中島らも

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中島 らも(なかじま らも、1952年4月3日 - 2004年7月26日[1])は、兵庫県尼崎市出身[1]小説家劇作家随筆家広告プランナー、放送作家ラジオパーソナリティミュージシャン[1]。本名は中島 裕之(なかじま ゆうし)[1]

広告代理店社員のコピーライター[1]としてキャリアをスタートさせ、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを主宰し、俳優としても活動した[1]ほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長[2]を自称した。

ペンネームの由来は、無声映画時代の剣戟俳優羅門光三郎から[3][4][5]。活動当初は「羅門」「Ramon」「らもん」等のペンネームで雑誌にの投稿をしており、仲間内でも「らもん」を名乗っていたが「読者に名前を覚えてもらいやすいように」と1982年に「らも」に改名した[3]。本稿では名の表記を、原則として「らも」で統一する。一男一女の父で、長女は作家の中島さなえ

経歴[編集]

生い立ち[編集]

兵庫県尼崎市の国鉄(現JR西日本立花駅近く[6]で、2人兄弟の次男として生を受ける。後にらもは「躁鬱病は父親から、アル中は叔父から受け継いだ」と語っている。父親は開業歯科医をしていた[7]。後のらもと同じく、父親も躁鬱病を患っていたといい、それに起因すると思われる奇行を度々繰り返していた(小学生だったらもに突然「裕ちゃん、今日は太陽が西から昇る」と言い出しそのまま入院する、自宅の庭にローラースケート場やプール[6]を突発的に自作する、大量の砂糖を備蓄する、弓を始める、突然宗派を変えるなど)。また叔父(父の実兄)は酒販店を経営していたが失敗して「浮浪者同然[7]」になり、泥酔して中島家に金の無心に来て断られては玄関先で暴れていたという。

尼崎市立七松小学校に入学[3]。10歳の時、母親の勧めで神戸市立本山第一小学校に転入[3]。スポーツ嫌いで、友人の野球の誘いを断って偉人伝を読むような子供だったという[6]。また、将来は漫画家になりたいと思っていた[8]。成長につれ、貸本を通じ、白土三平などの漫画や、山田風太郎などの小説に親しむ[3]

学生時代[編集]

名門進学校の灘中学校に、約150人の全合格者中8位[9][10]の高成績で合格。ある教師の一言から自分を取り巻いている環境に幻滅し、「親や先生に言われるままの勉強ロボット[9]」になっていたことに気付いたらもは、灘中学校から灘高校在学中にかけ、ギター演奏およびバンド活動(14歳から16歳にかけて組んでいた最初のバンド名は、関西弁で「死んでしまえ」を意味する「ごねさらせ」であったという[8][11]。また、弾き語りでラジオ番組『歌え! MBSヤングタウン』に出演し[12]、「ジンとクスリ[13]」という曲目を披露した。同時にこのころ、アルバイトで芦屋市スナックの弾き語り出演[14]や、大阪・キタナイトクラブ「課長」の専属バンドマン[13][15]などを経験している)、漫画投稿(24ページの長編劇画[3]で、『月刊漫画ガロ』の新人マンガ賞の入賞が内定したものの、編集者に「長いのでページ数を半分にしてくれ[8]」と言われて「コンが尽き」、掲載を断念している)、深夜ラジオB級映画[16]自慰、本の窃盗[17]に没頭。そして、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー[18]や、ヒッピームーブメント[19]に衝撃を受け、たばこ、そして薬物にも手を出し始める。これらの「悪さ[10]」のために、成績が急降下。授業もテストも受けずに「番外地[10]」で灘高校を卒業することになった。

神戸YMCA予備校[20][21]の受講生となるも、同校に顔を出したのは数回で、同校が所在する神戸市の繁華街・三宮パチンコ店ジャズ喫茶へと足繁く通うようになり、ジャズ喫茶にたむろする「フーテン」と共にアルコール有機溶剤[22]鎮静薬睡眠薬[23]大麻[24]に耽溺。文学論、思想について雑談するなどして過ごす。らもはこの頃のことを、「ずいぶんいろんな面白い体験をしてるはずなのだが」、将来に対する不安から「あまり覚えていない」「あまりに憂うつだったので、無意識に記憶を消し去ろうとしている」と述べている[25]

