雲仙岳

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雲仙普賢岳
Fugendake 02 Pyroplastic flow area.JPG
雲仙普賢岳
標高 1,483 m
所在地 長崎県島原市
南島原市雲仙市
位置 北緯32度45分41秒
東経130度17分56秒
種類 成層火山溶岩ドーム・常時観測火山
Project.svg プロジェクト 山
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平成新山
妙見岳
野岳と仁田峠
矢岳

雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県島原半島中央部にある火山千々石カルデラの外輪に位置する。広義では普賢岳国見岳妙見岳の三峰、野岳九千部岳矢岳高岩山絹笠山の五岳からなる山体の総称。「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。行政区分では島原市南島原市雲仙市にまたがる。狭義ではいわゆる「三峰五岳」のうちの「三峰」を指すこともある。

概要[編集]

最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)、矢岳(943m)が存在する。普賢岳や平成新山の溶岩は千々石カルデラ由来である。つまり、小浜温泉沖合いの橘湾地下のマグマだまりから供給されている[1]。主峰は普賢岳(ふげんだけ)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で平成新山(へいせいしんざん)が出来、こちらの方が標高が高くなった。また平成新山は長崎県最高峰でもある。古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。雲仙はもとは「温泉」の表記で「うんぜん」と読んでいたが、国立公園指定の際に現在の表記に改められた。大乗院満明寺行基大宝元年(701年)に開いたと伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、1869年明治2年)の神社改正[要検証 ]により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。雲仙温泉としては、1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯した延暦湯が始まりといわれている。水蒸気が噴出して硫黄(実際は硫化水素)の臭いがたちこめる光景が「地獄」と形容される。キリシタン弾圧の舞台にもなった。天気のいい日には西彼杵半島東岸および長崎半島東岸、佐賀県南部、福岡県筑後地方熊本県西部など見通しのいい場所でその姿を眺めることができる。標高が高いことから通信の要衝でもある。雲仙野岳には、長崎県防災行政無線や警察庁などの中継所が設置されている。

火山活動の歴史[編集]

 有史以前[編集]

噴火は約50万年前に始まったとされる。最初に高岳・絹笠岳・矢岳などが形成され、九干部岳火丘群となった。やがて噴火活動は北側に移動し九干部岳、吾妻岳が形成された。10万年前より、野岳、妙見岳、普賢岳の順で火山活動が推移し地形が形成されていった。

 有史以後[編集]

  • 1663-1664年の噴火 12月より普賢岳の北北東の900mに位置する飯洞岩(はんどういわ)から溶岩が流出し[2]、全長1kmにわたって森林を覆った。翌年春には普賢岳南東山腹600mの低地、九十九(つくも)島火口より出水があり[2]、安徳川原へ流れ込み氾濫が起きる[2]。死者30余名[2]
  • 1792年の噴火 1791年11月から地震があった。1792年2月10日普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった[2]。2月28日穴迫谷(あなさこだに)の琵琶の首から噴煙、土砂噴出した[2]。3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続した[2]。3月22日にはの窪からも噴煙、溶岩も流出した[2]。3月25日には古焼頭からも噴煙が上がった。普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し、全長は2.7kmとなった[2]。また1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)に雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、島原大変肥後迷惑と呼ばれる、肥前国肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という、有史以来日本最大の火山災害となった[2]。その後も噴火は継続し、6月-7月になっても時折噴煙を吹きあげた[2]

平成新山の噴火と災害[編集]

噴火活動[編集]

現在の平成新山を形成した噴火活動は、1989年(平成元年)11月からの橘湾群発地震[3][4]に始ったとされる。しかし、その後の観測データーの再検討により、実は1968年頃より雲仙火山は活動期に入っていたこと判っている[5]。最初の群発地震は1968年頃より始まり1975年まで継続した[5]。1973年には眉山付近でも震度Ⅲを最高に有感地震が11回発生している[5]。この活動の最終段階で普賢岳東側の板底(おしが谷)で大量の火山性ガスが噴出し、30本ほどの杉が被害を受けた[5]。1975年には周囲に鳥獣の死骸が散見され[5]、岩の割れ目からは高濃度の二酸化炭素が検出された[5]。この一帯は1792年の噴火のときにも火山性ガスが噴出しており[5]、この岩場は毒石と呼ばれていた[5]。1975年以降も低調ながら地震は散発的に発生しており、1979年6-9月には眉山東麓を震央とする最大震度Ⅴ相当に相当する強い揺れを筆頭に89回の有感度地震が発生している。島原温泉では溶存炭酸ガス濃度が1975年より急上昇し30%も増えた場所もあった[5]。1984年4月より橘湾で群発地震が相次ぐようになり[5]、 葉山南側付近を震央とするM5.7、震度Ⅴの地震が8月に起きている[5]。この地震を契機に島原半島の隆起が観測され始めており[5]、橘湾からのマグマ供給が始まったとされる[5]

