昭和南海地震

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昭和南海地震
昭和南海地震の位置(日本内)
昭和南海地震
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1946年12月21日
発生時刻 4時19分(日本標準時
震央 日本の旗 日本 紀伊半島
北緯32度56分06秒
東経135度50分54秒
座標: 北緯32度56分06秒 東経135度50分54秒
震源の深さ 24km
規模    MJ8.0, MS8.2, MW8.1-8.4
最大震度    震度6:西大寺 五郷 郡家 津田 下高瀬 野根 母島
津波 4-6m
地震の種類 海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数 死者 1330人
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害
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昭和南海地震(しょうわなんかいじしん)は、1946年昭和21年)12月21日午前4時19分過ぎに潮岬南方沖(南海トラフ沿いの領域)78 km(北緯32度56.1分、東経135度50.9分)、深さ 24 kmを震源としたM8.0(Mw8.4)の地震である。1946年南海地震とも呼ばれ、単に南海地震といえばこの地震を指すことも多い[1]。南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生した。

概要[編集]

この領域では周期的に大地震(詳細は南海地震参照)が発生しており、前回の南海地震である安政南海地震から92年ぶりでの発生となった。また、この地震の2年前である1944年(昭和19年)12月7日には昭和東南海地震も起きている。その地震後に今村明恒は「宝永地震安政東海南海地震は東海・南海の両道に跨って発生したものであるが、今回の地震は東海道方面の活動のみに止まっており、今後、南海道方面の活動にも注視するべきである」と指摘していたが、当時これに耳を傾けるものはいなかった[2][3]

1940年代半ばの日本ではこの他にも1943年(昭和18年)の鳥取地震1945年(昭和20年)の三河地震といったいずれも死者数1000人以上を出している大きな地震が相次いでおり、これらの地震は太平洋戦争終戦前後における「4大地震」ともされる。

地震[編集]

地震動[編集]

昭和南海地震の震度分布

昭和21年(1946年)12月21日未明4時19分、紀伊半島沖を震源とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と解釈できるとされている[4]

高知測候所において記録された震動時間は約9分間であったが、特に激しく揺れた時間は1-2分前後であった。しかし実際の地震の体験者によれば9分間の揺れに納得する声が多く、これは他に行動することがなく、かつ恐怖心により長く感ずるためとの見方もある[5]。高知における初期微動の継続時間は18.2秒、初動方向は西北西の上動であった[6]

震度 地方 観測所
震度6 (委託観測所) 西大寺五郷郡家津田下高瀬野根・母島(沖の島
震度5 北陸地方 福井市
東海地方 岐阜市津市尾鷲市
近畿地方 彦根市洲本市橿原市和歌山市串本町
中国地方 境港市
四国地方 徳島市高松市多度津町室戸市高知市宿毛市
九州地方 大分市
震度4 関東地方 熊谷市
甲信地方 甲府市諏訪市飯田市
北陸地方 上越市敦賀市
東海地方 名古屋市亀山市伊賀市
近畿地方 宮津市京都市大阪市神戸市
中国地方 鳥取市米子市松江市浜田市隠岐の島町岡山市福山市
四国地方 松山市宇和島市
九州地方 雲仙市南阿蘇村熊本市人吉市宮崎市

中央気象台(現・気象庁)の管轄する測候所で観測された各地の震度は最大5(強震)であり、その範囲は四国をはじめ、紀伊半島・東海地方・北陸・境港・大分などと広い範囲に及んだ。北海道森町では震度1(微震)、浦河町でも震度3(弱震)を記録した。また委託観測所による地震報告では四国・淡路島・瀬戸内海沿岸および紀伊半島の一部で震度6(烈震)と報告された場所もあった[7][8]

規模[編集]

気象庁ではマグニチュードをM=8.0としている。周期約20secの表面波マグニチュードMs=8.2[9][10]、モーメントマグニチュードMw=8.1[9]あるいはMw=8.4[11][12]と推定する説もある。

地震断層パラメーターは長さL=120km、幅W=80km、すべりD=3.1m[13]、あるいはL=150km、W=70km、D=6.0m(土佐湾沖)およびL=150km、W=70km、D=3.0m(紀伊水道沖)の二つの断層[11]とする説などがある。地震モーメントはM0 = 1.5×1021N・m[13]、あるいはM0 = 4.7×1021N・m[11]、およびM0 = 5.3×1021N・m[12]などの値が推定されている。これらの M0 の数値間には3倍以上の開きがあるが、Kanamori(1972) は1944年東南海地震と同じ数値を与えており、陸上での変動の測量結果から30 - 50%程度大きな断層面が仮定される、また Ando(1982) については実際の海溝域では高角の副断層が生じ、主断層のモーメントはこれより30%小さくしてよい、などから歩み寄れる数値であるとしている[14]。なお、昭和南海地震は他の時代の南海地震と比較し規模が小さかった[15]

