弓ヶ浜半島

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弓ヶ浜海岸(鳥取県米子市)

弓ヶ浜半島(ゆみがはまはんとう)は、鳥取県西端部にある半島である。弓浜(きゅうひん)半島、夜見ヶ浜半島、五里ヶ浜ともいわれる。日本の白砂青松100選に選定されている。

概要[編集]

弓ヶ浜半島は鳥取県西端部から北西に向かって細長く延びた全長約17km、幅約4kmの砂州で、日本海美保湾)と中海を分け、先端部は島根半島との間に境水道を形成している。全体的に標高が低くなだらかで、山がほとんど存在しない。日本海側は長い砂浜がある。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、伯耆国風土記』の逸文は「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている[要出典]ことから、古くは島であったと考えられている[1]。その後、日野川から流れ出た土砂が堆積して半島が形成されたが、応永5年(1398年)に成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれていることから、平安時代にはすでに半島が形成されていたと言われている[1]

半島には米子市境港市日吉津村がある。砂浜には防風林として松が植樹され、松原が沿うようにして広がっている。半島の先端にある境港を中心として、漁業が盛んであるほか、半島の中を流れる人工河川、「米川」による灌漑でおよそ2000ヘクタールの農地が耕作されている[2]

歴史と産業[編集]

半島北部にある境と外江の周辺は古くから水上交易の重要な寄港地の一つであった。戦国時代には戦略的に重要な水軍の拠点とされ、尼子氏毛利氏などによりここを争奪する戦いが相次いで行われた。文明3年(1471年)8月には境松合戦永禄6年(1563年)11月には弓浜合戦などが起こった。その後は毛利氏の支配下に置かれ、吉川氏の管掌下にあった。江戸時代に入ると隣接する美保関と共に北前船などの寄港地として栄え、漁業も盛んであった。

半島として陸続きになったことで農業が行われるようになったが、灌漑用水がほとんどなかったことから、旱魃時の被害が大きかった[3]。これを克服するために、1700年に米村所平の提案に基づき、鳥取藩によって車尾村大字観音寺戸上から弓ヶ浜半島への水路開削が開始された[3]。3段階に渡って行われた用水路の拡張工事により、1759年には先端の境港まで延長され、提案者である米村の一字をとって「米川(よねがわ)」と命名された[3]。水田のみならず、木綿の産地として成長し、木綿は藩を代表する特産物となって[3]「伯州綿」(伯耆の木綿)と呼ばれ、弓浜絣が発達した[1]。このほか甘藷などが栽培された。明治20年代になると、外国産の安い木綿が輸入されるようになり、弓ヶ浜半島での綿作りは衰退し始めた[1]。綿に代わって栽培されたのは桑の木で、養蚕業が主体となった[1]。伯州綿も2008年以降、境港市が耕作放棄地などを活用した復活プロジェクトに取り組んでいる[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e ふるさと米子 探検隊 第8号 (pdf)”. 米子市立図書館. 2015年10月1日閲覧。
  2. ^ 弓浜半島のあらまし/西部総合事務所農林局/とりネット/鳥取県公式サイト”. 鳥取県. 2015年10月1日閲覧。
  3. ^ a b c d 中国四国農政局/1. 鳥取県 米村所平(よねむらしょへい)”. 農林水産省. 2015年10月1日閲覧。
  4. ^ 贈る「おくるみ」鳥取・境港 新たな命に特産綿『毎日新聞』朝刊2017年7月30日

関連項目[編集]

参照[編集]