1年間のフーテン生活の後、らもはフーテン友達による大阪芸術大学芸術学部放送学科の受験に同行し、合格[21][26]。同校への入学を決める。授業にあまり出なかったため、友人はほとんどおらず、何もせず芝生に寝転がり、トンビをながめる[27]、構内に迷い込んできた犬を世話する[28]などして時間を潰していたという。この頃から急に饒舌になったかと思うと、翌日には寡黙になる、といった不安定さを見せたという。大学時代は高校在籍時から伸ばした髪が、腰まで届くほどの長髪になる。1975年に大学を卒業。卒業論文のテーマは「放送倫理規定[3]」であった。

この間の1970年神戸山手女子短期大学の学生だった(のち、学校図書館司書となる[29][30])長谷部美代子と、三宮のジャズ喫茶「バンビ」で知り合い[3]、4年間の交際の末、1975年[29]に結婚。2LDKのアパート[3]で新婚生活をスタートさせた。

らもは学生と主夫の兼業をこなしていたが[30]、夫人の妊娠のため、就職の必要が生じた[31]。しかし、らもは大学卒業間際になっても就職活動をしておらず、慌しくなる周囲を傍観しているだけであり、見かねた公認会計士の叔父の紹介[29]により、1976年[3][32]印刷会社[1]の株式会社大津屋[3]コネ就職。同社で5年間勤める。

営業マン時代[編集]

大津屋入社後、数ヶ月で仕事のシステムを覚え、広告の制作・営業を担当。新規開拓の飛び込み営業、受発注、校正見積もり不渡り手形回収差し押さえ、印刷ミスによる謝罪と何でもこなした。受け持った得意先は建築会社やボイラー会社などであった。酒が強かったらもは、親の跡目を継いだ二代目社長新地ミナミにお供として連れられ、日付が変わってからの帰宅がほとんどであった。酒の席で社長が得意先の社員の頭を太鼓に見立てて叩いたのを見たらもは、「あんな奴でも社長になれるんや」と夫人にボヤいたという。

1980年のある日[3]、会社で上司が経理の女子社員ににぎりっ屁を嗅がせ、泣かせたのを見て「この会社は長くない」と感じたらもは、取引先の社員[33][34]と一緒に雑誌『宣伝会議』主催のコピーライター養成講座に通い、藤島克彦[35]林均らに師事[36]。半年の受講で「一等賞」を8回受賞し、賞状と「ミッキーマウスの時計」をもらって講座を修了した[34][33]

この間、1976年4月[29]に長男が誕生。1978年[3]に長女を授かる。「食うに困らないように[37]」との願いを込め、息子には「穂」、娘には「苗」の字を含めた。

ヘルハウス時代[編集]

大津屋時代の1977年宝塚市[38]に月2万7千円の30年ローン[3]で一戸建ての邸宅を購入している。

1980年、「フリーのコピーライターで食っていく覚悟をきめ[34]」大津屋を退職[39]。その後、この宝塚の自宅は、「中島が暇らしい」と押しかけた友人知人の他に、「自称ミュージシャンパンクス、スキゾ、フーテン、ジャンキー山師グルーピー、不良外国人」のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。知り合いの医師から処方箋を入手してハイミナールを集めたり、酒やコデインを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達と性交渉をしたりして過ごすうちに、この家は外国人バックパッカーらの間で「ドラッグが回ってくる家」として口コミで広がるなどし、やがて「ヘルハウス[1]」と呼ばれる。ただ、この頃のらもはマリファナなどの違法薬物の持ち込みには厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな!」と叱責してもいる。

「ヘルハウス」の1ヶ月の累計宿泊者は、100人を超えた時もあり、汲み取り式便所の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったという[40]。このほか、顔にドーランを塗って夜の道路を徘徊したとか、に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたウサギが首だけになっていた[41]、といったエピソードが残っている[42]。このころの生活は、2000年に出版された自伝的な小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』の元になった[1]