発震機構[編集]

単純なプレート境界地震ではなくスプレー断層(岐断層)の滑べりの複合した地震で、プレート境界の破壊は、紀伊半島沖の開始点から室戸岬の東まで伝播しそこで止まったが、引き続き室戸岬の西のスプレー断層の滑べりを伴った。この室戸岬沖の破壊が方向転換した場所には、高さ約3km、幅約50kmの沈み込んだ海山が存在していることが1999年の調査により明らかとなった[16]

地震波形に基づく推定では最初に潮岬南方約50km地点でevent1(M6 相当)が発生した後、北北西側に破壊が伝播し16秒後に紀伊水道沖でプレート境界すべりのevent2(M8.0 相当)が始まり西へ破壊が伝播し、53秒後に土佐湾沖でスプレー断層滑りのevent3(M8.0 相当)があったとされている[17][18]。しかし、観測された津波から推定される波源域と観測精度が悪く震源決定の精度に欠ける余震分布から推定される震源域にはズレが生じているとする研究がある[19]

破壊開始点である震源は1944年東南海地震と隣接して位置し、南海地震は西側へ、東南海地震は東側へそれぞれ断層の破壊が進行したと推定される[20]

余震[編集]

最大余震は本震から約1年5か月後の1948年4月18日に和歌山県南方沖で発生したM=7.0の地震だった[21]。この余震で兵庫県洲本市和歌山県串本町徳島県徳島市で最大震度4を観測した[22]

前兆現象[編集]

前震[編集]

本震の約2時間前(12月21日2時08分)に潮岬沖を震源とするM6程度の地震が発生していたとする記録があり、昭和南海地震の前震として考えられてきたが気象庁の地震調査原簿を精査した所、一日後の12月22日2時08分の地震を12月21日にも重複記載していた物であることが判明した。つまり、前震となる地震は観測されていなかった[23]

静穏化現象[編集]

木村昌三(1997-1998)らは「1926年から1959年までの地震記録を再調査した所、四国、和歌山、丹波山地での地震活動の低下が生じていた」、「この地震活動の低下のうち、四国西部は戦時体制下での観測活動の制約或いは不備及び中断が原因」と指摘していた[24]。しかし、後年の研究により戦時体制下との事情を考慮したとしても、実際に生じていた可能性が高いと見解を変更している[25]

前兆滑り(プレスリップ)による隆起[編集]

1944年東南海地震の前後に静岡県掛川付近で行われていた水準測量により、地震発生の2日程度前から前兆的な傾斜変動が観測されたとされている。同様に昭和南海地震においても、高知県の土佐清水が地震の1日半前から隆起した可能性がある[26]とされているが、終戦直後の混乱期で有ったため観測が継続的に行われていない等データが不足しており、前兆滑りが生じていたことを断定出来ない[27]

潮位変動[編集]

本震の直前には、高知県須崎市須崎湾、宇佐町宇佐湾で寄港した漁船が接岸できないほど海水位が低下していたとの証言があり[28][29][30]、1ヶ月程度前から前日までに0.3m程度の隆起が生じていた可能性がある[28]。なお、森光(1995)はこの潮位変化量を3.5m 程度と推定している[29]が、これだけの変動量を説明できる理論モデルは提唱されていない[31]。一方で、直前に浦戸湾干潟が広がっていた、あるいは1週間前頃から見られた地下水水位低下など地殻変動を示唆する記録もあり、データは不十分であるが長期の水準測量の記録から甲浦、高知、久礼、宿毛など地震後に沈降した地域は、地震前後に逆の地殻変動が示唆され、直前に急激な隆起があったとの解析結果もある[32][33]。また、潮位変動の原因を津波と考える研究者もいる[29]

井戸の水位異常[編集]

一部の限られた井戸に於いて、「本震の一週間ほど前から水位低下していた」「当日は水に濁りが生じていた」とする証言がある[29]。一方、変化は無かったとする証言もある[29]

地震後の地殻変動[編集]