1990年(平成2年)11月17日に山頂付近の神社脇の2か所より噴煙が立ち上り噴火が始まった。最初の噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみであった。同年12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われたが、1991年(平成3年)2月12日に再噴火、さらに4月3日4月9日と噴火を拡大していった。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日に地獄跡火口から溶岩の噴出が確認された。溶岩は粘性が高かったために流出せず火口周辺に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームは桃状に成長しやがて自重によって4つに崩壊した。溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給され、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に第1-第13ローブと命名された。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつ1995年(平成7年)3月頃まで継続した[6][7]。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動である(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。

災害の様態[編集]

雲仙岳と東側山麓のラハール
右の山肌が露出した山は眉山

噴火活動は島原半島、特に島原市深江町に大きな被害をもたらした。被害をもたらす主たる要因は火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。

島原市・深江町以外の地域については、風向きによって熊本空港で噴煙が観測され、航空機の発着に影響を与えたことなどがあった。

1991年6月3日の火砕流[編集]

特に大規模な人的被害をもたらしたのは1991年(平成3年)6月3日16時8分に発生した火砕流である[8][9] [10] [11][12]

直前の状況[編集]

水無川の土石流は5月15日に最初に発生して以来、19日、20日、21日と立て続けに発生した。島原市はその都度、水無川流域の町に対して 避難勧告[13]を行った結果、住人の避難はスムーズに行われ、人的被害は発生しなかった。

だが5月20日、普賢岳に溶岩ドームが出現すると日に日に成長を続け、5月24日には最初の火砕流が発生した。24日以降も小規模な火砕流は頻繁に発生し、その到達距離は5月26日に溶岩ドームから東方に2.5km、29日には3.0kmに達し、次第に長くなる傾向が見られた。火砕流の先端が民家から500mに迫った26日、水無川流域にある北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町に対して、島原市から火砕流の避難勧告が出された。

メディアはこの火砕流の様子を捉えるため、避難勧告地域内ではあるが、溶岩ドームから4.0kmの距離があり、さらに土石流が頻発していた水無川からも200m離れていた上、40mの高台となっていた北上木場町の県道を撮影ポイントとするようになった。この場所は普賢岳を真正面に捉えることが出来たこともあって、いつしか「正面」という呼び名が定着した。こうして最初の火砕流が発生した24日以降、「正面」には10数台もの報道関係者の車両が並ぶ状況となった。1991年当時、報道各社は紙面にカラー写真を多用し始めており、普賢岳災害においても各社はカラー写真で競い合っていた。5月28日に毎日新聞が火砕流の夜間撮影に成功すると、競争は更に激しくなった。

また火砕流が初めて鮮明な映像として記録されたことは世界中から大きな注目を集め、多くの火山学者や行政関係者も避難勧告地域に立ち入って取材・撮影を行っていた。5月28日、建設省土木研究所の職員が溶岩ドームから500m下の火砕流跡に入域して撮影した写真を公表、6月2日午後には別の学者グループが火砕流跡の先端部に入り、約1時間現場を調査、その模様を撮影し公開した。

さらに多くの見物客が噴煙を見ようと雲仙岳周辺に押しかけるようになった。特に6月2日は日曜日だったこともあり、他府県からやって来た多くの見物客が水無川の周辺に集まって火砕流を双眼鏡で覗いたりビデオカメラで撮影する姿が見られ、国道57号線では渋滞が発生するほどだった。

その一方で5月26日、朝日新聞の記者が「正面」とは別の避難勧告地域内で噴煙に巻き込まれそうになり、一時行方不明になる騒ぎが発生、安全対策が問題になった。ヘリコプターから溶岩ドームの空撮を続けていた写真部員による「水無川の砂防ダムから下は扇状地となっており、大規模な火砕流が発生すれば正面を襲う可能性が強い」との指摘もあり、朝日新聞は筒野バス停から上の範囲での張り込みを断念、代替として28日から避難勧告地域外の深江町にポイントを設け、ここからの24時間撮影に切り替えることで、「正面」付近の取材は巡回程度に留めた[14]

