コンテンツにスキップ

昭和東南海地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和東南海地震
昭和東南海地震の位置(日本内)
昭和東南海地震
地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日 1944年12月7日[1]
発生時刻 13時35分40秒(日本標準時
持続時間 95秒[2]
震央 日本の旗 日本 熊野灘
北緯33度34.4分 東経136度10.5分 / 北緯33.5733度 東経136.1750度 / 33.5733; 136.1750座標: 北緯33度34.4分 東経136度10.5分 / 北緯33.5733度 東経136.1750度 / 33.5733; 136.1750
震源の深さ 40 km
規模    MJ7.9, MS8.0 - 8.1, MW8.1-8.2
最大震度    震度7:愛知県の西尾市、静岡県の菊川市と袋井市など(推定)[3]
津波 9m : 尾鷲市
地震の種類 海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数 死者・行方不明者1223人
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

昭和東南海地震(しょうわとうなんかいじしん)は、1944年昭和19年)12月7日午後1時36分から[4]紀伊半島東部の熊野灘三重県尾鷲市沖約20キロメートル(北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)、Mj7.9(Mw8.2)のプレート境界型巨大地震。単に「東南海地震[4][5]」または「1944年東南海地震[6]」と呼ばれることがある。また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが[7]、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、「東南海地震」に変更したとする説がある[8][9]

1945年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震(発生順に鳥取地震、東南海地震、三河地震南海地震)の一つである(#震源域も参照)。一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる[10]

東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

地震動

[編集]
昭和東南海地震の震度分布[11]

現存する数少ない記録によって、三重県津市静岡県榛原郡御前崎村長野県諏訪市岡谷市で震度6、近畿から中部までの広範囲で震度5を観測していたことが確認されている(ともに旧震度階―烈震・強震)。観測所によっては、地震の強さが測定範囲を超えており(震度計の針が端まで振り切れてしまっており)、震度を記録しきれていないほどだった。異常震域の存在が示唆され、敦賀市福井市甲府市、諏訪市、岡谷市が震源から離れているにもかかわらず震害が大きかった[12]福地村袋井町など被害の調査によって震度7と推定される箇所もあった[13][14]。また、地震発生後に常設の観測点では無い臨時観測点による集中観測は、地震発生より2か月を経過してから行われたため、地震像の詳細や余震活動については不明点が多い[15]

震度分布は東海地方より西側では1854年の安政東海地震に類似するが、駿河湾周辺や甲府盆地は安政東海地震の方がより激しい揺れであった[13]。また、北海道においても森町および旭川市で震度1を観測した[16]。また、海外でも地震計などの情報から、大規模な地震があったことは認識されている。

御前崎では初期微動が17.1秒間、強い振動が3分程続いたが[12]、東京でも周期7秒から12秒の長周期地震動が10分以上続き、地震計の揺れは30-40分間記録されている[17][18]

武村(2015)は被害統計資料の整理と震度分布の再評価を行い、「静岡県袋井市周辺」「愛知県西尾市の旧矢作川流域」などで震度7に相当する揺れが生じていたとしている[19]

震度 地方 観測所
6 東海地方 御前崎豊浜※・赤羽根※・大野※・津島※・四日市※・大杉谷
甲信地方 諏訪
5 北陸地方 福井敦賀
甲信地方 甲府
東海地方 浜松亀山尾鷲岐阜名古屋
近畿地方 彦根橿原
4 関東地方 前橋秩父東京(中央気象台)・横浜
北陸地方 高田富山輪島
甲信地方 船津松本飯田
東海地方 熱海高山三島静岡
近畿地方 伊吹山宮津京都大阪神戸洲本和歌山潮岬
四国地方 徳島高松多度津松山室戸岬高知
※は委託観測所[11]

この東南海地震と1946年の南海地震は隣接した形で破壊の開始点が存在し、紀伊半島沖から東に断層の破壊が進んだ[20]