また、「パンクで一発、当てるつもりで[33]」ロックバンド・PISSを結成。仲間からレコーディング費用を集めるも、レコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫した[33]

コピーライター時代[編集]

1981年、らもは藤島克彦の紹介で広告代理店の株式会社日広エージェンシーに再就職[3]

日広エージェンシーは社長の宮前賢一[43]と経理の女性、それに企画課長のらもの3人しかいない会社であった。宮前はらもを夜の繁華街に連れ出して飲み歩かせるも、勤務に対しては放任。らもは宮前から「仁義の切り方」を学んだという。

あまりにも仕事が暇なため、電柱から次の電柱まで歩く気力が無くなり「これはうつ病だ」と直感、最寄の精神科に飛び込み、渋る医師を説得してリタリンを処方してもらうことで一旦寛解したものの、依存を断ち切るために断薬し、症状を再発させている[44][45]。また、在籍末期には離人症気味になり、東京月島にあった支所(アパートの一室)にこもって仕事をおこなった[46]

かねてつ食品(現・カネテツデリカフーズ[47]をスポンサーに1982年、雑誌『宝島』に同社の広告として『啓蒙かまぼこ新聞』を企画[3]。あえて広告に不信感を持つ層をターゲットとし、スポンサーと読者=消費者が一緒になって広告上での遊びを通じてスポンサーに対する関心を持ってもらうという独特の方法で、翌1983年の『微笑家族』(『プレイガイドジャーナル』掲載)[3]とともに、注目を浴びる。

同年、テレビのあまりの下らなさに激怒したらもは、コピーライターとして書き溜めていたプレゼンを「成仏させるため」にコント用に書き直した。このコント原稿はテレビ番組『どんぶり5656』として結実した。

1984年から朝日新聞大阪本社版日曜版「若い広場」で、独特のユーモアを交えた人生相談コーナー『明るい悩み相談室』連載が始まる[1]

焼きじゃがいも事件
同連載において「祖母から焼きじゃがいも味噌をつけて食べると死ぬと言われたが事実か?」との投書に「焼きじゃがいもに味噌をつけて食べた大多数の者が高確率でいずれに至る」とこの投書を事実であると回答。「人間なのだから、焼きじゃがいもに味噌を付けたものを食べようが食べまいがいずれ死ぬのは当たり前」という意図での回答だったが、それを理解出来なかった読者から「好物なのに死ぬのか」「怖い」「冗談に決まっている」と不安と疑問の声が寄せられる。これらの投書にらもは「じゃがいもに味噌をつけて食べると確実に死ぬ。誰も避けられない(但しその時期には「個人差」がある)。」と火に油を注ぐ。朝日新聞社側が事態収束のため焼きじゃがいもに味噌をつけて食べるようらもに迫り、折れたらもが実際に食して騒動は沈静化する。

1986年6月[3]には、知人の関係する舞台のあまりの下らなさに激怒して、「笑殺軍団リリパットアーミー」を、キッチュ(現・松尾貴史)、鮫肌文殊、若木え芙(現・わかぎゑふ)、ガンジー石原ひさうちみちお桂吉朝らと結成、脚本執筆のほか、自ら出演もこなした。

作家活動[編集]

1987年、らもは宮前に独立を申し出て、快諾を受け、日広エージェンシーを退社[3]。同年7月、「有限会社中島らも事務所」を設立[3]し作家活動を本格化させる。宝塚の自宅には全く帰らなくなり、事務所で寝泊りするようになる。戯曲、エッセイ、小説、新作落語、バラエティ番組の脚本やコントなどを、多数執筆する。その「ひねくれたユーモア感覚」で、「関西独特のおかしさ」や「市井の奇人や奇現象」などを描き、多くの読者、ファンを獲得。元来、責任感が強い上に営業マン時代のクセで依頼された仕事を片っ端から引き受けていたらもは「仕事を断る仕事」として女性を電話番に雇う。

