国人。「僕」曰く、自分よりも日本語が上手。
小指のない女の子
1月10日生まれ。8歳の時に左手の小指をなくした。双子の妹がいる。レコード店で働いている。
高校時代のクラス・メートの女の子
高校時代、ビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸してくれた。ラジオのリクエスト番組で同曲を「僕」にプレゼントする。1970年3月、大学を病気療養のため退学している。
病気の女の子
17歳。脊椎の神経の病気で、3年間寝たきりの生活を送っている。
3人の叔父
一人はデレク・ハートフィールドの本を僕にくれた。その3年後に腸の癌で死亡。一人は終戦の2日後上海で自分で埋めた地雷を踏み死亡。一人は手品師として全国の温泉地を回っている。
僕が寝た3人の女の子
1人目は、高校のクラスメイト。高校を卒業し、数ヶ月後に別れる。2人目は、地下鉄の新宿駅で出会った16歳のヒッピー。一週間ばかり僕のアパートに居候し、去る。3番目の女の子は、大学の図書館で知り合った仏文科の学生。翌年の春休みに林で首を吊って自殺する。
ラジオN・E・BのDJ
土曜の夜7時から始まる2時間番組「ポップス・テレフォン・リクエスト」を担当している。自称「犬の漫才師」。終盤で「僕は・君たちが・好きだ」とリスナーに語りかける。[注 6]
デレク・ハートフィールド
作家。宇宙人や化け物の登場する小説を膨大に執筆し、のちに投身自殺する。「僕」は文章の多くを彼に学んだ。
発表当時はインターネット等もなく、ハートフィールドが実在か架空なのかが曖昧だった。大学図書館などでは「ハートフィールドの著作を読みたい」というリクエストが多く寄せられ司書を困惑させたという。(久保輝巳著『図書館司書という仕事』の「1章 ある図書館司書の生活」はこのエピソードを描いたものである)。

登場する文化・風俗[編集]

音楽

「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」 ブルック・ベントンが1970年に歌ったヒット曲。作者はトニー・ジョー・ホワイト。「ポップス・テレフォン・リクエスト」でかかる[20]
「フール・ストップ・ザ・レイン」 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルが1970年1月に発表したシングル曲(Who'll Stop the Rain)。のちにアルバム『コスモズ・ファクトリー』に収録された。「ポップス・テレフォン・リクエスト」でかかる[20]
後述するように『群像』掲載時はローリング・ストーンズの「ブラウン・シュガー」だったが、単行本化の際「フール・ストップ・ザ・レイン」に差し替えられた。
「カリフォルニア・ガールズ」 ザ・ビーチ・ボーイズが1965年に発表した曲。アルバム『サマー・デイズ』からシングル・カットされた。村上が訳した歌詞の一部が本文に登場する[21]
ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番 小指のない女の子が勤めるレコード店で登場する。「僕」は差し出されたヴィルヘルム・バックハウスの盤とグレン・グールドの盤からグールドの盤を選ぶ[22]
ナッシュヴィル・スカイライン ボブ・ディランが1969年に発表したアルバム。「僕」は電話の受話器から「ナッシュヴィル・スカイライン」が聴こえると書いているが[23]、正確には同アルバムに「ナッシュヴィル・スカイライン」という曲は収録されていない。なお2曲目に収録されている「ナッシュヴィル・スカイライン・ラグ」はインストゥルメンタル曲。
心の届かぬラヴ・レター エルヴィス・プレスリーが1962年に歌った曲。全米チャート2位を記録した。映画『ガール!ガール!ガール!』の挿入歌でもある。村上が訳した歌詞の一部が本文に登場する[24]
エヴリデイ・ピープル[注 7] スライ&ザ・ファミリー・ストーンが1968年に発表した曲。翌年、全米チャート1位となる。ジェイズ・バーのジュークボックスでかかる[26]
ウッドストック ジョニ・ミッチェルが書いた曲。ジョニのアルバム『レディズ・オブ・ザ・キャニオン』(1970年3月)とクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバム『デジャ・ヴ』(1970年3月)にそれぞれ収録される。後者のバージョンはシングルカットされ、同グループの代表曲の一つとなった。ジェイズ・バーのジュークボックスでかかる[26]
スピリット・イン・ザ・スカイ 米国のシンガーソングライターのノーマン・グリーンバウムが1969年に発表した曲。ジェイズ・バーのジュークボックスでかかる[26]
ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール エディ・ホールマンが1969年に発表した曲。ルビー&ザ・ロマンティックスが1963年に歌った「Hey There Lonely Boy」をホールマンがカバーしヒットした。ジェイズ・バーのジュークボックスでかかる[26]
くよくよするなよ ボブ・ディランが1963年に発表した曲。原題は「Don't Think Twice, It's All Right」。同年にピーター・ポール&マリーがカバーしたバージョンがヒットした。
「そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている。(中略) 今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。『もう何も考えるな。終わったことじゃないか。』」[27]
グッド・ラック・チャーム エルヴィス・プレスリーが1962年に歌った曲。全米チャート1位を記録した。物語の終盤、「ポップス・テレフォン・リクエスト」でかかる[28]