日本放送協会も5月下旬から避難勧告地域内からの撮影を中止し、撮影ポジションを大きく後退させたものの、5月30日、31日に民放各社が真っ赤な溶岩をアップで撮影して以来、ニュース番組の担当者が前線の撮影スタッフに映像の迫力の無さについて不満を伝えるようになった。やがて撮影スタッフの間には避難勧告地域にどんどん入って取材を行う民放への対抗意識が芽生え、6月1日に避難勧告地域が縮小されたのを契機として、再び取材ポジションを避難勧告が解除されなかった上木場地区に置いた。

上木場地区を担当する消防団は土石流の避難勧告が出された5月15日以来、南上木場町の消防団詰所、もしくは北上木場町の農業研修所に泊まり込みつつ、土石流への警戒、住人の避難誘導に当たっていた。5月29日、火砕流が頻発したため南上木場町の消防詰所から水無川下流の白谷公民館に退避したものの、6月2日、再び北上木場町の農業研修所に戻った。これには以下の理由が挙げられる。

  • 梅雨前線の活動が一時的に弱まったことで土石流発生が小康状態となり、さらに「火砕流の出てきた地域は傾斜の急な地域で、緩やかな下方までには至らない」と判断され、6月1日、駐在していた白谷町の他、天神元町、札の元町の避難勧告が解除された。そのため避難勧告が解除されなかった上木場地区より下流側にあるこれらの町に留まる事は消防団の立場的に許されなかった。
  • 5月29日、梅雨入りに備えて、それまで一旦中止されていた水無川の土砂除去作業が再開されたが、土石流発生を知らせるワイヤーセンサーが相次ぐ火砕流で5月26日に切断されてしまい復旧の目途が立たないため、人手による水無川上流部の監視は必要不可欠になっていた。それには南上木場町の消防詰所より高台にある北上木場町の農業研修所が有利だった[15]
  • 6月2日、数社のテレビ局クルーが民家に無断で侵入し、コンセントを借用した事例が発覚したため、「正面」により近い農業研修所が報道陣の行動を監視するには便利だった。また5月26日以降も住人が自宅から家財道具を持ち出したり、さらに家事や農作業を行うため上木場地区にしばしば立ち入っており、いざという時は彼らの避難誘導を行う必要があると考えられていた。

6月2日は日曜日であったことから、上木場地区消防団の20人全員が農業研修所で寝泊まりしたが、翌3日は会社勤めの者が一旦引き揚げたため、農業従事者らが引き続き農業研修所に残り、警戒を行っていた。

大火砕流の発生[編集]

6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、午後3時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と(火砕流から発生する)火砕サージは報道陣が取材に当たっていた「正面」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「正面」付近の視界は著しく悪化した。

続く午後4時8分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、溶岩ドームから東方3.2kmの地点まで到達する。火砕サージは更に溶岩ドームから4.0km先にある北上木場町を襲い、筒野バス停付近(5.0km先)でようやく止まった。

報道関係者は不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けてエンジンをかけたまま道路右側に止めていたものの、視界が悪かったこともありほとんど退避できなかった。一方、農業研修所の消防団員は火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川を確認するため研修所から出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員はそのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負ってしまっていた。

結果、報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者ら3名(クラフト夫妻と案内役のアメリカ地質調査所ハリー・グリッケン英語版)、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に傭車され独断で避難できなかったタクシー運転手4名、避難を呼び掛けに来た警察官2名、市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中だった職員2名、農作業中の住民4名の合わせて43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となったが、被害は避難勧告地域に収まっていた。

なお、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが、2005年(平成17年)6月になって発見された。カメラは火砕流による高熱で溶解し高度に破損していたが、内部のテープを取り出し修復することに成功した。ビデオには、火砕流が襲来する直前まで取材を続ける記者らの姿や音声が記録されていた。この映像は、同年10月16日に「NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」として放送され、現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館に展示されている。

被害の背景[編集]

このように火砕流による多数の犠牲者が発生したのは、その危険性について当時、充分な認識が広まっていなかったことが背景にある。詳細は以下の通り。

報道関係者[編集]

5月24日に発生した最初の火砕流は衝撃的だったものの、当時の報道関係者の認識は「かなりの高温ではあるが、熱風(火砕サージ)を伴うものとは知らず、車で逃げ切れるだろうと思っていた」「熱いと知っていたが焼け焦げるまでとは知らなかった」という程度であった。