多忙な人気作家となるも、飲酒や薬物の摂取がもたらす酩酊から着想を得ていたらもは、やがて連続飲酒を繰り返すようになる。アルコール依存を自覚していたらもは極度の疲労感、食欲の減退、体重減少、嘔吐、失禁、異常な尿の色、黄疸を自覚するようになり、1988年[48]アルコール性肝炎と診断され、大阪府池田市内の病院に50日間入院[1][48][46]。後にこの体験を基に、小説『今夜、すべてのバーで』を書いている[1]

1991年[3]、「仕事はエッセイばかりで他のコピーライターに迷惑になる」とコピーライターの看板を下ろす。

晩年[編集]

1994年[3]、かつて頓挫したPISSを再結成し、ボーカルとギターを担当。2003年[3]に結成された「らも& MOTHER'S BOYS」ではボーカルとサイドギターを担当するなど、音楽のジャンルでも活動の場を広げる。その一方、リリパットアーミーを2001年[3]に「あほらしくなって[49]」退団している。

『バンド・オブ・ザ・ナイト』上梓後の一時期、処方されていた薬の副作用のため目のかすみがひどくなり、自分で文字を書き、原稿を読み返すことに支障をきたすようになったため、夫人の手を借り、口述筆記で執筆をおこなった(のちに、らもの処方箋を見た歯科医の実兄が副作用が激し過ぎると教え、減薬を行い、本が読めるまで回復)[50]。また、持病の躁鬱病に加え、ナルコレプシーを発症。これらの症状のため、時間概念の喪失、運動障害、躁状態がもたらす万能感からくる支離滅裂の言動がたびたび見られた。減薬と入院治療によるある程度の回復を繰り返すも、飲酒は続けていた。

2003年2月[1]に「オランダで尻から煙が出るほど大麻を吸ってきた」と大阪のラジオ番組で公言。この数日後、2月4日[3]麻薬及び向精神薬取締法違反、大麻取締法違反で逮捕[1]。この時の家宅捜索で、大麻のほか、冷蔵庫から干からびたマジックマッシュルームが見つかる。大阪地方裁判所での初公判では弁護士から自重するよう求められていたにも関わらず持論の「大麻開放論」を展開。同年5月26日に懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける[1]。同年の夏、自らの獄中体験をつづったエッセイ『牢屋でやせるダイエット』を出版、手錠姿でサイン会を開くなど精力的に活動を再開した。

2004年7月15日[3]、神戸市内でおこなわれた三上寛あふりらんぽのライブに飛び入り参加。終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明に飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院、15時間に及ぶ手術を行うも、脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえ出来ない状態に陥る。

入院時から意識が戻ることはなく、事前の本人の希望[51][52]に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日[3]午前8時16分に死去。享年52。

死後[編集]

故人の生前の希望で葬式は身内と近親者のみで密葬として行われた。遺骨は夫人の手で散骨され[3]、墓は建てていない。同年12月に中島らも事務所閉所[3]

親交のあった人物らによる追悼イベントがたびたび行われている(後述)。

作風・執筆傾向[編集]

  • 小説や随筆には、前述した作品のような、自身の体験に題材を取った作品が多数ある。自伝に『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』と『異人伝-中島らものやり口』がある。
  • シリアスな小説では醒めたユーモアとニヒリズムをたたえた作品が多いが、基本は浪花節的な人情噺が得意でウェットな作品を多数書いている。また多方面に関心があり、ギャグからホラー恋愛小説落語に至るまで手がけたジャンルの幅は広い。物語を書く前に、関係する資料や書籍を大量に読みあさる。
  • どんなシーンにもギャグをちりばめる傾向があり、「ついついサービス心が出てしまう」と述懐している。冗長な伏線や綿密な描写はあまり得意なようではなく、推理物の脚本を執筆している途中でトリックが書けないことに気づき呆然となった、と述べている。またポルノ描写も苦手だと語っている。
  • エッセイを書く上で「序破急」や「起承転結」といった文章を書く上での定型をあえて使わず、結論(つかみ)から入る書き方をしたり、シュールレアリスムの手法の一つデペイズマンを用いるなどしている。
  • 敬愛する作家について、バロウズセリーヌヘンリー・ミラー山田風太郎野坂昭如東海林さだおなどを挙げている。一番好きな作家はマンディアルグだという[53]
ただ、エッセイではバロウズへの賛辞的言及が多く、「ヘロインも一つの生き方」との発言などを取り上げ、賛辞を送っている。ヘロインによる影響下で書かれたバロウズの『裸のランチ』に触発され、らもは『頭の中がカユいんだ』を泥酔状態で書き上げた。