その他

フィアット・600 1955年から1969年の間に生産されたイタリアの乗用車。鼠の乗る車[29]
リチャード・バートン 英国の映画俳優。「僕」と鼠は泥酔して車を石柱にぶつける。「僕たちはフィアットの屋根に並んで腰を下ろしたまま、白み始めた空を見上げ、黙って何本か煙草を吸った。僕は何故かリチャード・バートンの主演した戦車映画を思い出した」とある[30]
なおバートンの主演した戦車映画は『砂漠の鼠』(1953年)と『ロンメル軍団を叩け』(1971年)の2本。本書の舞台が1970年であることから「僕」が述べているのは前者であるものと推測される。
感情教育 ギュスターヴ・フローベールの長編小説。傍に『感情教育』を置いている「僕」に鼠が「何故本ばかり読む?」と問う。「僕」は「フローベルがもう死んじまった人間だからさ」と答える[31]
ギムレット ジンベースのカクテル。グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た30歳ばかりの女がジェイズ・バーで飲む酒[32]
ロジェ・ヴァディム フランス出身の映画監督。鼠は「僕」に「『私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する。』知ってるかい?」と言う。鼠によればこの言葉はヴァディムの言葉だという[33]
ジュール・ミシュレ 19世紀のフランスの歴史家。ミシュレの『魔女』の一節が本文に引用されている。翻訳者(篠田浩一郎)の名前も明記されている[34]
トライアンフTR III トライアンフ・TRは、英国のトライアンフが1953年から1981年まで生産したスポーツカーのシリーズ名。現在の鼠の車[35]
コンボイ サム・ペキンパー監督の1978年の映画。「僕」の妻はペキンパーの映画の中では『コンボイ』が最高だと言う[36]
『尼僧ヨアンナ』 ポーランドの映画監督イェジー・カヴァレロヴィチが1961年に製作した映画。原作はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの同名の小説。
「ペキンパー以外の映画では、僕は『灰とダイヤモンド』が好きだし、彼女は『尼僧ヨアンナ』が好きだ」と本文に記されている[36]

『群像』版と単行本と『村上春樹全作品』の本文異同[編集]

以下は『群像』1979年6月号掲載版と単行本と『村上春樹全作品1979~1989』の本文異同である(主なもののみ)。山﨑眞紀子著『村上春樹の本文改稿研究』(若草書房、2008年1月)に拠った。

著者自身が描いたTシャツの挿絵は、『群像』版、単行本、『村上春樹全作品』版、それぞれすべて異なる[2]