地殻変動

[編集]

太田川付近では堤が地割れし2m程度沈下したが、これは地震動によるものであった。熊野灘の新宮では0.3m沈下、鳥羽では0.3m沈下、名古屋では0.25-0.4m沈下、渥美半島では0.3-0.4m程度の沈下、浜松では0.3-4m沈下、駿河湾岸の清水では0.5m沈下した。対して掛川では0.07m隆起、相良港では0.3m隆起、御前崎は0.15m隆起した[21]。北西側は沈降、南東側は隆起の傾動は安政東海地震と類似しているが駿河湾西岸が沈降している点が異なり、また地殻変動の幅は小さかった[22]

規模

[編集]

気象庁によれば地震規模を示すマグニチュードは 7.9 と推定されている[23]。他方、表面波マグニチュードMs=8.0[24]モーメントマグニチュードMw=8.1[20]あるいはMw=8.2[25]と推定する説もある。

地震断層パラメーターは長さL=120km、幅W=80km、すべりD=3.1m[20][26]、あるいはL=110km、W=70km、D=4.0m(熊野灘沖)およびL=80km、W=80km、D=4.0m(遠州灘沖)の二つの断層[27][26]を仮定する説などがある。地震モーメントM0 = 1.5×1021N・m[20]、あるいはM0 = 2.0×1021N・m[25]などの値が推定されている。

太平洋岸の験潮施設で記録されていた津波波形を利用した滑り量の推定結果からは、志摩半島沖に約3mの最大の滑り量を生じた領域と、次いで渥美半島沖に約1.5mの滑り量を生じた領域があるが、東海地震の想定震源域である駿河湾沖の領域が、未破壊領域として残された[28]

震源域

[編集]
昭和南海地震の主要な断層モデル

安藤(1975)の断層モデル[29]では、震源域は直線上に広範囲に及び、愛知県三河湾南沖から、和歌山県東牟婁郡串本町の南東沖に至る南海トラフと平行した線上の地域で発生したと見られている[30]

上述のように、1940年代の半ばには大きな地震が相次いでおり、この地震から2年後の1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が発生した。2つの地震は同時発生ではないものの南海トラフにおける連動性があったと考えられている。一方で、昭和東南海地震は安政東海地震のように駿河湾奥(駿河トラフ)までは破壊が進行せず浜名湖南東沖辺りで破壊が止まったとされ、依然、東海地震の震源域が空白域として残されたと考えられている[31]

浜名湖沖で破壊が止まった理由について、「濃尾地震により南海トラフ側では歪みが増加し駿河トラフ側では歪みが減少した為」とする説がある[32]、また茂木清夫(元地震予知連絡会会長)は濃尾地震により東海地震の発生が20年遅れたとする説を発表している[32]

また、紀伊半島沖ではプレート境界の断層すべりが固着域の下限からトラフ軸付近まで達しているのに対し、渥美半島沖ではトラフ軸まで達せず分岐断層が生じたものと推定されている[28]

被害

[編集]

人的被害

[編集]
1944年、東南海地震の被害。(飯田 1977)
地域 人的被害 住家 非住家
死亡・行方不明 負傷 全壊 半壊 全壊 半壊
愛知県 438 1,148 6,411 19,408 10,121 15,890
静岡県 295 843 6,970 9,522 4,862 5553
三重県 406 607 3,776 4,537 1,417 2,228
岐阜県 16 38 406 541 459 388
奈良県 3 17 89 177 244 224
滋賀県 0 0 7 76 28 88
和歌山県 51 74 121 604 46 63
大阪府 14 135 199 1,629 124 63
山梨県 0 0 13 11 14 3
福井県 0 0 1 2 2 3
兵庫県 0 2 3 0 23 9
長野県 0 0 12 47 1 2
合計 1,223 2,864 18,008 36,554 17,341 24,514
  • 流失家屋:3129戸
  • 浸水家屋:8816戸
  • 焼失家屋:3129戸
  • 火災発生:26箇所

