伊豆大島近海の地震

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伊豆大島近海の地震
伊豆大島近海の地震の位置(日本内)
伊豆大島近海の地震
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1978年1月14日
発生時刻 12時24分39秒 (JST)
震央 日本の旗 日本 伊豆大島近海
北緯34度46.0分
東経139度15.0分(地図
震源の深さ 15km
規模    気象庁マグニチュード(Mj)7.0
最大震度    震度5:伊豆大島神奈川県横浜市
津波 70cm (大島町岡田地区)
地震の種類 プレート内地震
右横ずれ断層
余震
回数 100回超
最大余震 1978年1月15日07時31分 M5.8 最大震度4 北緯34度50分・東経138度53分
被害
死傷者数 死者23名
行方不明者2名
負傷者211名
被害地域 伊豆半島、伊豆大島
出典:特に注記がない場合は気象庁による。
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害
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伊豆大島近海の地震(いずおおしまきんかいのじしん)は、1978年(昭和53年)1月14日12時24分39秒、伊豆大島西岸沖(北緯3446東経139度15分)深さ約15kmを震源として発生したマグニチュード 7.0(Mw 6.6-6.8)の直下型地震である。

気象庁はこの地震を「1978年伊豆大島近海の地震」と命名した。「伊豆大島近海地震」と呼ばれることもある。

概要[編集]

伊豆大島と神奈川県横浜市震度5を観測したが、震源域が陸におよんでいたため、静岡県賀茂郡東伊豆町では、震度6相当の揺れに襲われた[1]。被害は伊豆大島よりも伊豆半島東部に集中。崖崩れなどにより、多数の死者を出した。また、天城湯ヶ島町では、猛毒のシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)が狩野川を経て駿河湾へと流れ込み、魚貝類に多大な被害を与えた。

地震像[編集]

この地震は多重震源地震で、本震の約6秒前の小破壊(伊豆大島と伊豆半島の中間付近の海底)から西に進行し、陸地では西北西に進行し本震(主破壊)となる第2震が発生した。第2震の位置は、伊豆半島内陸部の稲取岬西方3~4km付近とする解析結果がある[2]。この主破壊を生じた稲取付近には地表断層が出現した。断層の走方向は西北西であった。この地震の震源断層は後に稲取断層と命名された。

被害[編集]

前日の1月13日から顕著な前震活動が発生していたため、昼時の地震であったが住民の防災意識が高まっており火災の発生は1件のみであった。

静岡県警 昭和53年1月21日現在、大島警察署 昭和53年1月15日現在 (1978年1月14日伊豆大島近海の地震調査報告資料より抜粋)
死者・負傷者数 住宅被害棟数 その他
地域(署別) 死亡※ 行方不明 負傷※ 全壊 半壊 一部損壊 火災 道路 山崩れ
下田 18 2 127 82 476 2846 1 456 89
大仁 5 8 200 36 19
伊東 2 1 3 118 4 2
松崎 2 6 35 576 47 114
伊豆大島 50 3 5 16
合計 23 2 139 89 554 3167 577 548 240

※注記 後の資料では、死者 25名、負傷者 211名とされている[3]

東伊豆町は、負傷者、全壊・半壊家屋、地滑り・崖崩れ件数、道路損壊など、ほとんどの項目で最多を記録した。負傷者109名、全壊56戸、半壊460戸で、いずれも全体の半数以上を占めている。これに、河津町天城湯ヶ島町(現・伊豆市)の被害数を加えると、総被害の大半を占めてしまう。対して大島町は、人的被害・全半壊家屋ともになかった。地震発生後、自衛隊に出動要請が行われ、翌日の15日から自衛隊による救援活動が行われた[4]

被害の多かった伊豆半島東部で目立ったのは、地滑り・崖崩れなどである。その中でも、多くの命を奪ったのが、河津町見高入谷地区で発生した地滑りであった。長さ約300m、幅は約200m、高さ約30mに及ぶ大規模な地滑りで、4世帯、10戸が土砂に埋まり、7名が死亡した。 河津町では、県道を走行中のバスが崖崩れに直撃され、運転手を除く、乗客3名が死亡、8名が負傷した。その他にも落石や山崩れにより、各所で交通が遮断された。伊豆急行は、1月31日に運転再開。

これまでに例がなかった事故も発生した。天城湯ヶ島町にある鉱山で廃液堆積貯水池の堰堤が崩壊、猛毒のシアン化ナトリウムを含む廃水約10tが持越川に流出、これが狩野川を経て、駿河湾に流れ込んだ。海水は汚染され、魚介類に被害を出し、汚染地域の水を使う住民を不安におとしいれた。事故が起きたのは、鉱山から鉱物を掘った後に出る鉱滓(こうさい)が原因だった。水抜きが不充分だったために地震の揺れで液状化現象を起こし、堰堤を破壊したと見られている。