これは翌25日の気象庁臨時火山情報にて火山学者や専門家が議論の末、「24日の崩落は小規模な火砕流」と発表したものの、住民の混乱を恐れたため火砕流の危険性について具体的な言及が一切無く[16][17]、報道関係者には本来の「地質学的に小規模」の意味が「人的被害を出さない程度の規模」と受け取られてしまったことによる。5月26日には水無川上流の砂防ダム工事関係者が火砕流により腕に火傷を負ったが、「火傷程度で済むならば長袖のシャツを着ておれば大丈夫」という噂が流れるなど、危険性について情報が広まらなかった。さらに5月25日から6月2日までの火砕流の発生回数は小規模なものを含めて165回に達したが、その中で比較的規模の大きな火砕流であっても全て水無川上流の砂防ダム付近でせき止められていた(動画:5月29日 北上木場町の農業研修所前から撮影された比較的規模の大きな火砕流。6月2日以前の火砕流では最大規模[18])。こうしたことから報道関係者に火砕流への馴れが生じた。

さらに梅雨入りしたことで報道関係者の関心は火砕流から土石流に向けられ始めていた。報道関係者の中には火砕流と土石流を混同している者も多く、さらに彼らの大半が「火砕流は土石流同様に水無川に沿って来るため、避難勧告地域内ではあるが水無川から200m離れた上、40mの標高差がある正面が襲われることはない」と認識していた。こうした「正面」への過度の安心感も手伝って、この一帯への取材が過熱することになった。

一方、5月29日の火砕流で山火事が発生したことで、火砕流が高温化していることに気付いた九州大学地震火山観測所の所長は、続く5月31日に火口視察のためヘリコプターに搭乗したところ、火砕流跡先端から200m離れた付近に報道関係者と住人がいるのを上空から発見、直ちに島原市災害対策本部、島原警察署、長崎県島原振興局に対して「マスコミなどが入っている。誰も入らせてはならない」と伝えた。それを受けた市災害対策本部は報道関係者に「傾斜計の数値が普段と違うので、筒野バス停から上には絶対に入らないようにしてほしい」と要請した。この「データに異常がある」と切迫した表現で伝えられたことにより「山に何か異変が?」と直感した報道関係者らは地震火山観測所の所長に取材したところ「おかしな数字が出た訳ではないが、(避難勧告地域に)マスコミが入ると住人も入ってしまうので控えてほしい」との回答を得た。しかし「異常」ではなく「変化」と言い直したことで報道関係者には危機感が伝わらなかった。

同じく5月31日には、火山噴火予知連絡会が気象庁にて「今後も噴火活動が続き、溶岩の噴出、火砕流、土石流の発生が続くと思われるので厳重な警戒が必要」「これ以上大きな規模の火砕流が起きないとの保証はない」との統一見解を発表した。しかし、この警告も火砕流の危険性について具体的な言及は無かったため、25日付の気象庁臨時火山情報の認識に引きずられていた報道関係者には深刻なものと受け取られなかった。火山学者は火砕流の危険性が高まりつつあったことを認識していたが、この時点においてもなお、住人のパニックを恐れる心理が働いたことが、こうした警告としてはやや弱い表現になった要因であった。

また長崎県警は避難勧告地域の境界線に警官を多数配置していたものの、報道関係者を示す旗が立っている車両については入域規制を全く行わなかった。5月31日からは長崎県が報道関係者に対して「緊急輸送車両標章」の発行を始めており、これ以降はこの標章を付けた報道関係者の車両が自由に避難勧告地域に入ることができた。

地域住人[編集]

島原市は5月26日に火砕流に対する避難勧告を出したものの、「(避難の長期化に備えて)自宅へものを取りに帰る時、警察官の規制が厳しい」という住人の要望に応える形で、同日から「地区名ステッカー」を交付しており、このステッカーをつけた自家用車は優先的に避難勧告地域に入ることができた。そのため昼間には避難勧告地域内の自宅で洗濯や畑仕事をする住人の姿が多く見られた。

特に上木場地区は葉タバコ耕作で生計を立てていた農家が多く、長期間の避難生活を強いられる中で、彼らの多くが農作物の成長を気にかけていた。この時期の葉タバコは葉の成長を促すため花を摘み取る作業が重要だが、5月15日から始まった土石流による避難勧告以来、これらの作業が進まず滞っていた。そのため6月4日には、避難勧告の対象外であった安中町の葉タバコ耕作農家の協力を得て、上木場地区の住人総出で例年より遅れた花詰み作業を行うべく避難勧告地域に立ち入る予定であった。