地震による家屋の倒壊や地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1,223名の死者および行方不明者が出たものとされている。ただし、戸籍などが津波により消失したため正確な被害者数を把握できず、死者数については918名とする説もある[33]。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに現在に至っている例も散在する。

この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。これは、建物倒壊が比較的少なかったこと、地震発生時刻が昼すぎであり火を使っている場所が少なかったこと、天候が穏やかで風が弱かったこと、さらに第二次世界大戦中で人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。

愛知県内では半田市中島飛行機山方工場、名古屋市南区三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場(後の日清紡名古屋工場、現在のビバモール名古屋南)がこの地震によって倒壊し、それぞれ死者130人、60人の被害を出した。この2つの工場は紡績工場を買収して軍需に転用したものであったが、飛行機工場としては狭く、間仕切りや柱を取り除くなどして空間を確保していた。耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったものとされている[14]

遭遇した著名人

[編集]
  • 土屋嘉男 - 医学生だった当時、愛知県半田市中島飛行機半田製作所にて被災。晩年にNHKが放送した本地震の特集番組で、レンガの下敷きになり激しく損傷したいくつもの遺体を目撃した様や、機密秘匿による軍の検閲や箝口令等を、証言者の一人として語っている[10]
  • 田村高廣 - 当時京都三中在学中。土屋と同じく中島飛行機半田製作所にて被災。発生時刻の時はちょうど組み立て中の艦上攻撃機天山」の中に入って作業をしていたことで倒壊した建物の下敷きにはならず難を逃れたが、同じく京都三中から動員された学友13人は命を落としたと語っている[34]

津波

[編集]
場所 高さ
静岡県下田市柿崎 2.5m
愛知県一色町 1.5m
和歌山県新宮市 2.0m - 5.0m
三重県尾鷲市 2.7m - 9.0m
大紀町(錦村) 7.0m
南島町 5.5m - 6.0m
熊野市 3.0m - 6.3m
紀伊長島町 4.0m
父島(小笠原) 3m

地震後の津波では、震源域に近い三重県尾鷲市を中心とした熊野灘沿岸一帯に壊滅的な被害をもたらした。三重県、和歌山県沿岸で特に高く、波高は新鹿で6-8m、賀田で7.1m、錦で6m、勝浦で4-5mであった[35]。最大波高は尾鷲市賀田地区で記録された9mである。第一波の到達後、家へ荷物などを取りに戻ったところ、第二波に巻き込まれて亡くなった例もあった。津波被害はアメリカ軍により空中撮影された[10]

静岡県御前崎においては地震後約5分で引き波が生じ、地震後約40分の14時27分に津波の第一波が到達し、その後も14時50分、15時0分、15時30分、16時17分と到達した。最も高いのは第三波の15時で、19時頃も高かった[12]。熊野灘では地震後10-20分で到達した。

津波は伊勢湾にも進入したが、被害は少なかった[33]

都市基盤と産業被害

[編集]

被害地域は広範囲に及んだ。特に名古屋市を中心とした中京地域は、当時、三菱重工業中島飛行機を始めとする航空機産業の中心地的な存在であったため、軍用機の生産に多大な被害を受けることになった。

東海道線掛川駅以西で甚大な被害を受け、太田川周辺では貨物列車が脱線転覆、出火した[22]。転覆した貨車は数十両に及ぶという[36]

  • 道路破壊:505箇所
  • 橋梁流失:61橋
  • 堤防決壊:155
  • 鉄道被害:48箇所
  • 船舶流失:1,898隻
  • 岸壁破壊:84箇所

前兆現象

[編集]