著作[編集]

広告[編集]

  • カネテツデリカフーズ
    • 「啓蒙かまぼこ新聞」(雑誌広告)
    • 「微笑家族」(雑誌広告)
    • 1983-84年おせち料理(テレビCM、新聞広告) カネテツデリカフーズ「父の日」全面広告で神戸新聞広告賞受賞
  • 尼崎市
    • 市制70周年記念(コピー)
「ぼくがすきな まちをすきな きみがすき」
  • 東宝東和
    • 映画『死霊のはらわた3 キャプテン・スーパーマーケット』(コピー)
「こんなヒーロー見たことない!
空飛べない。変身しない。でも、イザとなったら卑怯者!
ハッタリかまして泣く子も笑う、ニューヒーローの誕生だ!!」
  • 樋屋製薬
    • 樋屋奇應丸(テレビCM-スタッフ参加)

放送番組構成[編集]

単著[編集]

詩集
  • 全ての聖夜の鎖(自費出版 1979年[3])※「らもん」名義
広告集
  • 啓蒙かまぼこ新聞(ビレッジプレス 1987年12月)TCC賞準新人賞、OCC賞受賞
  • 微笑家族(ビレッジプレス 1991年8月)
  • ネリモノ広告大全 ちくわ編 (双葉文庫 1996年7月 ISBN 4-575-71073-3
  • ネリモノ広告大全 ごぼてん編 (双葉文庫 1996年7月 ISBN 4-575-71074-1
  • 株式会社日広エージェンシー企画課長中島裕之(双葉社 2005年7月 ISBN 4575298247
エッセイ
小説
アフリカ・シーンのモデルは、人類学者の長島信弘で、長島は当作の文庫版の解説も書いている。
コント・戯曲
新作落語集
対談集

共著者は括弧内。

  • 訊く(講談社 1996年4月)
  • 逢う(講談社 1996年9月)
井上陽水、チチ松村、ツイ・ハーク筒井康隆野坂昭如、松尾貴史、山田詠美山田風太郎と。
  • イッツ・オンリー・ア・トークショー(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2003年3月 ISBN 4840107572
ガンジー石原、大槻ケンヂ室井佑月、松尾貴史、仲畑貴志ムッシュかまやつ、野坂昭如と。
  • It's Only a Talkshow 2 ひそひそくすくす大爆笑(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2004年2月 ISBN 4840110425
井筒和幸本上まなみ江口寿史大槻ケンヂ山内圭哉萩尾望都チューヤンと。
柴山俊之竹井正和宇梶剛士安部譲二、本上まなみ、松尾貴史と。
  • It's Only a Talkshow 3 中島らもの誰に言うでもない、さようなら(鮫肌文殊、メディアファクトリー 2005年3月)
高田文夫山田ジャック星川京児三木俊治、ガンジー石原、松尾貴史、藤谷文子、大槻ケンヂと。
明るい悩み相談室シリーズ
  • 中島らもの明るい悩み相談室(朝日新聞社 1987年1月)
  • 中島らものもっと明るい悩み相談室(朝日新聞社 1988年12月)
  • 中島らものさらに明るい悩み相談室(朝日新聞社 1990年9月)
  • 中島らものますます明るい悩み相談室(朝日新聞社 1991年10月)
  • 中島らものばしっと明るい悩み相談室(朝日新聞社 1992年10月)
  • 中島らものつくづく明るい悩み相談室(朝日新聞社 1994年1月)
  • 中島らものやっぱり明るい悩み相談室(朝日新聞社 1995年6月)
  • 中島らもの特選明るい悩み相談室 その1・ニッポンの家庭篇(集英社文庫 2002年8月 ISBN 4-08-747475-5
  • 中島らもの特選明るい悩み相談室 その2・ニッポンの常識篇(集英社文庫 2002年9月 ISBN 4-08-747493-3
  • 中島らもの特選明るい悩み相談室 その3・ニッポンの未来篇(集英社文庫 2002年11月 ISBN 4-08-747516-6
  • 中島らもの置き土産 明るい悩み相談室(朝日文庫 2013年7月 ISBN 4-08-747475-5
その他の作品集
  • あの娘は石ころ(双葉社 1999年6月)
歌詞集、エッセイおよび戯曲『ハードロックじじい』収録。
対談集は北村想上岡龍太郎モロ師岡と。付属CDには、未放送となった『末井編集長の対談番組』中島らも出演の2回分が収録。
オムニバス
編著
  • 日本の名随筆 別巻78 毒薬(作品社ISBN 4878936584) - 自著の『哀しみの鋳型』の他、25人の随筆を収録。