このように5月26日以後も住人の多くが避難勧告地域に立ち入っていた状況を受けて、当初はパニックを恐れて火砕流の危険性について語らなかった火山学者らは、徐々に島原市やマスコミを通じて住人に警告するようになった。だが5月以降、大きな被害を出していた土石流に対して、火砕流の危険性については具体的なイメージが伝わっておらず、ほとんどの住人は警告を真剣に受け止めていなかった。火砕流を単なる土煙だと誤解した住人も少なくなかった。

平成4年に実施された「平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応」の調査によると、地域住人の75%が6月2日以前は火砕流より土石流が危険と認識しており、火砕流の方が危険であると認識していたのは15%に過ぎなかった。さらに上木場地区において火砕流を「とても危険」と認識していた住人はわずか5%しかいなかった。この調査結果から分かるように、火山学者の警告は最も危険性が大きい地区の住人にすら理解されていなかったのである。

一方、6月3日は朝から降り続いた雨により土石流発生が警戒されたことに加え、2日に行われた島原市議会選挙の当選者を祝う会が白谷町で催されていたため、大火砕流発生時には殆どの住人が避難勧告地域から引き揚げており、結果的に住人の犠牲者が減ったのは不幸中の幸いだった。

この火砕流以降、島原市など地元自治体は強制力を伴う警戒区域を設定し、更に対象地域を順次拡大していった結果、最大11,000人が避難生活を余儀なくされたが、以降の犠牲者は1名に抑えられている。被災地域では1990年代半ばから堤防や地面のかさ上げ工事が開始され、一部地域を除いて住民が再び住める環境が整えられた。

だが噴火活動が1995年頃まで続いたため、これらの復興事業の完了は2000年となってしまった。被災地域は前述した上木場地区同様、農業従事者が多い地域であったが、彼らの多くがその間は農業を再開できず、更に被災農地の一部が砂防用地として買収されたため作付面積も減少した。様々な支援策が行われたものの、後継者に悩んでいた多くの農業従事者が被災を契機として離農していった[19]。そのうち葉タバコ耕作農家は被災前(1990年)は上木場・安中地区を中心に149戸を数えたが、農業再開時点(2000年10月)では26戸まで減少してしまった。

消防団[編集]

前述のとおり報道関係者や地域住人の避難勧告地域内への立ち入りに対して明確な規制が行われないまま、5月29日には火砕流により一旦中止されていた水無川の土砂除去作業が再開された。

これは相次ぐ火砕流によって水無川上流に火山灰や土砂が堆積しつつあったこと、さらに梅雨が迫っていたことから、防災関係者は火砕流による直接災害よりも土石流を強く警戒していたことによる。加えて6月2日には一部のテレビ局関係者が避難して無人となった人家に不法侵入しコンセントを借用したことが発覚したため、上木場地区消防団は水無川を見下ろす高台にあり、かつ「正面」に近く報道機関の行動を把握しやすい農業研修所にて土石流発生を監視していた。6月2日までは5月29日を上回る規模の火砕流が発生しなかったため、「火砕流はこの(5月29日に到達した溶岩ドームから東方約3.0㎞)辺りで止まるだろう」とする見方が拡がり、溶岩ドームから東方約4.5㎞に位置する農業研修所が火砕流に伴う火砕サージに襲われる懸念を抱いた消防団員は殆どいなかった。

しかし地元の防災対策協議会では、消防団は南上木場町の消防詰所で土石流監視を行っているものと認識されており、既に農業研修所に移動していたことは知られていなかった。そのため大火砕流が発生する1時間前、防災対策協議会は天候が悪く西風で視界が悪化したことから注意するよう消防団に伝えようとしたが連絡が取れなかった。

大火砕流の直前には、気象庁雲仙岳測候所が「非常に危険な状態になった。(避難勧告地域から報道陣や消防団を)避難させてほしい」と長崎県島原振興局に電話通報したものの、その情報は島原市を経て島原広域消防団本部から農業研修所の上木場地区消防団に口頭(電話)で伝えられた時点で「山の様子がおかしい。注意するように」という内容に変質してしまい、危機的な状況であることが伝わらなかった。火砕流の危険を知らせた雲仙岳測候所と土石流への警戒を強めていた島原市、消防関係者との間には危険度に関する認識のズレがあったことも情報が歪んだ要因であった。