直前の8月には、尾鷲付近で小規模な群発地震活動が生じていた。また、11月に東北地方の太平洋岸や関東地方の内陸での地震活動がやや静穏であったとされている。しかし、この程度の群発地震活動や静穏化現象は他の時期にも生じており、特段の前兆現象とは考えにくい[15]。ただし、潮位には有意な変化は無かったとする報告がある[37]。また、地震発生直後に実施された名古屋地方気象台による調査報告では、「三日前にネズミがさわいだ」「湾で鰺が良くとれた」といった宏観異常現象とみられる証言が記録されている[38]

前震活動

[編集]

1944年東南海地震に先行し地震活動が活発化した場所がある。

ユーラシア大陸東部地域

本震発生前の約20年間のユーラシア大陸東部地域(北東中国から西南日本)の浅い地震活動が活発であった[39]

銭洲海嶺付近
  • 1936年12月27日 新島地震 M6.3 の発生以後から一帯の地震活動が活発化した。最も活発な活動をしたのは本震 (M8.0) の前後で、1944年9月3日 M6.3、1945年8月25日 M6.4などの地震が発生している。またこの期間に銭洲海嶺の地震活動は南海トラフに接する領域まで西側に移動し、1956年8月13日 新島付近の地震の発生以後は次第に静穏化に向かった[40][41]

プレスリップ

[編集]

地震の発生直前に静岡県掛川市において、プレスリップと見られる現象が東京帝国大学教授の今村明恒により観測された[30]

昭和時代初期に東海道沖および南海道沖に巨大地震の発生が懸念されると予測した今村明恒の要請に基づき、折しもこの地震の前日から直前まで陸軍測地測量部が掛川から御前崎付近の測量を行っていた。そこで一等水準測量の中で4mmを越える通常の測量では考えられない誤差が出現した。4mmという誤差は地震当日の午前中の測量に集中し、かつ水準儀の不安定が地震発生10数分前に発生していることから、地震直前に変動が生じた結果であるとされる[42][43]。そしてこれが東海地震予知の根拠とされる前兆的異常地殻変動である[44]。しかし、当時観測に使用されていた計器の安定性と計測誤差などを再検討した木股文昭らは、直前に観測された現象のデータを前兆的異常地殻変動として解釈することに疑問を呈している[45]

誘発地震

[編集]

本震に影響を受け、震源域及び余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している[46]

  • 1944年12月19日 満州国(当時)と朝鮮(当時)の国境付近、西朝鮮湾近傍で M6.8の地震[39]
  • 東南海地震の47日後の1945年1月13日 愛知県蒲郡市付近を震源とする三河地震 (M6.8)。
  • 1946年12月21日の昭和南海地震、Mw8.1-8.4、深さ24km。同じ潮岬沖で発生した南海トラフのプレート境界型地震は、東南海地震とは逆の西に進行した。死者1330人。串本では地震後約10分で津波が到達し、また最高潮位6.57mであった。
  • 1948年
    • 4月18日 1時11分 和歌山県南方沖で M7.0[16]。昭和南海地震と本震(昭和東南海地震)での割れ残った領域での地震[15]
    • 6月28日 福井県嶺北地方を震源とする福井地震 (M7.1)。

市町村長への通知と報道

[編集]

戦時下の戦局が緊迫した時期に発生した地震で、被害に関する情報は人々に動揺を与え、士気にも影響することから規制された[47]

市町村長への通知

[編集]

1944年(昭和19年)12月10日付の三重県内政部長の各市町村長への通知は「此ノ程度ノ災害ニテ士気ヲ阻喪スルコトナク、……寧ロ(むしろ)神ノ与ヘラレタル試練トシテ……県民打ツテ一丸トナリ之ニ対処スル」という内容で極秘扱いで出された[47]

戦時下における地震被害の隠蔽

[編集]

当時、日本は太平洋戦争大東亜戦争)の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した[48][10][49]。翌8日がマレー作戦真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)[10]。地震についての情報は、3面の最下部のほうに申し訳程度にわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった[10][49]。このため、大きな揺れを観測した長野県諏訪市岡谷市で、情報統制の中、単独の「諏訪地震」とされてしまった事例もある。