『群像』 単行本 『村上春樹全作品1979~1989』
構いませんよ。 構いませんよ。おかげでずいぶん体が軽くなった 同左
僕はジェイを呼んで勘定を払った。 彼女が消えた後も僕の質問は答えのないまま、しばらく空中をさまよっていた。
ビールを半分飲んでからジェイを呼んで勘定を払った。
同左
「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」 同左 「雨のジョージア」[注 8]
ローリング・ストーンズ「ブラウン・シュガー」 クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、「フール・ストップ・ザ・レイン」 同左
「カリフォルニア・ガール」 「カリフォルニア・ガールズ」 同左
鼠はガードレールに腰かけてカザンザキスの 同左 鼠はガードレールに腰かけてカザンツァキスの[注 9]
なんとなく損な星まわりらしいな。 なんとなく損な星まわりらしいな。イエス・キリストと同じだ 同左
なし 「ハートフィールド、再び………(あとがきにかえて)」全文 なし

翻訳[編集]

翻訳言語 翻訳者 発行日 発行元
英語 アルフレッド・バーンバウム 1987年2月 講談社英語文庫
テッド・グーセン 2015年8月4日 Harvill Secker
フランス語 Hélène Morita 2016年1月16日 Belfond
ドイツ語 Ursula Gräfe 2015年5月20日 DuMont Buchverlag
イタリア語 Antonietta Pastore 2016年5月24日 Einaudi
スペイン語 Lourdes Porta Fuentes 2015年10月1日 Tusquets Editores
ポルトガル語 Maria João Lourenço 2016年5月31日 Casa das Letras
ノルウェー語 Yngve Johan Larsen 2015年 Pax forlag
ポーランド語 Anna Zielińska-Elliott 2014年5月 Muza
ロシア語 Вадим Смоленский 2002年 Eksmo
中国語 (繁体字) 頼明珠 1992年2月25日 時報文化
中国語 (簡体字) 林少華 2001年8月 上海訳文出版社
韓国語 ユン・ソンウォン[37] 1991年 漢陽出版
金春美(キム・チュンミ) 1991年8月26日 漢陽出版
金蘭周(キム・ナンジュ) 1996年 열림원
インドネシア語 Jonjon Johana 2008年10月 KPG
タイ語 นพดล เวชสวัสดิ์ 2002年12月 สำนักพิมพ์แม่ไก่ขยัน

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ラジオN・E・Bから送られて来たTシャツの挿絵は、『群像』版、単行本、『村上春樹全作品』版、それぞれすべて異なる[2]
  2. ^ あとがき「ハートフィールド、再び………(あとがきにかえて)」は『群像』掲載時にはなかった。単行本に付け加えられた文章であるが、『村上春樹全作品1979~1989』版では削除されている。
  3. ^ 「鼠三部作」は英語圏では「Trilogy of the Rat」と呼ばれている。
  4. ^ 1979年5月8日に行われた贈呈式で村上が述べた挨拶について、丸谷才一は次のように書いている。「彼はロス・マクドナルドの探偵小説が大好きで、その名探偵リュウ・アーチャーのファンのファンなので、将来小説家になつたら、ぜひ村上龍といふ筆名で書かうと思つてゐた。ところが先に村上龍氏が小説家として登場してしまつたので、村上春樹でゆくしかなくなつて非常に残念だ、といふ話だった。受賞の挨拶でこのくらゐ人を喰つた話ができる新人は、警戒すべきである」[17]
  5. ^ 斎藤美奈子「妊娠小説」、石原千秋「謎とき 村上春樹」にこの女性が誰かについての言及がある。
  6. ^ この言葉について村上は次のように語っている。「人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人が理解しあうことなんて不可能です。それは絶対的な真実です。僕らはみんなスプートニク衛星に乗って、地球のまわりをぐるぐるまわって、そのうちにどこかに消えていくライカ犬みたいなものです。でも『風の歌を聴け』に、たしかディスクジョッキーが出てきましたよね。彼が『僕は君たちが好きだ』というとき(たしかそう言いましたよね)、彼は本気でそう言っているんです。そういうことって、何かの役に立つと僕は思うんです。そう思いませんか?」[19]
  7. ^ ダンス・ダンス・ダンス』に村上が訳した「エヴリデイ・ピープル」の歌詞が出てくる。また作中、語り手の「僕」は五反田君に向かって同曲の歌詞を引用する[25]
  8. ^ 2004年9月に出版された改版の文庫は、単行本と同じく「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」。
  9. ^ 2004年9月に出版された改版の文庫は、単行本と同じく「カザンザキス」。