他メディア化作品[編集]

映画化
  • Lie lie Lie(1997年、東映、原作「永遠も半ばを過ぎて」)
監督:中原俊 出演:佐藤浩市豊川悦司鈴木保奈美
テレビ化
  • 真・中島らも劇場 掌(1996年、毎日放送、原作「人体模型の夜」)
監督:登坂琢磨 出演:河野洋一郎濱田万葉小市慢太郎
監督:石川淳一 出演:船越英一郎筒井康隆本田博太郎
漫画化

共著[編集]

出演[編集]

テレビ
ラジオ
映画

音楽活動[編集]

ライブ
  • 1997年
    • 4月6日:筋肉少女帯のオープニングアクト
    • 4月25日:「春一番
    • 5月3日:「春一番」
    • 10月9日:「PISS」&「JIZZ MONKS」
  • 1999年
      • 5月5日:「春一番1999」
  • 12月31日:カウントダウン
  • 2000年
    • 5月4日:「春一番2000」
    • 6月3日:サナエProdused「Flying Tackle!!」PISS出演
    • 11月6日、10日:CD「PISS FACTORY」発売記念ライブ
  • 2002年
    • 5月4日:「春一番2001」
    • 5月5日:「春一番2002」
    • 5月18日:電車
    • 8月3日:MOTHER'S BOYS、大阪・ハードレインにて初ライヴ
    • 10月8日:“らも meet THE ROCKER”(全4回)
      • 第一回ゲスト:石田長生、第二回ゲスト:大槻ケンヂ、第三回ゲスト:ムッシュかまやつ
    • 10月16日:「伝説とピック」怒濤のギターライブ
  • 2003年
    • 8月3日:「らも&MOTHER'S BOYS」
    • 8月27日:大槻ケンヂLIVE『プライベート・アンプラグド』
    • 10月4日:BONE IDOL発売記念『空が落ちる日』〜おまえらをすすってやる〜

バンド[編集]

評伝[編集]

  • 中島らも烈伝(鈴木創士河出書房新社 2005年1月 ISBN 978-4-309-01688-7) - 著者はフランス文学者、翻訳家。らもとは学生時代からの友人で、らもの著作に「エス」「鈴木」「sou」という名で登場している。
  • KAWADE夢ムック 別冊文藝 中島らも(河出書房新社 2005年2月 ISBN 978-4309976914
  • 中島らも Rockin' Forever(白夜書房 2005年10月 ISBN 978-4-86191-038-8
  • らも 中島らもとの三十五年(中島美代子、集英社 2007年7月 ISBN 978-4-08-775381-3)- 中島らもと連れ添った未亡人の回想録。
  • ユリイカ 中島らもについて(青土社 2008年2月)
  • らぶれたあ オレと中島らもの6945日 鮫肌文殊 講談社 2016年11月23日 ISBN 978-4062203609

追悼イベント[編集]