伊勢新聞』12月8日付朝刊は「天災に怯(ひる)まず復旧 震源地点は遠州灘」の見出しを付けたが県下の一部に被害が出たという極めて小さい記事となっている[47]。一方、『伊勢新聞』の紀南版は地震の影響からか、8日付は「印刷機械その他故障のため休刊」となり、9日付は「全紀南地方に強震 津波による被害各地に発生」の見出しで「各地とも相当被害がある」としたが、死者数や流失戸数などには触れられていない[47]

被害を受けた各地の住民や、学徒動員され半田市の中島飛行機半田製作所に動員されていた学徒らには、被害について絶対に人に話さないようにとする戦時統制に基づく通達の厳しい緘口令が行政側からまわった[10][49][注釈 1]。そのため、他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となった[10]

一方、地震は各国の地震計により観測・記録された。そのため翌12月8日のアメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』はこの地震について大きく伝えた[47]。ニューヨーク・タイムズは、12月8日付朝刊で「中部日本で悲惨な地震」として3面にわたる記事を掲載し、12月9日付で「日本政府は……大きな軍需施設が被害地区に含まれていることを認めながらも、被害を少なく見せようとしている」との記事を載せている[47]

この地震の状況を心理戦としてドラゴーンキャンペーン作戦として宣伝ビラ投下作戦をアメリカ軍が実行している(B29から投下された宣伝ビラには毛筆で「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という土屋嘉男の証言がある)[10]。また、後述の津波被害の資料となるアメリカ軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており[51]、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場等の戦略拠点の被害状況を注視した。地震から6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている[10][49]

研究

[編集]

東京帝国大学教授の今村明恒が予想して観測態勢を私費で作った。関係市町村に警報を発令しようとしたが、届いたのは地震後であった。

第二次世界大戦後、地震学者によって調査研究が進められてきた[47]。1970年代には名古屋大学教授の飯田汲事が市町村の記録を丹念に集め集計をしている。

他の地震との関連性

[編集]
映像外部リンク
「阪神・淡路大震災」は「南海トラフ巨大地震」の前兆か? - YouTube

この地震の約40年前から先立って西日本における内陸での地震活動が活発になっており、プレートの沈み込みによって活動する活断層による地震が起き、後に南海トラフ地震として本震が発生するのではないかとする研究がある。1899年の紀伊大和地震、1905年の芸予地震、1909年の姉川地震、1925年の北但馬地震、1927年の北丹後地震、1936年の河内大和地震、1943年の鳥取地震など、これら西日本における大きな地震活動が先行して発生している。宝永地震や安政南海・東海地震など、歴代の南海トラフ地震も同様に本震発生の40〜50年ほど前から西日本における地震活動が活発化しており、本地震もそれに準拠していたと思われる。また、以上の分析から、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)や鳥取県西部地震福岡県西方沖地震熊本地震大阪府北部地震など、近年発生している西日本における大きな地震が将来起きる南海トラフ地震の先行した地震ではないかとしている[52][53][54][55][56][57]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 例えば、工場で勤務していていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を「決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい」などと、教師から指示されたという[50]