出典[編集]

  1. ^ 『風の歌を聴け』(村上春樹)|講談社BOOK倶楽部
  2. ^ a b 山﨑眞紀子『村上春樹の本文改稿研究』若草書房、2008年1月、44頁。
  3. ^ 『風の歌を聴け』(村上春樹, 佐々木マキ):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部
  4. ^ 『風の歌を聴け』(村上春樹):講談社文庫(新装版)|講談社BOOK倶楽部
  5. ^ サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3マガジンハウス、2012年7月、137頁。
  6. ^ 村上春樹 雑文集新潮社、2011年1月、344頁。
  7. ^ 講談社100周年記念企画 この1冊!:『風の歌を聴け』講談社BOOK倶楽部公式サイト
  8. ^ 都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)
  9. ^ “Haruki Murakami's first novel to be retranslated and republished in English”. ガーディアン. (2014年9月5日). http://www.theguardian.com/books/2014/sep/05/haruki-murakami-first-novel-retranslated-english-hear-the-wind-sing 2014年9月18日閲覧。 
  10. ^ Hear the Wind Sing by Haruki Murakami - Random House Audio
  11. ^ 『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋、2007年10月、45-46頁。
  12. ^ 『やがて哀しき外国語』講談社文庫、219頁。
  13. ^ 村上春樹『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?朝日新聞社、2006年3月、141-142頁。
  14. ^ 宝島』1983年11月号 「宝島ロングインタビュー」。
  15. ^ 河合隼雄『こころの声を聴く 河合隼雄対話集新潮社、1995年1月、215頁。
  16. ^ ポートレイト・イン・ジャズ』新潮文庫、2008年2月、201-202頁。
  17. ^ 丸谷才一『挨拶はむづかしい』朝日新聞社、1985年9月、91頁。
  18. ^ 村上ラヂオ』新潮文庫、108頁。
  19. ^ 少年カフカ新潮社、2003年6月、245頁。
  20. ^ a b 本書、講談社文庫、旧版、53頁。
  21. ^ 本書、講談社文庫、旧版、59-60頁。
  22. ^ 本書、講談社文庫、旧版、62頁。
  23. ^ 本書、講談社文庫、旧版、70頁。
  24. ^ 本書、講談社文庫、旧版、92頁。
  25. ^ ダンス・ダンス・ダンス』、下巻、講談社文庫、旧版、35頁、51頁、165頁。
  26. ^ a b c d 本書、講談社文庫、旧版、95頁。
  27. ^ 本書、講談社文庫、旧版、110頁。
  28. ^ 本書、講談社文庫、旧版、144頁。
  29. ^ 本書、講談社文庫、旧版、18頁。
  30. ^ 本書、講談社文庫、旧版、19頁。
  31. ^ 本書、講談社文庫、旧版、22頁。
  32. ^ 本書、講談社文庫、旧版、45-49頁。
  33. ^ 本書、講談社文庫、旧版、65頁。
  34. ^ 本書、講談社文庫、旧版、82頁。
  35. ^ 本書、講談社文庫、旧版、103頁。
  36. ^ a b 本書、講談社文庫、旧版、148頁。
  37. ^ スメルジャコフ対織田信長家臣団』朝日新聞社、2001年4月、村上作品一覧・海外編。

関連項目[編集]