室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、潮岬で 0.7 m 、室戸岬で 1.27 m 、足摺岬は 0.6m それぞれ上昇、須崎・甲浦で約 1 m 沈下。高知付近で田園15 km2(高知市付近9.3 km2須崎および宿毛でそれぞれ3.0 km2)が海面下に没し、水が引くまで半月程度かかった。 山口県美祢市(旧美祢郡別府村 (山口県)共和村)では秋吉台麓の厚東川沿いの低地に「口径 1 - 11 m 、深さ 1 - 5 m の堆積地ドリーネが150余発生した[34]」。地震後、道後温泉は38日間湧出が止まり、白浜温泉も一時的に停止した。

高知市における地盤沈下による浸水[編集]

入り口が狭く奥が広くなった形状の浦戸湾では、入り口付近の桂浜付近で 3m 程度の津波高は湾奥で 0.5cm 程度に減衰した。しかし、沈降による海面上昇の影響と地震動により河川堤防の強度低下(法面の亀裂や崩落)が生じ、数カ所で堤防が決壊し高知市内は水浸しとなった[35]

浸水被害を受けた高知市では年が明けても水が一向に引かないため高知市東部は交通機関として船が用いられる日々が続いた。一方で室戸岬付近では沖に磯が現れ、船が入港できなくなるなど逆の現象が起きていたため、地盤変動が起きているとして高知付近の地盤沈下がささやかれはじめた。当初、県や市の関係者は高潮が原因であるとして地盤沈下を否定し、「沈下か高潮か」の意見対立が始まった。原因調査のため市建設局が南国市領石を基準として測量を行った結果、高知は領石に対し23cm沈下していることが示され、その後海上保安庁水路部の調査により野根・安田・下田・月灘を結ぶ線上より 北側では沈下、南側は隆起という地盤変動の全容が明らかになった。この沈下は潮位記録によっても裏付けられており、本震以降の3年間で四国北部を中心に20~30cmの沈下が生じていたほか、瀬戸内々沿岸、紀伊水道、豊後水道でも10cm程度の沈下が観測された[36]

この高知市浦戸の沈下は、南海トラフ沿いの断層がすべることによる南海地震の発生機構を明らかにし、歴代の南海地震である宝永地震や安政南海地震も同様の地盤変動が起きていることを示すものであった[37][38]

浦戸では地震後1.2m沈下したが、100日後には0.4m以上回復した[6]

被害[編集]

他の年代に発生した南海地震と比較して、被害の規模は小さかったと考えられている[39]が、被害は中部以西の日本各地にわたり、高知県徳島県和歌山県を中心に死者・不明者1330名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)、不明者 113名、家屋全壊11591戸、半壊23487戸、流失1451戸、焼失2598戸。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4 - 6 m に達した。

都道府県別被害[40]
都道府県 死者 傷者 不明 全壊 半壊 流失 浸水 焼失 震害の中心
長野県 2 4
岐阜県 13 42 547 751 1 大垣
静岡県 2 296
愛知県 10 19 175 198 1 一宮
三重県 71 35 136 110 23 1435
滋賀県 3 1 8 2 堅田
大阪府 32 46 261 217 552 7080 四条畷・岸和田
兵庫県 49 59 640 602 786 3 淡路島
奈良県 6 36 20 田原本
和歌山県 187 846 74 964 2427 386 11815 2399 焼失:新宮
鳥取県 2 3 22 13 弓ヶ浜
島根県 9 14 139 308 出雲杵築
岡山県 51 187 1092 3757 児島湾等干拓地
広島県 3 49 74 1 福山等干拓地
山口県 2
徳島県 181 217 19 1329 1138 582 4578 小松島等
香川県 52 273 608 2409 1 坂出・高松埋立地
愛媛県 26 32 586 831 330 郡中
高知県 670 836 9 4865 9073 566 5608 196 高知下知・中村
福岡県 6 6
佐賀県 5 5
長崎県 2
熊本県 2 1 9 6
大分県 4 9 25 16 鶴崎
宮崎県 1 3 1165
合計 1362 2632 102 11506 21972 2109 33093 2602
数値は文献によって異なる。全半壊家屋は震害・津波によるものを区別せず。
  • 高知市は第二次世界大戦による空襲の被害を受けたばかりのところに追い討ちをかける様に災害を被った。高知市堺町のかつてデパートとして親しまれた文化ビルは壁が崩落し無惨な残骸をさらけ出した。高知市では東部の下知で震害が著しかった[40]
  • 高知県須崎市では、死者・不明者61名、全壊198戸。入野(現・黒潮町)では家屋の倒壊率が70%に及んだところもあり、地盤の影響とも考えられている[30]中村町では四万十川にかかる鉄橋の9スパン中6スパンが落下した。中村町は最大の震害を示し家屋被害率は80%以上に及び、ここでは安政南海地震、宝永地震でもやはり震害が酷かった[41]
  • 香川県高松市では、死者52名、負傷者273名、全壊608戸、半壊2,409戸[42]
  • 和歌山県では、死者・不明者269名、負傷者562名、全壊969戸、流失325戸、焼失2399戸。和歌山県内では新宮市の被害は大きく、直後に出火し約16時間延焼し、焼失2398戸、全壊600戸、半壊1408戸[43]
  • 大阪や兵庫でも倒壊家屋が生じたが、その被害のほとんどは老朽家屋やバラックなどに限られていた[40]
  • 岡山県南部の児島湾および笠岡などの干拓地では地震動に伴う液状化現象が激しく、多数の倒壊家屋が発生した[44]。児島湾周辺の藤戸や、邑久郡など干拓地では安政南海地震や宝永地震でも同様に倒壊家屋や液状化による田畑の破損があった[45]
  • 日本海側でも倒壊家屋があり、鳥取県では境港管内、弓ヶ浜半島余子村の被害が酷く[46]、島根県では出雲大社門前の杵築など島根半島付け根の軟弱地盤の被害が目立った[40]。出雲杵築は安政南海地震や宝永地震でも同様に倒壊家屋があった[47]