その後[編集]

こうして火砕流は「正面」で撮影を行っていた報道陣のみならず、消防団員、更に前述した島原振興局の通報を受けて「正面」からの避難を呼び掛けに来た警察官をも呑み込んでしまった。

6月6日には陸上自衛隊のV-107が各社報道関係者を取材搭乗させたが、火山灰によるエンジントラブルのために、タバコ畑に緊急着陸(不時着)する結果となった。この時は「上空からハンディ無線で記者を安全な方向に誘導して、各社報道陣は駆け足で水無川河川敷の安全地帯まで逃げ、全員火砕流には遭遇せず全員無事であった」(朝日新聞社のベテラン常原機長の証言による)。

6月7日になって、災害対策基本法に基づく警戒区域が設定され、無許可の立ち入りが禁止された。その後、ルポライターらが許可なく警戒区域内に侵入し週刊誌で現地リポートを発表した結果、書類送検される事例もあり(後に不起訴)、報道の自由、および報道のあり方が問われる事件となった。「マスコミが避難勧告地域で取材を続けたことが6月3日の人的被害拡大につながった」との世評が拡がり、特にテレビ局関係者が避難勧告地域の人家からコンセントを無断で借用したことは厳しい批判の的となった。2011年6月5日に雲仙市で開かれた「2011雲仙集会」(新聞労連、長崎マスコミ・文化共闘会議など主催)の中で、日本テレビの谷原和憲映像取材部長は「土石流撮影用の無人カメラを設置するため、外に電源があった家から電気を引いた。住んでいる人の許可を得ようと断り書きのメモを置き、避難所を探し回ったが、見つけられなかった」と弁解し、「住民に『マスコミがいるから安全』との誤解を与え、消防団に『報道陣よりも後ろにいては地域の安全は守れない』と思わせたことなどが、犠牲者を増やす結果になった」と謝罪した[20][21]

防災活動[編集]

前兆現象が観測されていたため事前に対策会議が開かれており、関係機関の関係はおおむね良好であった。特に長崎県島原市、島原に観測所を持つ九州大学と被災者救助のために派遣された陸上自衛隊(第16普通科連隊など)との関係はきわめて緊密であった。報道、学術、防災機関のすべてが火砕流で犠牲になったため、当時唯一火山近傍で行動できる能力を保有していた自衛隊への期待は高く、自衛隊も救援活動のため九州大学などの指導を受けつつ協同で火山観測を行い、その成果を関係機関及び地元住民への24時間のリアルタイムな情報提供したことで、民心の安定と復旧作業の進展および火山研究に大きく貢献した。自衛隊は火山観測と地元に対する支援のシンボルとして以降1995年(平成7年)12月まで1,653日間(史上最長)にもわたり災害派遣を継続した。

支援・見舞い[編集]

天皇皇后は最大の火砕流発生後の1991年(平成3年)7月10日に被災地を見舞った。その際、側近を最低限の人数にとどめ、昼食も簡素な食事とした上で(被災者と同様、救援資材のインスタントカレーを食べた)、時間の許す限り被災者を見舞う時間を設けた。

国・県・市などは基金を設立し、避難所生活の改善や住宅再建補助など約100項目の生活支援を行っている。また、直接間接被害額は約2,300億円に達したが(1996年(平成8年)、島原市調べ)、長崎県や日本赤十字社などに230億円の義援金が寄せられた。こうした義援金も、被災者の住宅再建等や復旧事業に使われた。

また、NHKでは被災者を勇気付ける目的も込めて、土曜ドラマ「がんばらんば」を制作した[22]

復旧作業・現在[編集]