  • 2004年
    • 8月27日:大槻ケンヂLIVE『プライベート・アンプラグド』
    • 10月14日:中島らも追悼ライブ
  • 「うたっておどってさわいでくれ〜RAMO REAL PARTY〜」
2014年7月に『中島らもメモリアルWEEK 2014』と題して親交のあった芸能関係者を招いたコント、朗読会、トークショー、音楽ライブ、落語会、らも原作・出演の映画上演会などが行われた。

関連項目[編集]

  • 兵庫県出身の人物一覧
  • 双極性障害
  • 直木賞 - 候補になった『人体模型の夜』『ガダラの豚』『永遠も半ばを過ぎて』の3作で選外。作風が当時の選考委員の好みに合わなかったことが一因と言われ、らもは事務所の社員から「オッチー」というあだ名を授かった。
関連人物

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中島 らも コトバンク - 典拠は小学館デジタル大辞泉』、講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』
  2. ^ 『とほほのほ』(双葉文庫)、東海林さだお『のほほん行進曲』(文春文庫)内の東海林とらもの対談など。美食を追求する風潮に抵抗し、飲食店として致命的な不味さの料理を愛でて批評する会。会員は発起人の本人のみであった。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『異人伝』(講談社文庫)pp.252-267 「中島らも略年譜」
  4. ^ 『あの娘は石ころ』(双葉文庫)p.140
  5. ^ 『逢う』(講談社文庫)、筒井康隆との対談より
  6. ^ a b c 『異人伝』(講談社文庫)pp.18-19
  7. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)pp.54-55
  8. ^ a b c 『異人伝』(講談社文庫)pp.48-51
  9. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)p.36
  10. ^ a b c 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.184
  11. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.32-34
  12. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.37-38
  13. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)pp.71-73
  14. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.174-176
  15. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.178-182
  16. ^ 『あの娘は石ころ』(双葉文庫)pp.144-146
  17. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.46
  18. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.59
  19. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.41
  20. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.188
  21. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)p.43
  22. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.138-148
  23. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.16-26
  24. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.149-161
  25. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.190
  26. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.202-211
  27. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.214
  28. ^ 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)p.222
  29. ^ a b c d 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.227-228
  30. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)p.99
  31. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.99
  32. ^ 『あの娘は石ころ』(双葉文庫)p.108では1975年としている。
  33. ^ a b c d 『異人伝』(講談社文庫)pp.103-105
  34. ^ a b c 『あの娘は石ころ』(双葉文庫)pp.134-137
  35. ^ 大日本除虫菊の殺虫剤「キンチョール」のキャッチコピー「トンデレラ・シンデレラ」などで知られる電通大阪支社所属のコピーライター。1985年日本航空123便墜落事故で死去
  36. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.220-223
  37. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.106
  38. ^ 『異人伝』(講談社文庫)pp.96-97
  39. ^ 大津屋はらもの退社後約1年で倒産したという。
  40. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)p.23
  41. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.37-38
  42. ^ 中島美代子著『らも 中島らもとの三十五年』、TBSテレビ『人生情報バラエティ「R30」』(2008年2月放送分)より
  43. ^ 宮前は、藤島の関西学院大学時代の1年先輩に当たる。
  44. ^ 『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫)pp.27-29
  45. ^ 2007年厚生労働省は、うつ病の治療薬からリタリンを除外している
  46. ^ a b 『異人伝』(講談社文庫)pp.152-153
  47. ^ 灘高校時代の同級生、村上健が常務を務めていた。現在は代表取締役社長
  48. ^ a b 『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 増補版』(朝日文庫)pp.86-94
  49. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.141
  50. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.159
  51. ^ 夫人の証言によれば、本人は生前から「俺は階段から落ちて死ぬ」「植物状態になったら、すぐに殺してほしい」と語っていたという
  52. ^ なお、らもは生前、「遠からず死ぬな、と思っていた。それも、ラリって階段から転げ落ちるか何か」(集英社文庫『アマニタ・パンセリナ』p.40)と書いている。
  53. ^ 『異人伝』(講談社文庫)p.147

外部リンク[編集]