出典

[編集]
  1. ^ 日本付近のおもな被害地震年代表 20世紀前半 (1901-1950)”. https://www.zisin.jp/. 日本地震学会. 2021年7月7日 (令和3年7月7日)閲覧。
  2. ^ Gene A. Ichinose, et al. (2003). “Rupture process of the 1944 Tonankai earthquake (Ms 8.1) from the inversion of teleseismic and regional seismograms”. Journal of Geophysical Research 108 (2497). doi:10.1029/2003JB002393. https://agupubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1029/2003JB002393. 
  3. ^ 75年前の揺れは… 昭和東南海地震を名古屋大が再評価”. 2020年07月07日(令和3年7月7日)閲覧。
  4. ^ a b 福和伸夫 (2016年12月7日). “戦争終結を早めたと言われる東南海地震から72年、「隠された地震」の被害はどうだったのか”. https://news.yahoo.co.jp. Yahoo. 2021/07/07 (令和3年7月7日)閲覧。
  5. ^ 『1944東南海地震・1945三河地震報告書』, 第5章 東南海地震の災害の概要.
  6. ^ 1944年東南海地震”. (石橋克彦 : 南海トラフ巨大地震―歴史・科学・社会、岩波書店、2014、8-18). 2021/07/07 (令和3年7月7日)閲覧。
  7. ^ 今村明恒(1944)、「遠州沖大地震所感」 『地震 第1輯』 Vol.16 (1944) No.11-12 P.299-303, doi:10.14834/zisin1929.16.299
  8. ^ 山下文男(2002):『君子未然に防ぐ-地震予知の先駆者今村明恒の生涯-』. 東北大学出版会, NAID 10018887562
  9. ^ 『1944東南海地震・1945三河地震報告書』, 第5章 東南海地震の災害の概要
    中央防災会議 Archived 2012年3月20日, at the Wayback Machine.
  10. ^ a b c d e f g h i j NHK歴史証言アーカイブス[証言記録 市民たちの戦争]封印された大震災〜愛知・半田〜”. NHK (2011年8月10日). 2016年3月12日閲覧。
  11. ^ a b 中央気象台「月別全国地震調査原稿」 昭和19年12月
  12. ^ a b c 中央氣象臺 編『東南海大地震調査概報 昭和十九年十二月七日 : 極秘』中央氣象臺、1945年。 NCID BN15429462https://tsunami-dl.jp/document/051 
  13. ^ a b 中央防災会議(2003) (PDF) 歴史地震の震度分布
  14. ^ a b 山下文男『隠された大震災 : 太平洋戦争史秘録』東北大学出版会、2009年10月。ISBN 9784861631252国立国会図書館書誌ID:000010587745https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010587745 
  15. ^ a b c 岩田孝仁、浜田信生、1944年東南海地震前後の地震活動 地震 第2輯 Vol.39 (1986) No.4 P.621-634, doi:10.4294/zisin1948.39.4_621
  16. ^ a b 1948/04/18 01:11:30.6 和歌山県南方沖 M7.0 気象庁震度データベース
  17. ^ 古村孝志, 中村操「1944年東南海地震記録の復元と関東の長周期地震動」『物理探査』第59巻第4号、物理探査学会、2006年、337-351頁、CRID 1390001206495638144doi:10.3124/segj.59.337ISSN 0912-7984 
  18. ^ 古村孝志 「南海・東南海・東海地震の連動発生による強震動と津波の発生」 (PDF)
  19. ^ 武村雅之、虎谷健司、1944年東南海地震の広域震度分布の再評価と被害の特徴 日本地震工学会論文集 Vol.15 (2015) No.7 特集号「第14回日本地震工学シンポジウム」その1 p.7_2-7_21, doi:10.5610/jaee.15.7_2
  20. ^ a b c d Hiroo Kanamori (1972). “Tectonic implications of the 1944 Tonankai and the 1946 Nankaido earthquakes”. Physics of the Earth and Planetary Interiors 5: 129-139. doi:10.1016/0031-9201(72)90082-9. ISSN 0031-9201. https://doi.org/10.1016/0031-9201(72)90082-9. 