  • 火砕流によって破壊された地区のうち、平成新山周辺、水無川上流部は山体崩壊のおそれがあるため、未だ警戒区域に指定されたままである。
  • 土砂によって完全に埋まった水無川は浚渫され、堤防や橋梁が強化された。下流域においては、土砂があまりにも多いため、土砂の上に新しい住宅街が建設された。また国道251号線には道の駅みずなし本陣ふかえが設置された。
  • 沿岸においては運び出された土砂によって埋立地(平成町)が造られ、そこに雲仙岳災害記念館島原復興アリーナ・島原勤労者総合福祉センターが建設された。
  • 持ち家の全壊世帯には1000万円の支援が実施された。高台には被災者向けに「仁田団地」のような住宅地が新たに造成された。
  • 農業従事者の離農を防ぐため、様々な支援が行われた。農業改良普及センターでは被災農家全世帯(667戸)への聴き取り調査を行うとともに、1999年まで5回に渡り農業再開希望者を対象とした相談会を催した。取扱作物の転換を図る者には研修手当が支給され、復興基金からはビニールハウス設置費用、または移転費用の助成金が支払われている。さらに並行して被災地域の灌漑施設整備も行われた。2000年の農業再開時において被災地域の農家は374戸まで減少していたが、こうした支援策が功を奏し、島原市と深江町の農業生産額は2005年に被災前とほぼ同水準まで回復した[23]
  • 島原市水無川沖の有明海海底には、火山灰などが20から80センチ泥状化して堆積し、自然回復が困難となっていたので、底質地盤改善工事が進んでいる。
  • 平成新山については、何度か調査登山が行われ(警戒区域のため一般者は登山禁止)、溶岩ドームの詳細な観察が実施されている。現在でも山頂数箇所から活発な噴気を観察することができる。
  • 被災区間を通っていた島原鉄道線は一部高架化の上で復旧したが、10年ほどで不採算のため廃止となった。

資料展示[編集]

大野木場小学校旧校舎
大野木場小学校旧校舎内部
  • 火砕流によって破壊された旧大野木場小学校の校舎は資料として保存されている。体育館などは倒壊の危険があり、撤去されている。直ぐ横に「大野木場砂防みらい館」が建設され、資料展示や防災活動が行われている。3階の展望室からは普賢岳を正面に眺められる。
  • 道の駅みずなし本陣ふかえには、土石流被災家屋保存公園が併設されている。公園の面積は約6,200平方メートルで、大型テント内に3棟(内1棟移築)、屋外に8棟、合計11棟の被災家屋を保存展示(無料)している。大火砕流体験館・火山学習館(有料)も設置されている。
  • 普賢岳を西に臨む、垂木大地森林公園にも普賢岳に関する資料展示が行われている。
  • 雲仙岳災害記念館には最も多数の資料展示がなされている。屋外には自衛隊の装甲車とヘリコプターが展示されている他、メディアライブラリーも併設されている。
  • 雲仙温泉の「雲仙お山の情報館」には、島原半島の地下構造やマグマの供給路などの客観的な資料展示[24]がある。

火山調査研究[編集]

2002年から2004年にかけて、雲仙火山火道掘削プロジェクトチーム[25]により、火道(マグマが地下から上昇した経路)を探しだし掘削する調査が行われた。その結果、普賢岳山頂の北約1km、標高840mの箇所から山頂直下に向かって斜めに掘り進んだ掘削に於いて、掘削深度1977m(標高約-150m)の位置で平成噴火の火道溶岩を掘り当てサンプルを採集した[26]。このサンプル採集により火道のでき方や噴火機構の解明がされることが期待されている[27]

開発史[編集]

雲仙ロープウェイ

雲仙岳の防災[編集]

山頂付近になお不安定土砂(火砕流堆積物)が多数存在しており、豪雨時には土石流となり下流の集落、国道などへ流下してくることから、山麓では治山砂防事業によるダムの設置、緑化工事、導流堤の設置など、大規模な防災施設の設置が進められている。

気象庁では2003年(平成15年)に雲仙岳をランクA「とくに活動度が高い火山」に分類し、2007年(平成19年)からは噴火警戒レベルを導入している[29]。ただし1997年(平成9年)以降は、小さな噴気活動や火山性地震は継続しているものの、噴火活動は発生していない。

脚注[編集]