津波[編集]

波源域は南海トラフに沿って長さ250kmに渡り海底が隆起し、その北側に沈降域があったとされ[48]、紀伊水道沿岸で2mから4m、豊後水道沿岸で1mから1.5m[48]、波高1m以上の範囲は房総半島から九州までに及び、津波はハワイアメリカ西海岸にも達した[49]。最高潮位は串本町で6.57mを記録したほか、三重県賀田村で3.59m、徳島県浅川村で4.88m、土佐湾内で5.2mを記録している。到達時刻は、串本で約10分後(2.5m~5.5m)、三重県賀田湾で約20分後、伊豆半島南端(下田で住宅の浸水被害有り)と徳島で約40分であった。

波高は安政南海地震および宝永地震より小規模であったが、それでも甚大な被害を及ぼした。震後の第一波の到達時刻は安政南海地震や宝永地震より早かった。須崎において安政南海地震の時、古老の言い伝え(宝永地震の言伝え)として「大地震後必ず津浪が来るが、其の津浪は地震後直ぐ来るものではない。ゆっくり飯を炊くだけの余裕はあるからあわてず落付いて充分の用意をして、避難せよ」と云っていたが、この地震については震後10分も経たないうちに津波が襲来し、そのような間も無かった[6]

須崎市および土佐市宇佐など海岸各地で打ち揚げられた船が陸上へ乗り上げた。大阪港では、約2時間後に到達し80cmの潮位上昇を観測した。

外洋に面した海岸線だけでなく瀬戸内海の沿岸に於いても、堺 1.5m、呉、笠岡、洲本、宇部 1m などの津波を観測している[50]。紀伊水道と豊後水道から進入した津波は、進入から約3時間後に燧灘で会合し波高が高まったとされている。しかし、瀬戸内海の津波は急激な潮位変動を伴ったものでは無く、気象現象の高潮の様な変化で集落への浸水は無かったとされているが、急激な潮流が各所で目撃されている。また、堺・下津・宇和島の検潮記録では、津波初動が引き波みであった[48]

宏観現象[編集]

周辺地域から震源方向に発光現象を見たとの証言が多数ある。また、地震発生の数日前から直前にかけて紀伊半島から四国太平洋沿岸部において井戸の水位低下および水の枯渇が報告されている[51]

地震3日後の高知日報夕刊では、地震直前の午前4時過ぎにがけたたましく鳴き始め、付近の人々の夢を破った後、約10分後に地震が来たことが報じられた[52]

地震に遭遇した著名人[編集]

  • 森繁久彌満州から帰国した直後、徳島県海陽町の旅館にて就寝中に地震に遭遇する。宿泊客の世話をしていた男性に「ここで夜が明けるまで動かれんぞ」と厳命され、津波からの難を逃れた。しかし、この時森繁に声をかけたこの男性は津波で妻を失っている。[53]
  • 泉州山久義…新十両を決めた直後の四国巡業中に地震に遭遇した。この時に宿泊先の旅館の2階から転落したため肋骨を骨折した。

関連項目[編集]

注釈[編集]

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  51. ^ 南海地震の前の井戸水の減少について(京大防) 地震予知連絡会 会報第74巻 (PDF)
  52. ^ 四国山脈 地震と伝承
  53. ^ 『先人の教えに学ぶ 四国防災八十八話』国土交通省四国地方整備局2008年P70より。

出典[編集]

外部リンク[編集]

地震予知連絡会会報