  21. ^ 飯田汲事「2 東南海地震の地変及び地盤の破壊」『昭和19年12月7日東南海地震の震害と震度分布』愛知県防災会議、1977年3月。doi:10.11501/9671679NDLJP:9671679https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001603808。「国立国会図書館デジタルコレクション」 
  22. ^ a b 広瀬弘忠 『巨大地震 予知とその影響』 東京大学出版会、1986年
  23. ^ 武村雅之, 虎谷健司「1944年東南海地震の広域震度分布の再評価と被害の特徴」『日本地震工学会論文集』第15巻第7号、日本地震工学会、2015年、7_2-7_21、doi:10.5610/jaee.15.7_2NAID 130005117806 
  24. ^ 宇津徳治 『世界の被害地震の表』 1990年
  25. ^ a b Tanioka, Yuichiro and Satake, Kenji (2001). “Detailed coseismic slip distribution of the 1944 Tonankai Earthquake estimated from tsunami waveforms”. Geophysical Research Letters 28 (6): 1075-1078. doi:10.1029/2000GL012284. https://doi.org/10.1029/2000GL012284. 
  26. ^ a b 佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年
  27. ^ Ishibashi(1981), Earthq. Pred., Ewing Ser. 4, 297-332
  28. ^ a b 谷岡勇市郎、「津波波形から推定された1944年東南海地震及び1946年南海地震のすべり量分布の解釈」『地學雜誌』 2001年 110巻 4号 p.491-497, doi:10.5026/jgeography.110.4_491
  29. ^ Masataka Ando (1975). “Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the nankai trough, Japan”. Tectonophysics 27 (2): 119-140. doi:10.1016/0040-1951(75)90102-X. ISSN 0040-1951. https://doi.org/10.1016/0040-1951(75)90102-X. 
  30. ^ a b 第151回地震予知連絡会資料 (PDF)
  31. ^ 石橋克彦 東海地方に予想される大地震の再検討 駿河湾地震の可能性 地震予知連絡会会報, 17, 126-132, 1977. (PDF)
  32. ^ a b 松村正三、「東海地震についての一考察」『地震 第2輯』 1996年 49巻 1号 p.85-88, doi:10.4294/zisin1948.49.1_85
  33. ^ a b 『1944東南海地震・1945三河地震報告書』, 第1章 東南海地震の災害の概要
  34. ^ 山下文男『戦時報道管制下隠された大地震・津波』新日本出版社、1986年、120-121頁。ISBN 4406014705 
  35. ^ 首藤伸夫、越村俊一、佐竹健治、今村文彦、松冨英夫 『津波の事典』 朝倉書店、2007年
  36. ^ 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月、589頁。ISBN 4-12-403397-4 「(12月8日記事、地震発生7日)◎午前地震アリ、横振レノミ大ユレナリ。船酔ヒノ気持チ悪キヲ感ズル程ナリ。之デ東海道線故障不通トナリ、夜行デ呉ヘ普練水上班ノ「鹿島」デノ射撃見ニユク予定止メトナル。アトデ聞ケバ遠州灘ノ陥没ニテ大井川鈴川ノ鉄橋降下シ各所ニ脱線アリ、四十輌ノ貨車ガ倒レ火災トナリシモノアリ。名古屋、沼津間ノ事故ニシテ九日夕刻単線開通ノ見込トノコト。」
  37. ^ 小林昭夫, 真砂礼宏, 吉田明夫「1944年東南海地震前の潮位変化と当時の潮位資料」『験震時報』第65巻第1-4号、東京 : 気象庁、2002年3月、1-43頁、ISSN 13425684NDLJP:11717862。「国立国会図書館デジタルコレクション」 
  38. ^ 物理で探る生きものらしさの源 大沢 文夫”. Scientist Library. JT生命誌研究館 (2006年). 2019年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月7日閲覧。
  39. ^ a b 大内徹, 張泰雨, 黄清華, 久保篤規, 原田智也「Korea及びその周辺域の地震・火山活動とアジア東縁のテクトニクス : 地震活動に現われる潜在構造」『神戸大学都市安全研究センター研究報告』第6巻、神戸大学都市安全研究センター、2002年3月、211-227頁、CRID 1390009224924792320doi:10.24546/00317634hdl:20.500.14094/00317634ISSN 13429167 