  1. ^ 雲仙お山の情報館の資料展示より
  2. ^ a b c d e f g h i j k 気象庁の雲仙岳 有史以降の火山活動より
  3. ^ 九州地方とその周辺の最近の地震活動(1989年11月~1990年4月)(気象庁) (PDF) 地震予知連絡会 会報 第44巻
  4. ^ 九州地方とその周辺の最近の地震活動(1990年5月~1990年10月)(気象庁) (PDF) 地震予知連絡会 会報 第45巻
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 雲仙火山の温泉とその地学的背景 太田一也 日本地熱学会誌 第28巻 第4号(2006) 337頁-346頁
  6. ^ 九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門・九州大学大学院理学研究院附属地震火山観測研究センター (1998年9月1日). “第3部 1990-1995年の大噴火の全容”. インターネット博物館「雲仙普賢岳の噴火とその背景」. 2010年8月28日閲覧。
  7. ^ このとき起きた火砕流の詳細については次も参照。宇井忠英・隅田まり・大学合同観測班地質班「メラピ型火砕流の発生過程: 雲仙普賢岳第6ドームでの観測結果」、『火山』第38巻第2号、日本火山学会、1993年7月1日、 45-52頁、 NAID 110003041573
  8. ^ 参考文献「平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応 – 廣井アーカイブス(東京大学総合防災情報研究センター)より
  9. ^ 参考文献「雲仙火山1991年6月3日の火砕流における人的被害 - 九州大学理研報(2009年3月)より
  10. ^ 参考文献「雲仙普賢岳の火山災害における情報伝達および避難対策 - 土木学会論文集No.567より
  11. ^ 参考文献「記者も犠牲になった雲仙普賢岳火砕流の教訓 - 毎日新聞社より
  12. ^ 参考文献「雲仙普賢岳の噴火」 - 農林水産省より
  13. ^ 避難勧告は各地方自治体の長により発せられるが、居住者に立ち退きを勧め促すものであり、強制力や罰則はない。災害を鎮めるための作業員など許可を得た者以外の出入を禁止、もしくは制限するには災害対策基本法第63条に基づく警戒区域への指定が必要になる。1991年5月時点において、日本国内で住人が多数居住する市街地で警戒区域が設定された事例は無かった。
  14. ^ 6月3日の災害において、火砕流から発生した火砕サージの最終到達地点が筒野バス停付近だった。結果的に朝日新聞社から本災害による犠牲者は出ていない。
  15. ^ 5月15日、19日、21日、24日、上木場地区に対して土石流の避難勧告が出されているが、その際の住民避難所として農業研修所が指定されていた。
  16. ^ 当時の火山学者が火砕流災害として念頭に置いていたのは、西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイの消滅、そして1902年のプレー山の大噴火だった。彼らは「火砕流」という言葉が、住民にこれらの大規模災害を想起させ、混乱を起こすことを恐れたのである。そのため「火砕流」ではなく「岩屑流」(がんせつりゅう)として発表すべきという意見もあった。また25日の臨時火山情報では、当初、火砕流の説明部分に「時速100キロ内外の高速度」という文言が含まれていたが、後に「雲仙ではこれほどの速度を持っているとは思われない」として原文から削除された。
  17. ^ 25日の臨時火山情報の発表直後、東京の気象庁記者クラブで解説会見が行われた。その要旨は以下の通りである。「雲仙岳の火砕流は溶岩ドームがガサガサに崩れた状態で起きているので、一番心配な『鉄砲玉のように一気に噴き出す火砕流』にはならない可能性のほうが強い。帽子(ドーム)が取れているのだから突拍子のない事は起きないと思う。また今回の火砕流は流れ出た当時、火事が起きていないことからそれほど高温のものではないと思われる。火砕流は桜島ではいつも出ている。浅間山でも噴火のたびに観測されており、そんなに珍しいものではない。」「火砕流というと大きく捉えられそうだが、オーバーに捉えないでほしい。」
  18. ^ 引用「宮城磯治・川辺禎久・高田亮・阪口圭一・宝田晋治 (2007) 雲仙ビデオクリップ集」- 産業技術総合研究所地質調査総合センター研究資料集 No.469から
  19. ^ 被災農家667戸のうち293戸が2000年までに離農した。
  20. ^ 長崎新聞2011年6月6日付
  21. ^ http://www.kyuchiren.com/index.php?POST_MODE=news&POST_ID=22 島原で10年ぶり「雲仙集会」-新聞労連・九州地連 公式ホームページより
  22. ^ NHKアーカイブス がんばらんば
  23. ^ 2005年の農業生産額は101億円である。なお1989年は98億円、噴火活動が始まった1990年は106億円であった。
  24. ^ 雲仙お山の情報館 youtube
  25. ^ 雲仙火道掘削のホームページ
  26. ^ 雲仙火山で実施した火道掘削 地学雑誌 Vol.122 (2013) No.2 特集号:日本における陸上科学掘削の現状と展望
  27. ^ 雲仙火山 -科学掘削による噴火機構とマグマ活動解明のための国際共同研究- 文部科学省科学技術振興調整費総合研究 (1999-2005)・国際陸上科学掘削計画(ICDP)共同事業
  28. ^ a b c 小林茂「島原雲仙岳噴火」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)P83-84
  29. ^ 気象庁 噴火警戒レベル 雲仙岳

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]