なお、断層も見つかっている。東伊豆町では、伊豆急行線の稲取トンネル内を断層が横切った。変位量は最大で約1.2mであった。この断層は「稲取・大峯山断層」と呼ばれている。この他にも、10cm程度の変位量を示した副断層も見つかっているが、こちらは「根木の田断層」と呼ばれている。

津波[編集]

地震発生後、約5分で波高10cmから15cm第一波が到達した[5]気象庁から津波注意報が発表されたが、大島町岡田地区で70cmを記録しただけにとどまり、大きな被害はなかった。

前兆活動と余震[編集]

この地震では、前兆現象が数多く報告された。石廊崎の体積ひずみ計は、1977年12月3日から異常な縮み現象を観測し、12月19日網代の体積ひずみ計は伸びと縮みを観測していた[6]。また、静岡県榛原郡御前崎町に設置されていた観測井(深さ500m)では水位変化を観測[7]

異常現象[編集]

地盤の伸縮、ラドン濃度、土地比抵抗、地下水位などの変動が、地震研究所、東大理学部、地質調査所などから報告されている[8]

前震[編集]

1月12日から体に感じない無感地震の発生が伊豆大島西方近海で始まり、1月14日8時2分頃から有感地震が増加した。9時45分と47分には、M5.2(最大震度4)を記録した。

余震[編集]

余震も多く、本震の直後には、100回を超える余震があった。翌日15日午前7時31分の最大余震(M5.8)、及び同日午前7時36分のM5.6の余震では、伊豆半島に被害を生じた。また、これら二つの余震は本震の右横ずれ断層と異なり、左横ずれ断層であった[6]

その他[編集]

この地震から4日後、地震予知連絡会が示した見解を元に、静岡県知事名で「今後マグニチュード6クラスの余震が起こりうる」と、静岡県災害対策本部から各市町村の消防本部に余震情報が伝えられた。その際、「今後数日以内に」という文言が「(予測が)外れたら困る」との理由で削除された[9]。そして、その情報を聞いた人々の口から口へ伝わるうちに「マグニチュード6」が「震度6」となり、いつしか「午後6時に大きな地震が来る」と間違った情報が流れてしまったことにより静岡県下で一時情報の混乱が起きた(この混乱をマスコミは「情報パニックが起きた」と報じたが、そう呼べるだけの地域住民の大きな混乱は確認されていない[10])。

「伊豆の道路は路肩が弱い」というのは、ドライバーの間でよくいわれることであるが、伊豆半島は、地震に弱い特性を持つ第三紀層と火山岩で形成されており、地滑りなどを起こしやすい。実際に国道135号トモロ岬においてトンネル前後を崩落によって阻まれ取り残された車両が存在する。

それに加えて、陸地が海に向かって一気に落ち込む険しい地形など自然災害が起きる条件がそろっているといえる。これは、1974年(昭和49年)に南伊豆を直撃した伊豆半島沖地震でも指摘されていたことであった。

また関連性は不明であるが、1978年4月には千葉県東方沖で群発地震が発生している[11]

出典[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 村井勇、角田信子、辻村芳子:1978年伊豆大島近海地震の被害・震度と地震断層 東京大学地震研究所彙報. 第53冊第3号, 1978.12.25, pp. 1025-1068
  2. ^ 長宗留男:1978年伊豆大島近海地震の震源過程 地震 第2輯 Vol.33 (1980) No.1 P71-78, JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/33.71
  3. ^ 地震防災ガイドブック 静岡県 (PDF)
  4. ^ 伊豆大島近海沖地震による道路被害とその影響 総合都市研究 第5号197 (PDF)
  5. ^ 羽鳥徳太郎:1978年伊豆大島近海地震による津波波源 羽鳥徳太郎 東京大学地震研究所彙報. 第53冊第3号, 1978.12.25, pp. 855-861
  6. ^ a b 1978 年伊豆大島近海地震について (PDF) 地震予知連絡会 会報20巻
  7. ^ 1978年伊豆大島近海地震,および,1978年宮城県沖地震前の地下水位の変化 地震予知連絡会 会報23巻 (PDF)
  8. ^ 1978年伊豆大島近海地震の前に観測された異常現象 (PDF) 地震予知連絡会 会報21巻
  9. ^ 2010年6月8日付読売新聞より
  10. ^ 災害時の情報伝達と人間行動 (PDF) 昭和62年度災害復旧事務講習会特別講演から
  11. ^ 1978年4月の千葉県東方沖の地震群発について(気象庁) (PDF) 地震予知連絡会 会報20巻

外部リンク[編集]