  40. ^ 銭州海嶺における地震活動と広域地震活動との関係について (PDF) 地震予知連絡会会報 第50巻
  41. ^ 銭州海嶺における地震活動と広域地震活動との関係について(2) (PDF) 地震予知連絡会会報 第51巻
  42. ^ Mogi, K., 1984, temporal variation of crustal deformation during the days proceeding a thrust-type great earthquake: The 1944 Tonankai Earthquake of magnitude 8.1, Japan PAGEOPH,122,765-780.
  43. ^ 木股文昭、鷺谷威 「水準測量データの再検討による1944 年東南海地震プレスリップ」 (PDF)
  44. ^ 小林昭夫「体積歪計観測網による東海地震の前兆すべりの検知能力」『験震時報』第63巻1・2、東京 : 気象庁、2000年2月、17-33頁、ISSN 13425684NDLJP:11717845 
  45. ^ 木股文昭、鷺谷威「11-15 水準測量データに基づく1944年東南海地震プレスリップの再検討(名大)」(PDF)『地震予知連絡会会報』会報 第74巻、国土地理院、2005年9月、NDLJP:12153292 
  46. ^ 2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震 Archived 2012年3月28日, at the Wayback Machine. 東京大学地震研究所 広報アウトリーチ室
  47. ^ a b c d e f g 報道規制された地震被害-NY紙は大きく報道 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班、2020年7月13日閲覧。
  48. ^ 中日新聞社会部編「恐怖のM8 東南海、三河大地震の真相」中日新聞本社、1983年
  49. ^ a b c d 特集まるごと「“隠された地震”掘り起こす」”. NHK Web News (2014年12月5日). 2016年3月12日閲覧。
  50. ^ 当時の少女本人へのインタビューによる体験談(TBS報道特集、2010年8月14日放送)
  51. ^ 佐藤浩, 青山雅史「米軍空中写真を用いた尾鷲市南部の1944年東南海地震による津波痕跡の判読」『日本地理学会発表要旨集』2014年度日本地理学会春季学術大会セッションID: 624、2014年、100197頁、doi:10.14866/ajg.2014s.0_100197 
  52. ^ “「被害は東日本大震災の10倍超」2030~40年に想定される西日本大震災という時限爆弾”. PRESIDENT Online. (2021年2月20日). https://president.jp/articles/amp/43402?page=1 2021年7月8日閲覧。 
  53. ^ “南海トラフ地震の前に発生する内陸地震に警戒必要 注目エリアは近畿、中部 専門家対策呼びかけ”. 産経新聞. (2018年5月12日). https://www.sankei.com/article/20180512-M4HV37QAJ5IQLKMQXKGNWHHN2U/?outputType=amp 2021年7月8日閲覧。 
  54. ^ “南海トラフ地震の「発生シナリオ」を考えてみる ー【その1】地震の発生まで”. Yahooニュース. (2021年6月1日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/49ff72806da8352a64f89893c2103aa3f81d383a 2021年7月8日閲覧。 
  55. ^ “能登地方および京都府南部の地震活動を受けて-南海トラフ地震と西南日本活動期の関係”. JAMSTEC. (2022年7月7日). https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/column-20220707/ 2024年8月12日閲覧。 
  56. ^ “南海トラフ巨大地震の前後には規模の大きな「内陸地震」が起こるといわれる【命を守る天災学「内陸地震」1】”. 日テレNEWS. (2022年9月15日). https://news.ntv.co.jp/category/society/fcc96c9710214ee1b2d4ac285cd12349 2024年8月12日閲覧。 
  57. ^ “近年、西日本で相次ぐ活断層による内陸地震は“前ぶれ”か 西日本は南海トラフ地震発生前の『地震活動期』と専門家 「南海トラフ沿いに『ひずみ』は着実にたまる」”. TBS NEWS. (2024年8月9日). https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1349467?page=3 2024年8月12日閲覧。 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]